■ディエゴと長編夢主の日常
▼ディエゴ長編『貴公子と蛇』第15話前後
ふう、と私は自分のピアノの前で息を吐いた。
最近、色々なことが起こった。起こりすぎた。私が暮らしていた平穏な日常は、私の望んだ生活は、ディエゴのせいで全て失われた。
だけど、それでも残っているものはある。唇の純潔という誇りを失おうと、舞踏会から追い出されて結婚の資格を失おうと。私にはまだ、確かに消えていない誇りだって存在していた。
そのひとつがこの、花嫁修業として培った、ピアノだった。
指で鍵盤を叩くと、やや調子外れな音が鳴り、思わず怯んで指を止めてしまう。そういえば最近、ピアノを弾く時間なんてなかった、とふとそう思い返した。義母が六十歳も年下の男と出会い、結婚するなんて言い出した時は説得するのに必死だったし、二人が結婚してからは、言わずもがな。
腕は確実に落ちている。私はため息をついた。だからといって、私の誇りが失われたというわけではない。花嫁修業として必死に培った誇りは、そんな簡単に失われるものではないのだ。
二、三度、試しに和音を弾いてみる。……うん、悪くない。この調子だったらきっと、弾ける。
椅子に座り、一呼吸おいて、指で鍵盤を叩き始めた。
音楽が鳴り始めた。
一度弾き始めると、指はもう止まらない。ところどころつっかえるところはあるものの、しばらく練習をしていなかったことを考えると、上出来と言ってもいいくらいだろう。もはや指は私の意思を離れ、ひたすら音を奏でている。
そしてその軽やかな旋律を聴きながら、私は独りの世界に籠るのだ。私が奏でる調べの中で、ぼんやりと、ここ最近のことを思い浮かべる。
男がこの家に来る前のこと。彼がこの家に来てからのこと。最悪な出遭いのこと。そして――
私の人生では色々なことが起こった。特にここ最近は、良いことなんてなかったと言っていいくらい。思い出すのも嫌なことだって、たくさんある。
だけど。このピアノのメロディーの中では、何故かそれが嫌にならなかった。母と呼んだ、優しい女のこと。彼女との思い出が脳裏に過り、そして。
ディエゴ・ブランドーという男と、出遭ってしまったことが、しばらく私の頭から離れなかった。
そして、音楽が止まった。そのまま私は、呆然とするように黙り込む。自分の心を、整えるように。
しばらくそうしていた。何もしたくなかった。
――その無音は、唐突に破られた。
ぱちぱちぱち、と嘲笑するような音がして、思わず勢い良く振り向いてしまう。すると。
小馬鹿にしたような表情で大袈裟に手を叩く男の姿が、そこにあった。
「見事なもんだな、お嬢様」
「……聞いていたのね、ディエゴ」
怒る気力もない。そう思ったところで、何故怒ることがあるのだろうと、ふと思った。
「そりゃあ、ね。私だって頑張ったのよ。結婚して幸せを掴むため、花嫁修業のため。上流家庭の貴族の一人娘として、相応しい所作を身につけるため。……私にはもう、無理な話だけれど」
言葉にすればするほど、やるせなくなる。私の人生は既に、台無しにされてしまっている――
「そうだろうな。ナマエ、今や君が結婚できるはずがない」
「……誰のせいだと思っているのよ」
そして、ため息。言い争うことすら疲れてしまう。
と、ディエゴは私の言葉には反応せず、私の方に近付いてきた。何かと思えば、ピアノの鍵に指を置き、そして、音を出した。
「……? 何してるの?」
「フン、なるほどな」
私の問いには答えず、ディエゴはその長い指を適当に動かし始める。法則性のない音は音楽とは呼べず、少々不愉快だ。
「ピアノ触るの、初めてなの?」
「弾く機会なんてなかったからな」
そうだったのか。そういえば私はこの男のことを何も知らないのだなと、今の状況も忘れて思ってしまった。
多分、単なる興味だ。彼は見知らぬ物に興味を抱いているだけ。気ままに指を動かすディエゴを見ていると、私は思わず、こんなことを口から零していた。
「良かったら、教えてあげてもいいけど」
私は一体何を言っているのだろう。自分のことながら、口にしてから変に思った。
しかしディエゴは、肩をすくめて軽く躱した。
「必要ない。単なる気まぐれだ」
「何の気まぐれで、あなたがピアノに興味なんか持つわけ?」
やっぱりこの男の行動は、よく分からない。しかもその後に続く言葉は、ただの皮肉だった。
「何も。結婚なんてできなくなった君が費やした努力は結局無駄なものだったなと、そう思っただけさ」
「……言われなくても、わかってるわよ」
そう、無駄だった。ピアノだけではない。私の願いは、叶うことなく終わった。
「とはいえ。ナマエ、君が今日ここでそのピアノを弾いたことが無駄だったか否かは、オレの知るところではないが」
その言葉に信じられないような気持ちになり、思わず顔を上げる。
戯れに弾いてみたピアノで何が起きたかといあと――ディエゴにピアノ曲を聞かせたという、それだけなのに。
「……何が言いたいのか、分からないわ。用がないなら帰ってくれない?」
思わず、いつも以上に邪険にしてしまう。するとディエゴは、抵抗することもなく、あっさり引いてしまった。
「ああ、邪魔したなお嬢様」
そして彼は去ってしまう。そのまま、再び静寂が訪れた。
私の前には結局、何もなかった。
あの男は一体何しにやって来たのだろう。これ以上ピアノを弾く気にもなれなくて、結局、鍵盤蓋を閉じてしまった。
――見事なもんだな。
その言葉を不意に思い出す。ピアノを弾いていた私にかけた言葉を。
もしかして、その言葉には嘘がなかったとしたならば。その気持ちを伝えるためだけに、私に声をかけたのだとしたら。
ありえない、とかぶりを振る。それこそ無駄な話だ、彼がそんなことをするとは思えない。
……それに、仮にもしそうだったとして、だから何だと言うんだ。だからといって、私の状況は何も良くなっていない。
やっぱり気まぐれだ、ただの気まぐれ。私は気まぐれにピアノを奏で、ディエゴは気まぐれにそれを聴いた、それだけの話だ。そういうことだと思うことにした。
私の日常は、今日も、何事もなく終わろうとしていた。