■血塗れのキス

※暴力表現。暴言。DV

 久しぶりに私の家を訪ねた彼は、いつも以上に優しく、穏やかだった。
「ナマエ。……久しぶりですね」
 私はこの声を聞くと、いつも嬉しくなる。そしてそれと同時に、―――ほんの少し、恐怖に襲われてしまうのだった。

「紅茶で良い?」
 私が聞くと、構いませんよ、と丁寧な物腰で彼は答えた。穏やかではあるが、疲れているように見える。少し考え事をしながら、ぼんやりと飲み物を用意した。
 ここ数日、私の元へ帰ってこれないほどの任務が何だったか、結果はどうだったか。私には関係の無いことだ。私にとっては、ギャングという、常に死と隣り合わせの世界に生きているような彼が、私の元に戻ってくるだけで充分なのだ。
 私は飲み物を持って、彼が待っている部屋へと戻った。キレさせると大変なことになるが、基本的に彼は紳士的な男だ。変な緊張をする方が良くない。それより、大好きな彼との会話を楽しもう。
「持ってきたわよ、フーゴ」
「ありがとうございます」
 その時、私の恋人は新聞を読んでいた。ただ新聞を読んでいるだけなのに何故か物凄く絵になっていて、不覚にもときめく。
 フーゴはあまりこちらに目を向けず、手探りでカップを手に取り、それに口を付けた。彼の喉が動く。

 一瞬の沈黙の後、グシャ、と新聞が握り潰される音がした。

「ナマエ」

 穏やかで、優しげな声が私を呼ぶ。私の大好きな声が、私の名前を呼ぶ。だけれど、確かに感じた。―――確実にこれは、良くない前兆だ。確かに、優しさの裏に冷たさを孕んだ、冷えきった声色―――

「このドグサレ女ァァアアァァ〜〜ッ! コーヒーと紅茶の区別もつかねーのかッ! このビチグソッ!」

 髪をぐいと引っ張られ、そのまま勢い良く床に叩きつけられた。髪が何本か抜けた感覚がする。ひ、と声が思わず漏れ、それは更に彼を苛立たせたようだ。もう一度髪を容赦なく引っ張られ頭が浮き、ふとフーゴと目が合う。一瞬、冷たい瞳に見つめられたと思ったら、もう一度床に叩きつけられた。今度は口の中が切れ、血の味が口いっぱいに広がる。明日、私の顔は確実に腫れることになるだろう。

「大体テメーはいつもそうだ! 脳ミソ足りてねーんじゃねえかこのクソ女!」

 彼は私に向けて蹴りを入れた。私はただ、背中を丸め、じっと耐える。痛みと衝撃が、背中から全身へ響いていく。彼がこうなったらもう手が付けられないことくらい、私は知っていた。謝ったら逆に逆上させることになる。黙って耐えるのが一番だ。

「テメーはっ! いつもっ! オレを舐めた真似をしやがるっ! オレが仕事をしている間にもっ! テメーはオレに内緒で他の男と遊びに行ってたっ! 一緒に寝た時だってオレを拒絶したっ! 舐めてんのかこのクソビッチがァァアアァァッッッ!!」

 彼は、蹴りに合わせて暴言を吐いた。
 誤解だ、と『キレてる』間には、何度言っても聞いてくれなかった。落ち着いた時に言うと、大人しく聞いてくれるのだが。しかし、彼の中では完全に疑いが晴れてはいないらしい。また落ち着いたらもう一度弁明しようと思ったが、何故だかいつもより悲しくなった。
 私は、フーゴが世界一大好きだけれど、彼が私に暴力を奮う点についてだけ言えば、世界一大嫌いだ。
 だけど、フーゴと別れない理由は勿論ある。そもそも、別れようと思ったことは、一度も無い。


 一通り言いたいことは吐き出したのか、フーゴは突然蹴るのを止めた。途端に黙り込んだと思ったら、急に顔色を変え、ドサ、と崩れ落ちる。
 そろそろ、あの時間が来る。
「…………」
 フーゴは黙って、躊躇しながら私に手を伸ばした。そうして私のことを、少し躊躇いながらも、優しく、優しく抱きしめる。決して私が壊れてしまわないように。決して、私に痛い思いをさせないように。優しい温もりだけが、私の身体全体を包み込む。

「ゆるしてください、ナマエ……」

 そしていつも、彼は泣き出すのだ。彼がキレやすいことは彼の周りの人間なら誰もが知っていることだが、キレた後に泣いてくれるのは、私に対してだけだ。それが、私を特別な優越感に浸らせる。
「いいの」
 私は呟いた。私に酷いことを言って、私を蹴飛ばす男のことは嫌いだけれど。毎回それに後悔して、私に懺悔をするフーゴのことは、どうしても嫌いになれない。ズキズキ痛む顔と背中のことは、考えないことにした。
「コーヒーと紅茶を間違えるなんて馬鹿な間違いした、私が悪かったのよ、ごめんなさい。少しボーッとしていたの」
 ボーッとしていた理由が、久しぶりにフーゴに会えて嬉しかったからだ、とは言わなかった。そんなことを今更言ったって、言い訳にしかならない。
「でも、友達の男の子と遊びに行ったことをまだ勘違いされてたのは……えっと、……ちょっと悲しかったかな。アレは、あの人が彼女にプレゼントするものを選んであげただけ。それに、一緒に寝た時、拒絶したんじゃあないのよ。初めてだから、怖かっただけなの。ごめんね、不安にさせちゃって」
 またキレられるかもしれない、と思ったが、そんなことはなかった。むしろ、彼はまた、更に涙を流す。
「……わかっているんです。ナマエが、あの男と浮気した訳じゃあないことも、ぼくのことを拒絶したわけじゃあないことも……。紅茶とコーヒーを間違えたことだって、大したことじゃあないことくらい、ぼくにもわかっているんです……」
 フーゴはそう言って、すっかり泣き出してしまった。やっぱり私は、―――キレやすいギャングである以前に―――このたった十六歳の、パンナコッタ・フーゴを、嫌いになることなんて、できない。

 フーゴは、泣き疲れたのか、それとも仕事で疲れたのか、蹴り疲れたのか。理由はわからないが、とにかくこてん、と眠ってしまった。寝顔を見ていると、彼はまだまだ子供なんだな、と少し微笑ましく思う。私はこの顔がとても好きだ。
 ただ、彼はとても寝苦しそうに見える。悪夢でも見ているのだろうか。―――何かあったのかな。仕事関係かな?
 私は今さっき暴力を奮われたことを忘れ、真剣に考えた。まさか彼が、眠ってまで私に懺悔するとは、思ってもいなかったのだ。

「……ナマエ……。ごめん、な……い……」

 彼は寝言で、確かにそう呟いたのだった。

 ズキン。
 何故か、腫れた頬が一層痛んだ。

「……。…………おやすみなさい、フーゴ…………」

 大丈夫、いいのよ、気にしないで。そうは言わなかった。言えなかった。
 その代わりに私は、彼に血の味がするキスを落とした。彼の唾液と、私の血塗れの唾液が混じり合う、深いキスを。

 フーゴは一層苦しそうに呻いた。私は、そんな彼を見て確かに、見えない傷が痛んだのであった。


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