■最初と最後の

「あれ? ジャイロじゃない」
「ゲッ……ナマエか」
 こんな反応をしてしまったが、しかし、いつかこんな日が来るような気はしていた。SBRレースにて――最初は目立たなかったが、上位陣がリタイアしていくと、段々と上位に食い込んでくるようになってきた女だ。
 ナマエ・ミョウジ。
 オレが一度だけ、抱いた女。


「知り合いか? ジャイロ」
 ジョニィの訝るような詮索に、まあな、と短く返す。
 知り合い。確かにその程度の関係だ。そして互いの身体のことも知っているわけだが、それでもその程度だ。
 患者だった彼女と知り合い、どちらともなく抱き合ったという、ただそれだけの。
「おい、ジャイロまさか……彼女なのか? 君が前に寝た人妻っていう……」
「いや、その人妻とは違う女だ……というかオメー、何か勘違いしてねーか? オレはあの女が人妻とは知らなかったんだが」
 以前ジョニィに話した人妻とは勿論違う(オレは不倫なんてしたつもりはなかった)。
 ナマエのことは、何故か。あんまり軽々しく話そうとも思えなかった。
「ねえ、なんの話してるの?」
「……なんでもねーよ」
 閑話休題。今重要なのはナマエであって、他の女ではない。
「それより……何か用か? オレは別に、ナマエ、おまえに用はねーんだけどな」
「つれないのね、一回抱いた女に対して」
 そして彼女は妖艶に笑った。ジョニィはぽかんとしながら、オレとナマエの顔を見ている。
「いいじゃない、少し話をするくらい。もう夜更けだわ……休憩するつもりでしょう? 私だって、たまには誰かと取り留めもない話をしたいのよ。ずっと、一人でレースを走ってきたから」

「……どうするジャイロ?」
 警戒したような目線を、ジョニィはナマエに向ける。だがオレは、ナマエが『遺体』を取り合う刺客には思えなかった。
 ただ、オレが複雑な気持ちになるだけなのだ。――故郷のオレを知っている女と、再び出会ったことに。
「……一晩だけだ。それでいいな?」
 しぶしぶ承諾すると、ナマエは、心から嬉しそうに笑った。


「私も別に、タダで協力しようなんて言ってるわけじゃあないのよ……ほら、前に寄った村で、プリンを貰ったの。どう、カスタードプリンよ?」
「へー、ナマエ。結構いいのもらってるな。女の子ってやっぱり、そういうモノよく貰えるもんなの?」
「たまたまよ、ジョニィ。その村で泊めてくれた人が、たまたまお菓子作りを好んでいただけだわ」
 ……案外、ジョニィとナマエが思いの外打ち解けている。
 ジョニィのことだから、ナマエが少しでも怪しい動きをすれば即!爪弾を撃ち込むだろうが……あまりにナマエが平和なためか、特にそのようなことが起こらない。その性格でよくここまで走ってこれたなと、思わず感心する。
「ま、貰えるもんならなんでも貰うぜ……病気以外はな。一緒にコーヒーでも飲むか?」
 ジョニィとナマエの間に割り込む。ナマエが、ジョニィと仲良くしているのを見るのは……なんだか、自分でもよく分からないが、気に食わない。
 そんなオレの心なんて知らずに、ナマエは無邪気にカップを受け取る。そして一口、飲んだ。
「このコーヒー、良いわね! なんだか……心の底から元気が湧き出る感じだわ」
「ニョホッ、お気に召したようで何よりだぜ」
 彼女の笑顔に、苛立ちが消えていく。我ながら単純だ。
 そしてオレも、自分で淹れたコーヒーを飲んだ。いつも通りの苦味をナマエも一緒に飲んでいるというのが、なんだか奇妙だった。


 それから、数時間後。
 気を遣っているのか、いないのか。ジョニィは「今日は疲れたから寝るよ、見張りの時間になったら起こしてくれ」なんて言いながら、さっさと寝てしまった。
 そしてナマエと二人きりになった途端に、妙な沈黙が降りる。外でのキャンプを、この女と一緒にする日が来るとは思っていなかった。
「……ナマエ、オメーも眠いなら寝とけよ。見張りは一人で充分だ」
「嫌よ」
 即答。それに面食らっていると、彼女は小さく呟いた。
「折角、ジャイロと話す機会ができたのに」
「…………」
 そして、ため息。オレのだ。身体しか知らないような女に話したいことなんて、別にない。
「気になるじゃない。病気を治してもらったお礼をしたいと思ってた人が、レースに参加するなんて聞いたら。私がお礼したい人は、何が欲しいのかしら、って」
「……お前さんは、他人のことを根掘り葉掘り詮索する教育を受けてきたのか?」
「そういうわけじゃあ、ないけど」
 冷たく突き放そうとする。……ナマエに話すべきことなんて、何もない。
「おまえさんが知る必要はないことだ……それに。あんまり下手にオレたちに首を突っ込む必要はない。死人が出るようなレースだ……お前さんが首を突っ込んだところで、いいことなんてないと思うぜ?」
 そして、沈黙。だが彼女は、不意に表情を緩めた。
「優しいのね」
 オレはまた面食らった。一体何を言い出すんだ?
「私を巻き込まないようにしてくれてるんでしょう? ……あなたたちがタダ事ではないことに巻き込まれていることは、今の口ぶりで分かったわ」
「……そーかい」
 ぶっきらぼうに返す。だがナマエは、くすくすと笑うだけであった。


「ねえジャイロ、お願い」
「……何だ?」
「もう一度、もう一度だけ――」
 じっ、とお互いの目を見つめ合う。彼女の瞳は熱っぽく潤んでいる。
 ため息。彼女が何を欲しいのかは、分かっている。
 そして、オレが何をしたいのかも。
 だから、口付けを交わした。一度だけ。きっとこれが、最初で最後の彼女とのキスだ。
 身体しか知らなかった女の唇にあったのは、何の情だと言うのだろう。何かを確かめるように、二人は、唇を重ね合わせ続けていた。


 次の日。オレたちが目を覚ますと、既にナマエは出発していた。あれから交代で見張りを続けていたが、オレとジョニィが寝ている隙に、もう出発したらい。
「……あれ? ジャイロ。彼女は?」
「もう出発するんだと。さっさと先に進みたかったんじゃあねーか?」
 適当にはぐらかしておく。ジョニィは何か聞きたそうにこちらを見ていたが、結局オレは、それ以上は何も言わなかった。


 ナマエとオレは、違う道を旅するのだろう。その旅路が、一瞬だけ交わったという、それだけの話。
 一度抱き、一度口付けを交わした女。彼女の温もりをなぞりながら、オレは、今日も走る。
 自分の旅路を、一直線に進むために。


- ナノ -