■そして彼女は途方に暮れた

 粗末な服装で物乞いする浮浪者、わけもなく暴力を振るう者、その日生きるために売春せざるを得ない少女たち。
 こんな、地獄のような光景が溢れかえっているのが、私が住む貧民街での日常だ。
 そんな中で、私がいつから、近所に住む少年――ディオ・ブランドーとチェスの対戦をするようになったのか。正直なところ、それは覚えていない。
 ただ、決して娯楽のためではなく、生きる術のひとつとして始めたことだけは確かだった。

 この世界でゲームに勝つ力があるということは、生きる力があるということになる。
 くだらないゲームに大金を賭ける輩は多い。そんな輩に確実に勝利することができれば、こんな貧民街で儲からない仕事をするよりかは、一度に金が手に入る。
 だから私たちは、チェスの腕を磨くための対戦相手として、互いのことを選んだのだ。子供であり実戦経験のなかった私たちが、賭けに慣れた大人たちといきなり対戦したとして、勝てる見込みは限りなく低かった。金を賭けることなく、それでいて腕を磨くためにチェスの対戦をできる相手。それは、私にとってはディオだけだったし、ディオにとっても私だけだった。
 それはまさしく、利害の一致によるものであって、この利害関係が成立しなくなった途端に解消される関係だとは、理解していた。
 理解していたつもりだった。


「チェックメイト」
 この言葉を私がディオに対して言うことができたのは、一番最初の対戦のときだけだった。
 チェスのルールは知っていたが、実戦経験は一度もなかった私たち。最初に私が勝てたのも、ほとんど偶然と言って良かった。
「やった! ディオに勝てた」
 それでも、私にとっては充分嬉しかったし、ディオにとっては充分に悔しかったようだった。
「……もう一度だ、ナマエ」
 その時、ディオはとてもゆっくり、ゆっくりと言葉を重ねた。それは、闘志を燃やすようでもあったし、悔しさを噛み締めるようでもあった。
「今の対戦で、大体のコツは掴んだ――次に勝つのは、ぼくだ。このディオだ」
 唇を噛んでいる彼の姿を見て、私は少し意外な気持ちになった。あくまでこれは練習であって、勝ち負けはあまり重要でないと、負けたとして悔しがることではないと、そう思っていたのだ。
「わかったわ。でも、きっと次も私が勝つから」
「それはどうかな」
 全く根拠のない自信に満ち溢れた私の言葉を、ディオは慎重に、それでいて軽く鼻で笑った。

「おいおいナマエ、最初の威勢はどうしたんだ?」
 再び対戦したとき、私は見るも無残に負けてしまった。
 盤上の様子を瞬時に把握する観察眼。数手先を読んで駒を動かす判断力。何より、その頭の回転の早さ。
 全てにおいて私は、ディオに負けていた。最初の対戦は、単に互いに場の空気を掴めていなかっただけなのだと、そう思い知らされた。
「もう一回、もう一回よ。次はまた、私が勝つわ」
 最初の対戦のとき、悔しがっていた彼の気持ちが手に取るように理解できた。敗北というものは、それがたとえ練習であったとしても、かなり悔しいものなのだ。私の中に暴れまわる敗北感を抑え込めるために、私は唇を強く噛んだ。
「何度やったって同じことさ。まあ、ぼくも練習相手は欲しい――しばらくは、付き合ってやっても良いが」
 ディオがこう言い放った通りだった。次に対戦したときも、私は敗北した。
 この日だけではない。何度対戦しても、日を置いても、数ヶ月経った後でも、私はディオに勝つことができなかった。
 だけど。

「ナマエ。君、前よりちょっぴり腕が上がったんじゃあないか?」
「ディオ、あなたの方こそ」
 何度も対戦しているうちに、互いに少しずつ、チェスの腕が上がってきていることは実感できた。それでも、私は決してディオには勝てなかったのだけれど。
 それが悔しくもあったが、『いつか必ずディオに勝ってやる』という思いは、私自身のチェスの腕をより上げているように感じた。
「いつか必ず、またあなたに勝つわ。あなたに勝てたら、私はこのチェスの腕を使って、自信を持って賭けをできると思うの。自信を持って、稼ぐことができると思うの」
「どうかな。そんなことを言っていたら、君は一生チェスで賭けなんかできないぜ、ナマエ」
「何よ。私が一生ディオに勝てないって言いたいの?」
「そう言ったつもりだが? 君はもう二度と、このディオには勝てないさ。ぼくに勝てなくったって、その辺の阿呆どもに勝つくらいはできるんじゃあないのか? ぼくに勝つことよりも、大人たちを打ち負かす方を考えた方が利口だと思うがな」
 端正な顔を歪め、ディオは少年だとは思えないほどに美しく笑った。
 そんな少年を見て私は――この少年を、再び打ち負かしてやりたいと思った。彼に勝つことができるまで、彼と話しながらチェスの対戦をしようと、そう思っていた。
 その中に別の感情が混じっていたことは、気が付かないふりをした。


 ディオに勝ちたい。
 そんな私の願いが叶うことないまま、いつしかディオは、私とチェスをしなくなってしまった。
 それは、彼の父親が経営している酒場が潰れ、さらに言うなら彼の母親が亡くなった頃の話だっただろうか。
 ディオが私と対戦しなくなった理由は簡単――『金が手に入らないチェスは、彼にとって全くの無駄となったから』。
 本格的に金が必要となったディオにとって、練習目的の、賭けをしないチェスは無駄なものになってしまったのだ。
 私が何も賭けないというのなら、もう私とはチェスをする意味がないのだと。事実、ディオは知らない大人たちの世界に入り、チェスで勝って金を手に入れられるようになったようだった。
 それでも。それでも私は、またディオとチェスをしたかった。
 あわよくば、彼の顔にもう一度、『チェックメイト』とぶつけてやりたかった。
「……それに」
 あの綺麗な金の髪。宝石のような瞳。いつの間にか私は、彼のことを打ち負かすこと以上に、彼自身に対して焦がれていた。そのことに、私は今になって気がつく。
 そう、私は彼のことを打ち負かしたくもあったし、ディオのことを手に入れたくもあったのだ。
 だけど。もうディオは、金が手に入るメリットがない限り、チェスをすることはない。
 それならば。


「ディオ、チェスをしましょう」
「……誰かと思えば、ナマエじゃあないか」
 ディオは私に気がつくと、小馬鹿にしたような態度で私のことを見た。
 なんだか、彼の声を聞いたのは随分久しぶりなような気がする。ディオは私の方を向いたが、さして興味なさげにこう言った。
「前も言ったと思うが……君の頭は生まれたてのヒヨコか何かか? 賭けも何もしないゲームに価値はない、と言ったはずだが」
「賭けるものならあるわ」
 私が堂々と告げると、ディオは訝しげに眉を顰めた。だから私は、彼に向かって金銭を放り投げた。
「これで、どう?」
 私が放り投げた金貨の数を見て、ディオは目を見開いた。あれから私が稼いだ分と、家から持ち出せる分だけ持ち出したお金。これを失ったら私は破滅に向かうことになるが、それでもこの金額を賭けることには意味があった。
 こんな金額、この貧民街では大金だ――チェスで打ち負かした訳ではないが、ディオがこんなに驚いた顔を見ることができたのは、ただただ愉快だった。
 私がディオにチェスで勝てた時、彼はどのような顔を見せてくれるのだろう。そう思うと、気分が高まるのが自分でも分かった。

 少年は少し沈黙した後、私に向かって確かめるように言った。
「良いのか? 君は一回もこのディオに勝てたことがないだろう。『ディオに勝てるまではチェスで賭けをしない』なんて言っていた君が、どうやってこんな金を作ったのかは、あえて聞かないが――ぼくに、この金を全て渡しても良いというのか?」
 彼が何と言おうと、何を探ろうと、私の気持ちはもう決まっている。
「構わないわ。私が勝つのだもの」
「なるほどな」
 私の答えに、ディオは少し、考え込むような素振りを見せた。私は、彼が答えを出すその前に、畳み掛けるように言った。
 私が持つ気持ち。『ディオにチェスで勝ちたい』ということ。そしてさらに強い、もうひとつの願い。
「そして、ディオにはお金の代わりに、違うものを賭けてもらうわ」
「何をだ?」
「あなた自身よ」
 私が静かに告げたその瞬間、重たく冷たい沈黙が訪れた。

 私はディオ自身に焦がれている。だからといって、彼が私のことを受け入れるはずもないことくらい、私にはわかっていた。
 だから、私はわざと、挑発するように言ったのだ。
 彼は自身の価値を『この金と同等』と評された、と受け取るだろう。貧民街では大金であるとはいえ、プライドの高い彼が、品定めされたような行為を許すとは思えない。
 挑発されたことが理解していたとしても、彼は私のことを完膚無きまでに打ち負かさないと気がすまないはずだ。
 案の定、冷たく重い沈黙の裏で彼が表した感情は、どこまでも強い怒りだった。
「このぼくを――このディオ自身を、売れと言うのか」
「売れとは言っていないわ。賭けろって言ってるのよ」
 私の挑発に、怒りの感情を抑えきれないようで、ディオは強く歯を食いしばった。
「……良いだろう。だが、ナマエ! おまえ、このぼくのプライドを傷つけるようなマネをしたこと――ぼくは許さない。決して! せいぜい後悔しないように藻掻くんだな、ナマエ」
 彼が勝負に乗ったことに、私は半分安堵していた。彼が勝負に乗らないと、そもそも私は彼を打ち負かすことができない。
 それに、ディオに打ち勝ち、誇りを傷つけられた彼を手に入れることを考えると――自分の気持ちが、どこまでも昂ぶりはじめているのがわかった。
 本当に勝てるかどうかはわからない。だけど私はチェスの本も読んで勉強したし、ディオの癖も見抜いているつもりだ。
「私は絶対に負けないわ。あなたこそ、自分を賭けると言ったこと、後悔しないでよね」
 だから私は、挑発する態度を変えずに言った。するとディオは、依然私のことを睨みつけながら、不気味なほど静かにこう言った。
「そうか。――そこまで言うなら、ぼくは全力でやろう。君もせいぜい、その金を失って野垂れ死なないように這うんだな、ナマエ」
 こうして、火蓋は切って落とされた。


 ゲームの始まり。着実に、時に大胆に私たちは駒を進める。
 全力で集中して、私たちは盤上の駒を見渡し、時に相手の顔色すら伺う。
 自分の駒を切り捨ててでも、相手のことを追い詰めることだけをひたすらに考える。
 私たちは、殺意すら抱いてこのゲームに臨んでいた。
 ディオの美しくも鋭い視線に怯みそうになるが、それでも私は、決して臆さず対戦に挑む。
 一見静かに見える、盤上の戦い。でもそれは、決して静かなものなんかではなかった。
 相手が賭けているものは、自分の一番欲しいもの。自分が賭けているものは、自分が今持っているものの中で、最も失いたくないもの。
 尊厳と、誇りと、未来が交差する戦いの中で、私たちはただ、全てを投じて戦った。
「チェックメイト」
 そして。
 最後の最後に、こう言ったのは――


「これで満足か? ナマエ」
 私は呆然と、盤上の駒を眺めた。
 身動きが取れず、今にも奪われてしまいそうな、私のキング。
 そのキングを追い詰めた、ディオの駒。彼はその駒を手に取り、私のキングをいとも簡単に奪い去った。
 追い詰められた時点で、私は既に敗北しているというのに。
「チェックメイトの意味、知ってるか? 『王は途方に暮れた』」
 そしてディオは私のキングを投げ捨てた。そして、軽くそれを踏みつけ、私のことをどこまでも嘲笑う。
「今の君にピッタリな言葉だなあ、ナマエ。確かに、腕は前より上がっていたように思うが、それでもこのディオには及ばなかったな。まあ、この金はありがたく受け取っておくか。これだけあれば十分そうだな」
 私が賭けた金貨を持ち、ディオは上機嫌に呟いた。その光景に、私は絶望すら抱く。
 私が欲しかったディオのことを、私は結局手に入れることができなかった。そして、ほとんど全財産を失った私に残された道は――破滅への道。
 嗚呼。いつしかこの私が、くだらないゲームに大金を賭ける輩と同じになってしまっていた。
 だけど、私にとって、このゲームはくだらないゲームなんかじゃなくて。
 ディオという少年と交流する、私にとっての唯一の手段で――

「それとナマエ、おまえは、このぼく自身を賭けろ、と言っていたな。その言い回し、全く気に入らないが――」
 ディオは、呆然としている私を引き寄せた。
 何をするのかと呆気に取られたその一瞬、彼は私の唇に、自らのそれを重ね合わせた。
 ――え?
 永遠にも思える一瞬。だけど、一瞬という時は、容赦なく過ぎ去った。
 何をされたのか、それを理解する暇もないくらいに。
「こういうことだろう? このくらいのことはしてやる、どうせ最後だしな」
 彼の行動と、言葉の意味が全く理解できない。私は、唇の感触のなごりを感じながら、後ろ髪引かれる思いで、言葉を紡ぐ彼の唇を見つめるしかなかった。
「ただし、だ。二度とおれの前に現れるな」
「え……?」
 いつになく強い口調でディオは言う。だけど、彼が何をしたいのか、何を言いたいのか、全くわからない。
 私は、わけもわからず呆然としていた。すると、ディオは呆れたようにため息をつく。
 そして彼は――今の私にとって、最も辛い処刑宣告をするのだ。
「じゃあ、さよならだ、ナマエ。多分、もう二度と会うことはないだろうね」
 そしてディオは踵を返す。彼の後ろ姿、歩く姿を、私は呆然と見送るしかできあかった。
「ディオ……?」
 ようやく我に返って、私が呼びかけても、既に彼には届かなかった。
 そして、最後に触れた彼の温もりのなごりにすがりたくても、どうしてもそれは手のひらから零れていくばかりだった。
「……どうして」
 何も、わからない。何も、理解できない。何もできないまま、彼は私のもとから姿を消してしまった。
 自分が情けなくて、わけがわからなくて、どこか悔しくて――
 私はもう、全てを忘れて消えてしまいたかった。


 数カ月後、ディオの父親が死んだことと、ディオが貴族に引き取られたことを知った。結局ディオは、二度と私の前に姿を現さなかったのだ。
 そして、最後まで彼にチェスで勝てなかった私はというと、チェス以外のことでどうにか稼ぎながら生きている。
 破滅の近い、地獄のような日々に飲み込まれてしまいそうになりながら、私は死んだように生きていた。
 そして、思う――私はもう、二度と誰かを追い詰めることなどできないのだろう。もしかしたら、一生私は誰かに追い詰められながら生きていくかもしれないし、そもそも生きることすらままならないかもしれない。
 そんな、呪いに近い感情を持て余しながら――私はただ、最後の彼の温もりだけを、大事に私の中に残した。
 途方に暮れた王の駒のことを、常に固く握りしめながら。


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