27.終わりの始まり

 気がついたら、私はいつの間にか仕事を終えていて、ナランチャと共に彼の家に戻っていた。
 ほとんど何も考えられなかった。何を考えるべきなのかも、よくわからなかった。

 イタリアでギャングとして暮らすことをやめ、よく思い出せない日本に戻り、家族と共に平和に暮らす。
 ブチャラティから提示されたその道は――本当に、私にとっての幸福なのか?
 わからない。私は、日本のことを何も覚えていない。それを思い出すために日本に戻ること自体はいいのだが、それでこの街、ネアポリスから去るということには、どうしても違和感を覚えてしまう。
 しかしそれでも、私は本来、ここにいるべきではないのかもしれない。故郷にだって、行方不明になっているであろう私の帰りを待つ人は、いるのかもしれない。
 私は本来、この国の人間ではないのだから。その事実は、何故か心に暗くのしかかった。


「なんかさ。急に、いろいろあったよな」
 ナランチャは、独り言のようにポツリと呟いた。帰り道もあまり会話が弾んでいなかったから、彼の言葉を聞くのはやけに久しぶりなような気がした。
「……そうだね。私、まだ何もできていないし、心の整理もできていない。だけど、日本に行って仕事をしなきゃいけないし、それに。……これからどうするのかも、決めなきゃいけないんだよね」
 私の言葉を最後に、沈黙が場を支配した。
 ナランチャも、ブチャラティが私に言った言葉の意味は、わかっているはずだ。日本に行って、そのまま日本で暮らしてもいいという選択肢を、ブチャラティは私に与えた。
 それはつまり、私たちが二度と会えなくなってしまうかもしれない、ということなのだ。

 ナランチャは不意に振り返り、笑顔のような表情で私の目をみつめた。
「ま、でも、ナマエが故郷に帰れるってんならさ。それが君にとって一番なんだよ、きっと! だからよ、そんな顔すんなよな」
「…………」
 私は、そんなに酷い顔をしているのだろうか。私はそんなに、この国から、彼らから、離れたくないと思ってしまっているのだろうか。
 だがむしろ、ナランチャの表情の方が痛々しく思えて、私は目を見つめ返すことができなかった。
 それがどうしてなのかは、わからない。ただ、笑顔に見えるナランチャの顔が少し寂しげに見えたのは、私の勘違いではないと思いたかった。


 私はそれから、私に宛てがわれた部屋に戻り、とりあえず自分の荷物をまとめることにした。
 心の整理は、未だできていない。それでも、身体は機械的に荷物をまとめていく。
 ――思えば、私がこの家に泊まっていたのは、わずか二週間程度だ。そもそも、私の記憶すら、ここ一ヶ月半程度のものしかない。
 気がついたら見知らぬ土地にいて、目の前には自分が殺したのかもしれない男が倒れていて。逃げるように盗みでなんとか食いつないで、それができなくなって。浮浪者のようになって、ナランチャに拾われて、入院して。そして――ギャングとなって、ナランチャの家に転がり込んだ。
 今までのことを振り返ってみて、思う。私は本当に、ナランチャたちにお世話になりっぱなしだ。もっと言えば、迷惑をかけてばかりだった。
 そんな私が、このまま日本に戻ってしまって、本当に良いのだろうか。そもそも私は、本当に日本に戻った後、日本で平和に過ごすべきなのだろうか。
 ――君の親も心配しているだろう。親とはそういうものだ。
 ブチャラティのこの言葉が思い出される。ブチャラティの心情としては、私のことをギャングの世界には巻き込みたくなかっただけなのだろう。だからこそ、彼は私のことを、リスクを承知して日本に帰そうとした。
 しかし――いきなりチームに入った女が、急に『死んで』抜けるとなったら、その処理は大変だろう。
 また、迷惑をかけることになりかねない。そもそも、返したいと思っていたのに返せていない彼らへの借りだって、山程ある。
 それに。

「ナランチャ……」
 誰も聞いていないと知りながら、私は零した。
 このままの状態で、私は、彼の元を立ち去って良いものか。本当に、それで良いのだろうか。胸の奥にある違和感のようなものが、どうしてもつっかえている。
 だから私は、考えなくてはならない。日本に行った後、そのまま『故郷』である日本で平和に一生を暮らすか、それともイタリアに戻ってきて、彼らの元でギャングとして暮らすか。どちらの道が、私にとっての正しい道なのか、見極めなければならないのだ。
 そのためには、日本で全ての片をつけなくてはならない。
 一週間後の私は、どちらの道を選び取っているのだろう――そう思い、息を吐いた。


 気がついたら、自分の荷物は大体まとまっていた。
 そして私は、荷物の奥の方にしまわれていたパスポートを手に取った。これを使って、私はこの国を飛び出さなくてはならない。荷物が戻ってきたときに、パスポートが紛失していなかったのは幸いだった。
 何気なく、パスポートを眺めてみる。だが、それに載っている『記憶を失う前の私』の写真の隣に書いてある国籍が、「お前はこの国の人間ではない」と言っているように感じられて、気が滅入った。
 それでも。この一ヶ月半程度、色々な場所をさまよっていたけれど、やはりこの場所が一番居心地が良かった。そう考えると、どうも感慨深く思えた。
 それと同時に、もしかしたらこの場所ともお別れして、本来の『自宅』に行く選択をするかもしれないと思うと、どこか悲しかった。

「……ん?」
 荷物の中身を確認しているとき、見慣れないものが出てきた。荷物の奥の奥の方に、手帳のようなものがあったのだ。
 こんなもの、最初から持っていただろうか。もしかしたら、今まで確認しそびれていたのだろうか。
 そう思って確認しようとしたとき――突如、部屋の外から声をかけられた。
「ナマエ、ちょっと入っていいか?」
「う、うん」
 当然、ナランチャの声だ。私は慌てて、ナランチャに応対する。
 手帳のようなものは、とりあえずしまい込んだ。少し気になったが、後で確認すればいいと、そう思った。

 ナランチャは少し、遠慮したように部屋に入ってきた。そして部屋の様子を一瞥した後に、私の方を見る。
「部屋、だいぶ片付いちまったな……」
「私の荷物なんて、最初からそんなになかったように思うけど」
「まあ、そうかもしれねーけど」
 もともと物置として使われていたこの部屋から私の荷物がなくなり、この物置は明後日以降、物置に戻ってしまうのだろう。私がこの街に戻ってこなかったら、確実に。
 そう考えると、確かに寂しい気持ちになる。私のいた痕跡がなくなってしまうのかと思うと、余計に。

 そんな、私が微妙な心情になっているのを知ってか知らずか――ナランチャはひとつ、唐突に質問を投げかけた。
「なあナマエ。イタリアに来て、オレたちと一緒にいてさ。君は、楽しかったか?」
「……うん」
 突然の質問に驚きつつも、私は多くの感情を抱きながら、重く頷いた。
 そうだ。私はナランチャたちといて、とても楽しかった。そんな当たり前のような事実を、今更のように思い知る。
 決して多いとは言えない私の記憶の中に、楽しいという感情を刻みつけてくれたのは、いつだって彼らだった。
 そしてその中心には――いつだって、ナランチャがいた。彼はいつだって、太陽のような笑顔で、私のことを引っ張ってくれていた。
「じゃあよ、せめてもうちょっと楽しもうぜ! 明日、オレも休み貰ったしよ。出かけたりさ、一緒に話す時間くらい、あるだろ? ……もしかしたら、これが最後かもしれねーし」
「……うん!」
 そんな私のヒーローは、きっと、最後まで私にとってのヒーローなのだろう。そして私にとっての、たったひとりのナランチャ・ギルガとしてあり続けるのだろう。
 そう思うと、心が締め付けられた。それと同時に、かけがえのない人との大事な時間を大切にしたいと――そう思った。

 しかし、本当にこれが最後になるか、それはわからない。もしかしたら私は、日本で暮らすことに疑問を持って、イタリアに戻ってくる可能性もある。
 だけど、その可能性は低いと、きっと皆、無意識的に思っているのだろう。……おそらく、私自身も。何か理由をつけてこの国から去るのに違和感を覚えていても、自分の国に帰るべきなのだと、そう思っているのだろう。
 本当に、最後になるかもしれない。どちらにせよ、そう思う方が良いのだろう。中途半端に後悔を残したままで、日本で暮らすことはあまり考えたくない。
 ナランチャと共に、名一杯楽しい明日を過ごそう。お別れの前に、最高の記憶を私に刻みつけよう。
 私は、そう決めた。ナランチャの笑顔が、いつもどおりに眩しかった。


 私は彼の笑顔を眺めながら、ふと思う。
 デート。これもまた、デートのようなものなのだろう。
 だけど、最初のデートの前日とは違った感情が、私の身体を駆け巡る。あのときは初めての体験に緊張のようなものを抱えていた――けれど、今は違う。
 二回目にして、ナランチャとの最後のデートになるかもしれないと、ぼんやり思った。

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