■アステカから来た女

 夜にしか見かけない女がいた。
 父親の経営する酒場に時折やってきて、幼いディオによく話しかけてきたが、ディオはその女、ナマエのことが嫌いだった。
 理由はない。ただ、貧民街という地獄のような環境にいながら飄々としている彼女のことを見ていると、苛々させられるのであった。
「私ね、アステカから来たのよ」
 酒を飲みながら冗談のように放たれたその言葉が、何故か冗談のように聞こえなくて、当時のディオはただ、顔を顰めてこう応答した。
「三百年以上前の国だろう、それ」
「あら、貧民街の子供のくせによく知ってるのね」
 そしてナマエは笑った。その笑顔がディオは、無性に気に入らなかった。

 彼女との交流は、そう長いものではなかった。父、ダリオの経営する酒場が潰れ、当然のように彼女と話す機会も無くなった。それからディオは貧民の少年から貴族の養子へと成り上がり、貧民街時代の知り合いなど、全てがどうでもいいものとなった。
 それから、百年以上もの間。ディオはナマエのことを、一度たりとも思い出すことはなかった。


 それなのに。一体これは何だ。
「……おまえは」
 DIOの口から思わず言葉が漏れ出る。
 百年以上前と変わらぬその女。笑顔。記憶よりも随分小さく見えるが、それは彼女が小さくなったわけではなく、DIOの方が身長が伸びたということなのだが。
 そう。その女は何一つ変わらない。
 人間であった頃から優秀だったDIOの頭脳は、吸血鬼となったことで、百年前の記憶も問題なく取り出すことができた。
「まさか、おまえがナマエだと、そう言うつもりか?」
 言葉こそ疑問の形を成していたが、DIOは確信していた。
 この女は確かに、ナマエだと。
 百年以上前に知り合った、ただのくだらない女だと。

 そんなはずがない。
 馬鹿な、と。思わずDIOは口にする。このDIOの他に時を超越した者などいるはずがない。
「ディオ?」
 だが等のナマエは、不思議そうな顔をしてこちらを見るだけだ。
「まさか、本当にディオなの?」
「おまえ……何故ここにいる? 何故、百年以上前と全く同じ姿で、このDIOの前に現れる?」
 微妙に噛み合わない会話。ナマエはただ微笑んだ。
「言ったでしょう」
 それは百年前と全く同じで、だからこそ異質なものに感じられた。
「私、アステカから来たのよ」


 DIOはその言葉に、百年前の記憶を再び思い返す。
 かつての養父、ジョースター卿は確かに言っていた。あの石仮面は、アステカ文明のものだと。メキシコの遺跡で発掘されたのだと。
 DIOが吸血鬼となった石仮面は、既に破壊されているが――石仮面は複数あった。遥か昔に滅びた過去の人間があの石仮面を使って何をしていようとDIOには全く興味の無いことであったが、しかし、生き残りがいるとなれば話は別だ。
 ナマエは――アステカ帝国で石仮面を使用し、数百年も前から生き続けている、吸血鬼の生き残り。それをただ、確信した。

「アステカ文明……古びた、カビ臭い文明の生き残り、か」
「でも、その古臭い文明の遺産を使って、あなたも吸血鬼になったのでしょう?」
 そしてナマエは笑う。DIOはその様子を、百年前と全く変わらない笑みを観察するように眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「ナマエ。貴様がここにいる理由は理解した。ならば――貴様を生かしておく理由はもはや無い」
「え? ……何故?」
 心底不思議そうな顔を見せるナマエ。そんな彼女にDIOは、攻撃の手を伸ばそうとした。
「――何故なら! この世で永遠を生きるべきは、このDIOだけだからだッ!」

 そして。
 DIOが話している途中、DIOが攻撃を始めるより一瞬だけ早く。
 ナマエは間合いを取った。吸血鬼でなければ、目で追うことも難しいほどの速さで。
「……私だって、吸血鬼だから。全力で逃げようと思えば、逃げられるわ」
 その距離、十メートル以上。それに気が付いたDIOは、攻撃を中断した。
「チッ。射程距離から出たか」
 そしてDIOは睨み付ける。次の一手をどうすべきか。どうすればこの女を始末できるのか。
 彼が次の手を出すのを先回りするように、ナマエは口を開いた。
「ディオ。あなたが何を望んで百年間、この世に生きているかなんて知らないけど。私、別にあなたの邪魔をしようってつもりじゃあないのよ」
「ほほう、ならばどういうつもりだと言うのだ?」
 一瞬の沈黙。それからナマエは、静かに語り出した。
「世界を支配するつもりなら、とっくにやってるわよ。私はただ、適当に生きながら、この世の興衰をこの目で見たいだけだわ」
 彼女はそこで微笑む。百年で変わった世界の中で、自分はただ一人変わらないのだと主張するように。
「ほら……アステカの頃とは考えられないくらい、世界は進んでいる。私が生まれた時からは、考えられないくらい」
「……」
 不本意だが、DIOにも同意する気持ちはあった。DIOが海底で眠っている間にこの世は世界大戦を経て、DIOが生まれた頃からは想像も難しいほど世界は発展していた。DIOよりも三百年も生きているナマエなら、尚更そう思うのだろう。

 DIOはナマエのことを見る。観察するように。
 それから彼は、静かに口を開いた。
「……おまえの言い分は分かった」
 その言葉に、ナマエは無言でDIOを見上げる。DIOは淡々と、言葉を続けた。
「わたしは世界を統べる。その邪魔をしないと言うのなら、わざわざおまえのことを始末する必要もない」
「そう。そうしてくれると嬉しいわ」
「だがな」
 安心したように頷いたナマエの言葉を遮り、DIOは鋭い視線を彼女に寄越す。警告するように。
「ナマエ。きさまのような存在を、みすみすと逃がすわけにはいかんな。このDIOの側に控えていろ――さもなくば、ナマエ、おまえに命はない」
 それは、有無を言わさぬ命令であった。

「監視体制ってわけ? あんまりあなたの部下にはなりたくないわね。私にとってあなたは、貧民街のディオ少年のままよ」
 彼女はため息を吐いたが、とはいえ、拒否する理由もなかった。
 ナマエにとっては、全てが暇潰し。終わりのない暇潰し。
 ただ、もしかしたらこの終わりのない生を、永遠にこの男と共に生きることになるのかもしれない、と彼女は思ったが――それはそれで。
「でも、いいわ。あなたが世界を支配すると言うのなら。それで世界がどう変化するか、私も見てみたいから」
「……生意気な女だ」
 DIOはナマエの言葉に思うところもあったが、それ以上は口にしなかった。


「ねえ、DIO」
「何だ」
「いくら、百年以上生きている男と女だからといって。早々に出会えるものではないわよね。すごい偶然だわ。運命みたいな」
「……実際、運命なのだろう。引力は確かに存在する。わたしにとっては、忌々しいものだが」
 そして二人は闇に消える。引かれ合うように、反発し合うように。
 時を超越した二人の関係は、今後も永遠に変わらないままだと。そう主張するように。


- ナノ -