■アンハッピーバレンタイン?

「あの、召使いさん」
「あれ、どうかしたの? 使用人さん」
 やや緊張しながら声をかけた私に、その人はいつも通りの笑顔で返事をした。
 ニコニコニコニコ。希望の戦士の召使いである彼は、何をされてもいつも笑って流している。首輪をかけられても、顔に落書きをされても、何をぶつけられても、縛られたとしても。
 だけど、私はそうはいかない。希望の戦士のご機嫌を伺いながら、必死に生きている。朗らかとも言える笑みを浮かべる彼に、私はやや不機嫌になった。
「……名前で呼んでって言ったじゃないですか」
「ああ、そうだったね。……で、何の用? 苗字さん」
 素直に名前を呼び直してくれた彼に、少しだけ溜飲を下げる。私は希望の戦士の使用人ではあるけれど、彼の使用人になったつもりはないのだから、私が名前を明かしている限りは名前で呼んでほしかった。
 同時に、私は彼のことを自分の召使いだとは当然思っていないのだが――彼が名前を教えてくれないことには、「召使いさん」としか呼びようがない。
 それは、少々気に食わないところなのだけれど。

 コドモたちに捕まって命乞いをした結果、希望の戦士の召使いになった彼。
 コドモたちに捕らえられたが、『まだオトナになりきっていない』と判断され、彼らの料理担当として使用人になった私。
 私たちは、共に希望の戦士に振り回される毎日を送っているが――そんな中で、この男とは少しずつ、話す機会が増えていった。
 少し話してみてわかった。彼は不思議な男だ。もっと言うのなら、狂った思考を持つ男だ。
 希望。絶望。こんな絶望だらけの世界で、それでも世界に希望が満ちると信じている。そのためには何だってすると、絶望にだってなってやると、そう言っていた。
 そんなの狂っている。それはわかりきっている。
 だが――こんな狂った世界で、こんな狂った男に何故か惹かれてしまった私も、同様に狂っているのだろうけど。


「みんなのためにお菓子を作ったんですけど、余ってしまいまして。お裾分けです」
 召使いさんに対して、私はラッピングされたお菓子を差し出す。
 この言葉の半分は嘘だが、半分は本当だ。希望の戦士のみんなにバレンタインということでチョコをせがまれたため、せっかくなので甘いチョコクッキーでも作ってみたこと自体は事実だ。
 だが、みんなに分け与える以上の量を作ったのは意図的であって、たまたま余ってしまったのではない。それだけが嘘だった。
 私は彼にも食べてもらいたかった、それだけだ。
「ふーん、苗字さんがこれを、ね」
 なるほどね、などと言いながら彼はしげしげとそれを右手に取って眺める。なんてことない、手作りのチョコクッキー。
 緊張しながら彼のことを眺める。召使いさんはしばらくそうしていたが、ふと、少し困ったように笑った。
「あはは、参ったなあ。ボク、甘いものは苦手なんだけど」
「……えっ」
 その言葉に、愕然とした。
 失敗した。知らなかった。どうせならしっかり好みを聞いておくべきだった。せめて、もっと甘さ控えめにしておけば良かった。
「えっと、じゃあ、食べなくてもいいですよ。このくらい、自分で食べますし」
 せっかく作ったものを食べてもらえないのは悲しいけれど、仕方ない。事前に断りも入れず、勝手に渡した私が悪いのだ。――この調子だと、彼は今日がバレンタインということを、気にしていないみたいだし。
 できるなら、いつもヘラヘラ笑ってばかりの、彼の本心の笑顔を見てみたかった。それが私の本音だが、彼の好みに合わないのであれば、それもできないのだ。そのお菓子を返してもらおうと、少し悲しくなりながら私は手を伸ばした。
「うーん、折角だしいただくよ」
「えっ」
 しかし、彼は私が伸ばした手を放置して、右手だけでラッピングを解いた。手袋に隠された左手は使わずに。
 完全に予想外だった。私が呆然としている中、彼はそっと、クッキーを手にとって、そして口に運んだ。

「え、えっと、どうですか」
 戸惑いながら、彼の様子を伺う。彼は特に表情を変えずに咀嚼してそれを飲み込んだかと思うと、へらりとした笑顔で、いつもの調子で喋り始めた。
「うーん、甘くて固い、特に取り立てて言葉を飾る必要のない、平凡なクッキーだね。わかっていたことではあるけれど、やっぱりキミには、絶対的な才能なんてないんだね。超高校級の料理人とは程遠いや」
 超高校級? なぜ今ここで、あの希望ヶ峰学園の話をするのだろう。
 ふとそう思ったけれど、それ以上に、彼の感想にがっかりした気持ちのほうが勝った。……仕方のないことなのかもしれないけど。
「……文句を言うなら食べなくて良かったんですよ、甘いもの嫌いなんでしょう」
「別に、嫌いとは言ってないよ。ただ、あの甘ったるくて胸に残る感じが苦手なだけだよ」
「……本当に、食べなくても良かったのに。あなたはあの子たちの言うことはなんでも聞くけど、私の言うこと聞く必要なんてないですよね」
 拗ねた私の言葉に、まあね、と彼は返す。
 本当に何で食べたんだろう――そう思った私に、彼はぽつり、こう言った。
「でも。キミがそうやって平凡だからこそ――何かを覆して、その結果生み出す希望があるかもしれない。もしかしたら、だけどね」
「……希望?」
 急に何を言い出すんだろう、この男は。そう思ったが、まあいつものことかと思い直して、私は返答する。
「私が希望を生み出すかもしれない、って……何言ってるんですか、召使いさん」
「あくまで可能性の話だよ」
 ごちそうさま、と言って彼は笑う。その微笑みに、今は何故か無性に苛々した。
「ね、平々凡々で特に特徴のない、オトナでもコドモでもない使用人さん?」
 使用人さん。そう言われたことに、また苛々する。
 私は名前を教えている。だから名前を呼んでほしい。
 それに。
「……いい加減、名前を教えてくれたっていいのに」
 私はいつだってこう思っている。だけど、私がこうして呪詛のように放った言葉も、彼は軽く受け流す。
「ボクなんかの名前を言う必要はどこにもないんだよ。キミに対しても、平凡な主人公さんに対しても、ご主人様に対してもね」
 平凡な主人公。それは私のことではない。だけど彼はその平凡な主人公に、やけに期待をかけている。……私とは違って。
「なら、その必要があったら、……私に、名前、教えてくれますか」
「それが必要なら、ね」
 コドモみたいに駄々をこねる私の言葉も、同じように笑って流す。
 それから彼は少し考える素振りを見せたあとで、やっぱり胡散臭い笑顔を見せた。
「ま、キミがそのときになってもボクの近くにいるようなら考えるよ。これからボクらがどうなるかなんて、ご主人様たち次第なワケだし。お互いに、ね」
 そのときとは一体どのときだろう。そう考えてみたところで、無駄か、と思った。
 彼はきっと、私に名前を教える気なんて毛頭ないのだろう。私の名前は知っている癖に。
 好きでもないチョコレートなんて、食べた癖に。

「……もう、いいです。食べてくれてありがとうございました」
「こちらこそ、チョコくれてありがとう、苗字さん。バレンタインチョコだったんでしょ? ボクなんかがもらっていいのかとは思ったけど、もらえるものならありがたく受け取るよ、あはっ」
 何だ、今日がバレンタインだと気がついていたのか。そう思いつつも、素直に返すこともできなくて、ぶっきらぼうにこう言った。
「……どうも」
 私が不機嫌にそう言ったところで、彼はいつもの表情を崩すことはなかった。
 妙に胡散臭い、何を考えているのか全く読めない、あの上っ面だけのニコニコとした笑顔を。


「絶望のボクに対して、平凡なキミは、果たして希望なりえるのかな? あはは、まあ、ボクの本命は平凡な主人公さんだけど――」
 私はそそくさとその部屋を後にしようとする。背後から聞こえてくる声には、聞こえないフリをして。
「キミにはちょっとだけ、期待してるんだよ。使用人さん」
 その言葉が本心なのかそうでないのか、何も掴めないまま。


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