■秘境に在る魂

「お、名前じゃあないか。いい所で会った。今から君を探そうとしてたんだぜ」
「……どうも、露伴先生。こんにちは」
 買い物に出かけようとすると、やけに機嫌が良さそうな露伴先生に遭遇した。かなり嫌な予感が私の中を走り抜ける。―――露伴先生の機嫌がいい時は、大抵ロクなことが起こらない。
「名前、今暇だろ。付き合えよ」
 案の定、露伴先生は平然とそんなことを言い出した。そしてそのまま踵を返して歩き出してしまう。私は文句を言いながらも、思わずついて行った。
「暇じゃないです! 今から私は、歯ブラシとポケットティッシュと……えっと、あとは歯磨き粉を買いに行くんです」
「別に後でもいいだろ。そのくらい後でぼくが買ってやる。いいから来いよ」
 露伴先生はこちらを一瞥もせずにどんどん歩いてしまう。少し苛立ったので、こっそり逃げ出そうとも思ったのだが、やっぱりやめて大人しく付いていくことにした。
 もし逃げたら、彼の『スタンド』を使われてしまうかもしれない。抵抗したところで『ヘブンズ・ドアー』に、何か書き込まれてしまうだけだろう。それはちょっと、嫌だ。

「で、どこに行くんですか。一人では行けない場所なんですか? それにしたって、康一くんでもいいじゃないですか。なんで私が? しかも、私の買いたい物を買ってくれるなんて、そこまでして……」
「―――勘違いするなよ。ぼくは別に、君を誘いたかったわけじゃあない。むしろ、君にしかできないから、仕方なく君を誘ってやったんだぜ。感謝しろよな」
 露伴先生はそう言うも、狐につままれたような気分になった。私にしかできない? 彼は一体、何を言っているのだろう。
「……? はあ、そうですか……」
 露伴先生は相変わらず私の方を見ようともせず、どんどん歩いていってしまう。私は釈然としない気持ちになっていたが、黙ってついていくことにした。
 この人と言い争っても、特段いい事は無いだろう。腑に落ちない微妙な気持ちを抑え込んで、とりあえず彼の後ろを歩き続けた。


 露伴先生は急に、駅についたところで足を止めた。そして腕時計を確認したと思ったら、迷わず駅構内へと入っていく。私は慌ててついて行って、先生に文句を言った。
「……まさか、少し遠出するんですか?」
「そうだ、切符はもう買ってあるから心配するな」
 露伴先生は時刻表を確認した後で、切符を私に渡した。私が思わず受け取ってしまったところで、彼はまたどんどん進む。
「お、列車の時間は丁度いいな、もう改札が始まってる。行くぞ、名前」
「え、あ、はい……」
 そう言って私は、露伴先生の後に続いてホームへと降りた。未だにどこに行くのか知らされていないが、私はもう、どうにでもなれ、と半分諦めていた。


「……で、露伴先生。私たちは一体、どこに向かうんです?」
 電車の中は空いていたので、普通に座ることができた。ようやく足を休めたところで、私はやっと先生を問いただす。すると彼は、口角を上げて私にこう告げた。

「俗に『秘境駅』と呼ばれている所だよ。名前もそのくらい、聞いたことくらいはあるだろ」

 露伴先生は、興奮したように言った。それに対して私は、疑問符を頭に浮かべ、首を傾げてしまう。そんな私のことを見て、露伴先生は呆れを隠そうともしなかった。
「オイオイオイオイ、まさか知らないなんて言うつもりじゃあないだろうな。ああ、もしかして君、普段本読まないのか?」
「馬鹿にしないでくださいよ……。で、なんなんです、『ヒキョウ駅』って。卑怯者が集まる駅ですか?」
 私がムッとしながらそう聞くと、露伴先生はさらに呆れたようだった。そんな先生を見て、私も更に腹立たしい気持ちになってしまう。
「まさか、その『ヒキョウ』なわけないだろう。『秘境』―――まあ、世に様子が知られていない、神秘的な雰囲気がする場所、とでも言えばいいかな。要するに、利用者が激減して、周りに民家もないような駅のことだ」
 なるほど、と私は納得し、頷く。それを確認した露伴先生は、またペラペラと語り始めた。

「ぼくは、あと十年、二十年もすればその存在がテレビで出回り、秘境が秘境ではなくなってしまう、と考えている。そんな腹立たしいことになる前に、是非一度はお目にかかってみたい駅が沢山あるものでね」

 目を輝かせながら言う露伴先生を見て、得心が行く。いかにも露伴先生が好みそうなことだ。
「……ああ、なるほど。露伴先生らしいですね。で、『秘境駅』に向かうのはわかりましたけど。なんで私が必要なんです?」
「そこはただの秘境駅じゃあないんだぜ」
 ただの秘境駅、の意味がよくわからない。無意識に顔を顰めてしまう。

「ぼくはこれまでに何度か、そう言った駅に訪れている。大抵は山奥にあって、人も誰も住んでいない。まあ少し離れた場所に住んでいたり、遠い所に道路があったりもするがね。けど今回行く駅で興味深いのは―――男が一人、駅のすぐ近くの小さな家に住んでいるんだ。その家の半径十キロには、店も病院もなくて、ただ森が広がるだけだと言うのに」

 男が一人、駅の近くの家に住んでいる。『秘境駅』の半径十キロ以内には何も無いというのに。―――それは確かに奇妙なことだが、同時に思い出すこともある。『スーパーフライ』という『スタンド』を持つ男。鉄塔で自給自足の生活を送っていて、かつて東方仗助らを苦しめた男。話でしか聞いたことがない男だが、自然と彼に重ね合わせて、私は言った。
「自給自足の生活でも送ってるんじゃないですか。そっとしておいてあげればいいんじゃないですか?」
「つまらない奴だなぁ〜〜〜。そういう人こそ、色々な人生を送ってきているはずだ。彼のリアリティをぼくのものにしなければ、漫画家失格だよ」
 どこまでも岸辺露伴らしいことを言う彼に、私はため息をついた。だけど―――私は、一番知りたいことを、教えてもらえていない。
「はいはい、わかりましたよ。けど、露伴先生。どうして、私が必要なんですか? そこをまだ、聞かせてもらってません」
「お、名前、この次の駅だ。降りるぞ」
 三十分ほど列車に揺られていただろうか。いつの間にか、次降りる駅の名前は全く知らないものとなっている。何故か私はその名前を目にした途端―――底知れぬ嫌な予感がした。それは、寒気なんて生ぬるい言葉で言い表せないほどの―――殺気すら感じる悪寒だった。
「え、ちょ、ちょっと待ってください。次の駅ですか……? お、降りたくないです」
 震えながら言う私に、露伴先生は怪訝な顔を隠そうともしない。
「……なんだよ、ぼくの言うことが聞けないって言うのか? いいさ、そのまま終点まで行っちまえよ。金は払ってやらないがな」
「ええっと、それは嫌です。けど、そういうことじゃあ無くて……本当に降りたくないんです。なんでかはわからないけれど、ええっと……」
 半分泣きながら私は言う。『本能』が私に警告する。―――次の駅で降りてはならない、次の駅で降りてはならない。
 包丁で心臓を刺せば死ぬ、銃で頭をうち抜けば死ぬ。それと全く同じように、次の駅で降りたら死ぬ、という予感がした。包丁で心臓を刺されたことはない。銃口を向けられたことは無い。それでも私は、それをされたら死ぬ、ということは本能でわかっていた。
 本気で恐怖している私を見て、露伴先生はただ満足げに笑った。そんな彼のことが、甚だしく不気味に思えた。

「……フフ。どうやら、『噂』は本当のようだな」

 何がですか? と私が怯えながら聞いても、露伴先生は答えてくれなかった。それが一層、私の恐怖心を掻き立てる。そうしていると、やがて列車が止まった。底知れぬ嫌な予感は、徐々に、そして確かに増していくだけだった。

「―――さあ名前、降りるぞ。なんなら、手を握ってやってもいいんだぜ」
「……馬鹿にしないでください。お化け屋敷に怖がって、母親に甘える子供じゃないんですよ」
「そこは、彼氏に甘える彼女とかじゃあないのか? ―――まあ、降りてくれるならなんでもいいが」
 深呼吸をして、駅に降りる。だが、そのただならぬ予感は更に増していくだけだった。申し訳程度に設置してある待合室は小さく古い木造で、そして私たち以外には人っこひとりいない。私は怯えつつも、言葉を振り絞って聞いた。
「―――露伴先生、私たち、いつ帰れるんですか? こういう駅って、止まらないで、すっ飛ばされそうな気もするんですが」
「ああ、それなら心配するな。確か……一時間後には来るはずだったかな」
 一時間。その言葉に少し絶望する。この恐怖感と一時間も付き合わなきゃならないなんてたまったものではない。だけど―――次の日のこの時間までない、といった最悪の事態は免れた、というだけでも良い方向に考えなくてはならないのかもしれない。
「一時間もここに居なきゃならないんですか? 他の場所に行こうにも周りは一軒家を除けば、鬱蒼と茂る林と、断崖絶壁しかありませんし……もう帰りたいです。なんか変な匂いもするし」
「……変な匂い? 君、鼻がおかしくなっちまったんじゃあないか?」
 露伴先生はそう言いながら、辺りを見回して写真を撮ったり、スケッチをとったりしている。
 今の彼には私のことは見えていないのだろう。私は諦め、恐怖からどうにか逃れたくって、一人で縮こまっていた。

「まあ、スケッチはこのくらいで良いだろう。ここに来るのは初めてだが、秘境駅に来るのは初めてってわけじゃあないしな。それよりぼくは、君をあの家に連れていきたい」
「…………何を言っているんですか?」
「いいから、来いよ」
 私は露伴先生に無理矢理立たされ、腕を引っ張られる。足を一歩、一歩と踏み入れるたび、悪寒、そして殺気のようなものが膨れ上がってきた。
「男は一体、あの家でどうやって暮らしているんだ? 噂も気になるが、そこも純粋に気になるな」
「……露伴先生、私、一人で歩けます。離してください」
「ン、それもそうか。崖が近い、気をつけろよ」
 私は何を思ってそう言ったか、何を思って露伴先生の手を振り払ったか。それは分からなかった。ただ、恐怖と怯え、殺気のような悪寒から逃れたかった。

「……せんせー。お花畑がありますよ。あそこだけは、いい匂いがします。あそこに行ったら、安心できる気がするんです―――」

「……名前? 一体何を……」

 私は、突如目の前に広がったと思った花畑の中へ、思い切り飛び込んだ。
 甘い甘い香りが漂う花畑は、私が飛び込んだ途端に、崖へと変わった。目下に広がる青い青い海を見た途端、え、と思考が完全に止まる。

「―――名前ッ! 『ヘブンズ・ドアー』ッッッ!!」

 露伴先生が超高速で私に何を書き込んだのかは、私にはわからない。けれどその瞬間、私の身体は落下を止めた。浮遊しながら、私はちゃんと地面へと戻ってくる。ドッ、と今更ながら冷や汗を流し、同時に心からホッとした。それでもまだ、悪寒は止まっていないのだけれど。

「名前、一体何をやっているんだ!? 一緒にいるのがぼくで良かったな、ぼく以外の奴だったら、君は助からなかったぞッ!」
「あ、ありがとうございます……。けど、ろ、露伴先生……。あ、あれを……。『あれ』を、見てください」
 上の空でなんとか礼を絞り出す。
 だが私が見ていたのは露伴先生ではなく、露伴先生の背後にある小さな家から出てくる『それ』だった。底知れない恐怖に襲われてしまう。
 露伴先生は、ゆっくりと、ゆっくりと背後を振り返った。地鳴りが鳴るような緊張感に、ゴクリと唾を飲み込む。

 そこにいたのは、黒い塊だった。かつては人間であったのかもしれない、とも思わせるような、奇妙な姿をしている。どす黒い怨念のような、『何か』がそこにあった。

「何だ…………ッ、こいつは。聞いていた話と違うぞッ!? ここに住んでいるのは、魑魅魍魎の類いなんかじゃない、ただの人間じゃあなかったのか!?」
 露伴先生は警戒しながら、一歩後ずさった。しかし、『何か』はさらに一歩近付いてくる。だが『何か』は明らかに、私の方に向かっていた。悪寒を通り越して、恐怖だけでなく吐き気すら感じてくる。

『憎い。お前が、憎い。憎い。死んでしまえ、死んでしまえ』

 私に向かって、『何か』は理不尽なまでに責め立てる。私は後ずさりしかけたが、後ろはすぐ崖であることを思い出して、足を止めた。―――こんな誰もいない秘境駅に、逃げ場なんてない。

「何者だッ! 『ヘブンズ・ドアー』ッ!」
 露伴先生が『ヘブンズ・ドアー』を発現させ、『何か』に向かって攻撃する。しかし、『何か』は、それを弾き返した。
「―――えッ!?」
 そんな中でも、『何か』はまた私に向かって近付いてくる。私は、泣きたい気持ちで一杯になってしまった。
「……こいつ、まさか、ほとんど知能がないのか!? もはやこいつは、プログラミングされた『機械』のように、ただただ女を排除していくだけなのか!?」
 露伴先生が気になることを言っていたが、今はそれを問いただす余裕はない。ただ、『何か』のことをじっくり見て―――なんだか彼は寂しそうだな、と思った。思ってしまった。
 刹那。
 私の中に、記憶が駆け巡る。『何か』が人間であった頃の、記憶が――

 ―――駆け落ちした、世間から変人と蔑まれる男と女。永遠の愛を二人だけで誓って、ほとんど誰も使っていない駅の、誰も住んでいない小屋を安値で買って、自給自足の生活を始めた男と女。五年はそうやって、世から隠れ、お互い助け合って生きていた、男と女。お互いがなくてはならない存在となっていた、男と女。ある時、突然女が自殺して、独り残された男。女が死んだため、充分な食料を得ることができず、誰にも知られずに、孤独に苦しんで飢死にした男―――

 もしかしたら、私が崖から飛び降りそうになったのは、『何か』が私をその『女』として憎んでいるのだからではないだろうか。
 『何か』が私を憎むと言うのは、私のことをその『女』と重ねているからではないだろうか。
 そしてこのようなことがあったのはきっと、初めてのことではないのだろう。先生の言っていた『噂』とは、『この駅に女が降りると生きて帰らない』といった所だろうか?
 きっと、女性が来ればこのようなことが多々起こったのだろう。だから、露伴先生には殆ど影響がなかったのだ。

「―――ごめんなさい」

 私は、その『女』の代わりにそう謝罪した。『彼』が『彼女』に求めていることが何なのかはわからない。それでも私にとっては、そう言うしかなかった。

『ああ、うああ……』
 逃げ回るでもなく罵るわけでもない私のことを見て、『彼』は一瞬、戸惑ったように見えた。『戸惑い』という感情は、確かに『彼』のものだった。
 そう、『何か』は、『彼』に戻ったのだ。『彼』の身に宿るモノが、憎悪なのか、許容なのか、それはわからない。だけど『何か』は『彼』に一瞬でも戻ったのだ。それで、充分だった。
 そう。『何か』に知能はなくても、『彼』には知能があるはず―――

「今だッ! 『ヘブンズ・ドアー』ッ!」

 露伴先生は、『彼』に何かを書き込んだ。何を書き込んだのか、一言一句まではわからないけれど、私にだって大体のことはわかる―――きっと、『成仏する』とか、そこら辺のことだ。

 『彼』は、消えた。今まで私にのしかかっていた悪寒が、嘘のように消えてなくなった。

「……彼、なんだったんでしょうか。幽霊だったんでしょうか」
「さあな。ぼくには、怨みの念の固まりだと思えたが」
「少し、可哀想ですね。ずっと一人で、苦しんだ怨みを持ち続けて」
「―――飛び降りさせられて死んだ女にとっては、いい迷惑だったろうな。だが今日は、いい取材になった―――悪かったよ、何も知らせずに酷い目に合わせて。ぼくは『女』にはなれないから、『この秘境駅では女が降りることができない』なんて噂を、一人で検証することはできなかった」
「…………」
「噂は少し、古かったらしいな。男はここに一人で住んでるんじゃあなかった。既に男は死んでいた」

 私は、何も言うことができなかった。ただ少しだけ、何故かはよくわからないけれど、悲しかった。それから暫くの間、私たちは無言だった。
 帰りの列車が来るまで、私たちは何も話さなかったし、何も話すことができなかった。


 後日。
 礼を言うのを忘れていたな、と露伴先生は私の家を訪ねてきた。どうせまだ買っていなかったんだろ、と渡してきた袋には、あの日結局買うのを忘れていた、ポケットティッシュと歯ブラシ、そして歯磨き粉が入っていた。いつも使うものとは違ったが、まあいいかとそのままお礼を言う。
「あと、折角だからこれもやるよ。流石に生を渡すわけにもいかないから、コピーをとったものだがな。ま、これで大変な目に合わせちまった詫びにはなるだろ。―――これ以上のものをねだるなよ、詫びにしたって釣りが来るほどのモノなんだからな。まだ編集にも見せてないんだぜ」
 露伴先生がそう言って私に渡したのは、なんと彼が書いた原稿の一部だった。コピーをしたものとはいえ、まだ世に出回っていないものを見せてもらえるなんて! 驚いて、目を見開いてしまう。
「え!? こんなもの、受け取れませんよ! ……あ、ありがとうございます!」
「……礼を言うなよ。礼を言わなきゃならないのはこっちの方だから、君にそれを渡したんだぜ。それくらい察しろよな」
 露伴先生はそう言って、立ち去ってしまう。礼を言うな、なんて言われてもどうすれば良いかわからない。ただ、彼の漫画を抱きしめて、先生が帰路につくのを見送った。


 露伴先生のマンガは、いつもドキドキしてしまう。本当にいるようなキャラクターたちが、私に語りかけてくる気がする。そして、本当に面白いのだ。
 けど、あの時のリアリティが詰まっている今回の作品を読んでいると、この前の光景がどうしても、まざまざと思い出されてしまう。
 私は何故だか胸が苦しくなり、ほんの少しだけ泣いてしまった。
 

 数ヶ月後、あの駅は廃駅となったことを、露伴先生から聞いた。あの駅では、あんなに酷い目にあったのだけれど―――なんだか少しだけ、寂しい気持ちになってしまった。


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