■一生に一度の

「名前、結婚しよう」
「えっ、は、えっ!?」
 いきなり何を言い出すんだこの漫画家は。唖然としながら、私は思わず、食べようとして手に持っていたクッキーを落としてしまった。……テーブルの上の小皿の上に落ちた。セーフ。
「おっ、いいなァその表情。今まで見たことないぞ、しばらくそのまま固まっていてくれ」
 ……うん。いつもの岸辺露伴だ。スケッチブックとペンを取り出してこちらをじっと見て筆を走らせる露伴には構わず、私はお望み通り固まってやることにする。……いやまあ、突然こんなことを言われたら、どっちにしろ固まるしかないのだけど。


 状況を整理しよう。私は確かに、露伴と付き合っている。私の方から好きになって、最初の頃は邪険にされていたけど、なんだかんだ付き合うことになった。今もこうして、露伴に呼ばれて、彼の仕事終わりに彼の部屋で軽くお茶をできるくらいの関係にはなっている。ちなみに私は、今日は休日だ。
 ……でも、あなたと付き合い始めたの、たった一週間前の話なんですけど? そこら辺どう思っているんですか、露伴先生。
「フム……なかなか悪くない顔できるじゃあないか。そのマヌケ面、気に入ったぜ、名前」
「ほ、ほんとだ……変な顔……」
 私が固まっている間に完成したスケッチブックを見せられ、思わず素直な感想を言ってしまう。
 いや、その顔にさせたの、露伴の方だからね?

「露伴……えっと……本気? その、結婚、って……」
 恐る恐る彼に聞く。付き合ってくださいと言ったのは私の方だけど、結婚を前提に、なんてことは一言も言っていない。……つまり、結婚なんて考えていなかった。私も露伴も二十歳そこそこだし、まだ早いかなと。これから付き合っていって、彼と一生を共にしたいと思えば、結婚のことを視野に入れていこうかとも思っていたけど……。でも、まだ一週間だ。いくらなんでも早すぎる。しかも、プロポーズなんて!
 だが、私のこの言葉は、露伴はお気に召さなかったらしい。
「君ねェ〜〜、この岸辺露伴が! 冗談でプロポーズするとでも!?」
 冗談かどうかはともかく、リアリティ追求のためにはやりかねないと思う。
 だが、どうやら彼は本気であるらしい。その瞳に今更のようにドギマギしつつ、本気で言っているらしいからこそ頭を抱えた。……私、どう返事すればいいのだろう?


「言っておくがな、名前。ぼくはリアリティ追求のためにはなんだってやる。……ぼくと交際するということは、そういうことだ。君にはその覚悟ができているのかと……そういうことを聞きたいんだがな」
「つまり、それはどういう」
「端的に言えば、そうだな。たとえぼくが取材のために全財産を売っぱらって家がなくなっても、君はぼくの彼女、または妻として添い遂げる自信はあるのか?」
「ぜ、全財産……」
 そんなまさか、と一瞬思ったが、脳内ですぐに訂正する。確かにこの男ならやりかねない。漫画のためなら命以外の全てを捨てそうだし、その命だって「死んだら漫画が描けなくなるから、漫画のためであっても不本意ながら捨てられない」という考えなのだろう。
 そんな、漫画を描くことに全てをかけている男と――本当に、私は添い遂げる覚悟があるのだろうか?
「言っておくがな、ぼくは本来恋人なんてものに興味はないし、結婚なんて以ての外だ。人間関係なんて面倒なものでしかないからな。……君だから、結婚してやってもいいと思った。だから、ぼくは今、名前と付き合っているんだ」
 その真剣な瞳に、思わず胸が高鳴る。……ここで、その顔にその言葉はズルい。やっぱり私は、露伴が好きなんだと、そう思わされる。
「だが、ぼくと結婚する覚悟もないのなら、早めに別れた方がいい、って話だ。それが、お互いのためってやつだろう」

 露伴のことを見つめる。漫画に全てをかけている男。そのためなら、なんだってやりかねない人。彼に付いていくことは、生半可な覚悟では難しいだろう。それはわかる。
 ……それでも。私は、露伴のそういうところが好きなんだ。

「で、ぼくと結婚するのか? しないのか? イエスかノーで答えろよ」
「イエス、です……」
 降参するように、私は答えた。
 ……うん。仕事終わりに、お茶をしている途中のプロポーズ。しかも付き合って一週間。普通ならこんなプロポーズは受けないけど。
 だけど。露伴となら、むしろこれがいいのかな、とただそう思った。


「そうか。で、籍はいつ入れる?」
 私がプロポーズを受け入れても、露伴は平然としている。今になって断られても困るが、私は動揺しっぱなしだったのに、なんとなく不公平な気持ちになった。
「式は、挙げないの?」
「あー……」
 だから、逆に聞き返す。すると、露伴は急に歯切れが悪くなった。
「その、君が挙げたいと言うのなら、挙げてもいいが……」
 その表情を見て、ピンと来た。
 ……ちょっと、照れてる?
「絶対挙げようよ。一生に一度の晴れ舞台だよ? 貴重な体験、『リアリティ』になるって!」
「……君、結婚式の体験が、ぼくの漫画に使えると思っているのか? それに、適当な親戚の結婚式くらい、ぼくも見たことあるんだぜ」
「だけど……自分のお嫁さんのウェディングドレス姿を見たときの気持ちは、自分の結婚式でしかわからないでしょ?」
 ぐ、と露伴は口を噤む。この素直じゃない漫画家に、綺麗だと言わせてやると、密かに誓った。もう、マヌケ面なんて言わせないから。


 少し満足した気分になったので、一回落ち着いて、さっき小皿の上に落としたクッキーを口に入れた。うん、美味しい。
 露伴との結婚生活はきっとかなり大変だろうけど、きっとなんとかなるだろう。いや、なんとかしてみせる。覚悟と一緒に、それくらい露伴が好きという気持ちを込めて、私は露伴に抱きついた。
「……いいか。ぼくがプロポーズするのは、君が最初で最後なんだからな、苗字名前。忘れるなよ」
「うん。忘れないよ。だって私はこれから、岸辺名前になるんだもんね。一生そうだよ」
「…………」
 そして、露伴も抱き返してくれた。この温もりがあれば、きっと私たちは大丈夫だろうと、そう思った。


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