■壁を溶かすように

 仕事が休みの日、オレはよくジェラテリアに行く。で、顔見知りの店主のおっちゃんと世間話をして、オレンジ味のジェラートを買って食べ歩きする。生クリームのトッピングも忘れずに。
 だからオレは今日もいつも通り、そのジェラテリアがある路地に入っていったわけだ。まだ店までは距離が少し離れていたが、何気なくその店の方向に目を向けて、ん? って不思議に思った。
 店に立っているのがいつものおっちゃんじゃない。女の子だ。知らない子。アルバイトでも雇ったのかな。
 ま、ジェラートの味が変わらなければなんでもいいか。そう思いながら店に近づく。小さな店だけど、味はいいんだよな。
 そして、その店に辿り着いた。注文しようと顔を上げて、店頭に立つ女の子の顔をしっかり見た瞬間、オレは固まってしまった。
「いらっしゃいませ! ジェラートですか? 何味にしましょう?」
 女の子の屈託のない笑顔に、思わず言葉が詰まった。何を言おうとしていたのか、全部吹っ飛んじまった。あー、えーっと、なんて言いながら、オレンジ味ひとつと、なんとかそれだけ言った。
 心臓がバクバクする。顔が熱い気がする。何より、彼女から目が離せない。
 彼女がやけにキラキラして見える。名前も知らない彼女が。ジェラートを手渡された時も、オレは、ドギマギしながらそれを受け取るしかなかった。
 ――多分、これ、一目惚れだ。


「と言っても、女の子との付き合い方なんて、よくわかんねーんだよなァ……」
 帰り道、オレンジ味のジェラートを口にしながら、独り言を言う。昔、不良仲間とふらふらしていたときも、男とばっかり話していた。……あの時のことは、あまり思い出したくないけど。つまりオレは、同年代の女の子と話すことなんて、あまり慣れていなかったわけだ。

 ジェラートを受け取ったあの後、オレは彼女に少しだけ声をかけた。
「えっと……君さァ、見ない顔だけど。いつものおっちゃんはどうしたんだ?」
「父は……えっと、店主は元気ですよ。ただ、最近歳を取って店頭に立ちっぱなしが辛いとのことで、それなら私が立とうと思ったんです。ちょうどアルバイトしたいところだったので」
「ふーん……」
 あのおっちゃん腰悪そうだったもんなあ、と納得する。彼に娘がいるとは知らなかったけど。
 彼女の顔をちらりと見ながら、オレは、乾く口で聞いた。
「君、名前はなんて言うの?」
「ナマエです。……常連さん、あなたは?」
「――そっか。オレはナランチャ、ナランチャ・ギルガだ。また来るよ、ナマエ」
 そして、そのままオレは帰ってきてしまったわけだ。態度には出さないようにしたけど、すごく緊張した。こんなに緊張したのはいつぶりだろう。

 ナマエ。ナマエか。彼女の名前を頭の中で呟きながら、ジェラートを食べ切る。あんまり焦っていたから、生クリームのトッピングを頼むのを忘れてしまっていた。次は忘れないようにしよう。
 一目惚れなんて初めてだ。というか、恋なんて初めてだ。そういうものがあるってことはこの国にいれば分かるけど、それでも、オレには今まで縁のなかったことだ。知らない女の人に追いかけ回されることはたまにあるけど、そんなときはいつも逃げてたし。
「……明日、仕事帰りにもう一回行くか」
 そして、密かに決意する。仕事のある日にあの店に寄ることは今までなかったし、オレには恋の仕方なんて分からない。それでも。
 ナマエにもう一度会いたいと、そう思ったから。


「あっ、ナランチャさん! また来てくれたんですね」
「うん。えっと、ジェラートひとつ。生クリームのトッピングもしてくれ」
「かしこまりました!」
 君に会いに来た。そう言いたかったけど言えなかった。ナマエの笑顔を見ると考えていたことが全部吹っ飛んじまう。生クリームのトッピングを頼めただけ良かったのかも。
 ジェラートを手渡しながら、ナマエはにっこり笑ってこう言った。
「ナランチャさん、学校帰りですか?」
 ナマエは世間話のつもりで話題を振ったのだろう。だけどその言葉に、ほんの少し、ちょっぴりだけ、心が重くなった。
 ブチャラティの元で働くこと自体は、誇りに思っている。十五の時に半年だけ学校に戻ったあと、通うのを辞めたことにも後悔はない。だけど今だけ、言葉に詰まってしまった。
「いや、仕事帰りだよ。オレ、学校には行ってないんだ」
 そして、なんとかその言葉を絞り出した。
 ナマエは、オレのことをどう思うだろう。オレとナマエは違うのだと、自分の言葉にそう突きつけられた気分だった。
「そうですか……私と同じくらいの歳で働いているなんて、立派ですね。大変じゃないですか?」
 彼女は詳しいことは聞かなかった。ただ、オレのことを肯定してくれる。それがなんだか嬉しくって、そしてどこかむず痒かった。
「……ああ。でも、これが、オレの決めた道だからな。大変だと思うことはあるけど、すっごくやりがいがある仕事だよ」
 そう言いながらオレはジェラートを口に運んだ。ナマエの言葉は、オレと彼女を繋ぐようなものに思えて、思わず笑みが零れた。
 客は他にいないし、もう少しくらい彼女と話してもいいだろう。オレがナマエと話せる日は、この店にいるときくらいなのだから。

 それからナマエと世間話をして、笑顔で別れた。昨日よりはスムーズに話をすることができた。ナマエはオレのことを全く否定しなかったし、むしろ褒めてくれたくらいだけど、ほんの少しの心の重さが、全てなくなったわけではなかった。
 オレは思う。
 ナマエは、普通の女の子だ。学校に通いながらアルバイトをしているだけの。きっと、親からも普通に愛されている、普通の女の子なのだろう。
 そんな彼女に、オレは恋なんてしていいんだろうか。
 カタギの女の子であるナマエに、これ以上、深入りしていいんだろうか。


 それからまた別の日。仕事が休みの日のこと、オレはいつものようにその店に寄っていた。
 あれから、そのジェラテリアに寄る日が増えていた。もはや休みの日の習慣だったし、仕事帰りに寄ることも多くなっていた。
 ナマエがいない日もあったし、店主のおっちゃんが立っている日もあった。それでも、ナマエと会える日が来ると、すごく嬉しかった。
 オレは女の子の口説き方なんて知らない。彼女とこれからどうなりたいかも、よくわからない。
 ただ、これからもナマエに会いたいと。そう思っていたことだけは、間違いなかった。

「ナランチャさん、今日もオレンジ味に生クリームをトッピングでいいですか?」
「うん、よろしく」
 ナマエは慣れた手付きでジェラートを掬う。いつものメニューだと答えると、彼女はくすくすと笑った。
「ん? どうかしたか?」
 不思議に思って聞くと、ナマエは楽しそうに微笑んでいた。
「いえ……ナランチャさん、最初は生クリームのトッピングしてなかったな、と少し思い出しまして」
 その言葉に赤面する。仕方ないだろ、と言いたかったけど言えなかった。
 だって。それを言ってしまったら、オレがナマエに一目惚れをして、緊張していたことがバレてしまう。彼女のことを口説くにしても、そんなにカッコ悪いところは見せたくなかった。

「……なあ、ナマエ」
 思わず、といった調子で言葉が零れる。ナマエは不思議そうな顔で、オレのことを見上げていた。
「なんでしょう?」
「今度……今度さ。デートしないか?」
 ほとんど無意識に言っていた。彼女の笑顔を、この店の外でも見たいと思ってしまった。
 ナマエのことをもっと知りたかった。
 彼女に、オレのことをもっと知ってほしかった。
「いいですよ」
 きょとん、としたあと、ナマエは嬉しそうに微笑んだ。その表情に、思わずどきりとする。
「ナランチャさんと一緒に、私も、デートしてみたいです」

 その言葉に、なんだか救われた気分になる。
 彼女とオレの間にある壁が、なくなったわけではない。ナマエは普通の女の子で、オレは学校にもロクに通っていないギャングの下っ端だ。
 それでも……それでも。
「いつも、ナランチャさんがジェラートを食べているのを眺めているだけですけど……。今度は、私もナランチャさんと一緒に何か、美味しいものでも食べたいです」
 ナマエがそう笑ってくれるなら、今だけはそれでいいと、そう思いたかった。
 だからこれが、オレたちを結ぶ、ほんの少しの第一歩。


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