03
「…唯幸、お前…私や夕霧が受けた屈辱、知らない訳ではあるまい…?」
匂宮は唯幸の目をじっと見ながら静かに言う。
以前は若い唯幸にいろいろ無茶なことをさせられたし、彼の妖怪退治に一部力を貸したこともある。
そのために、雑鬼や人を害する者を殺したとはいえ、匂宮や友人は「妖怪殺し」とまで言われたこともあるのだ。
もう、そんな酷い言われ方はしないが。
一時期は荒みそうになった時期もある。
友人の方は、実家の…水妖の都の破落戸達に八つ当たりして荒れていたり…
弟に八つ当たりをするほど、精神的に荒れていたのもあった。
匂宮はその愚痴を唯幸に手紙を送ったこともある。
唯幸からは手紙で謝罪をされた。しかし、匂宮も友人も心が晴れることはなかった。
「それに関しては申し訳ないと思っとる。この澪には何も知らんのに命を狙われるかもしれん。我が儘だとは思うが、私の最期の願いだ。頼む」
『最期の願い』とまで言われたら断りづらい。
唯幸もいつ黄泉に行ってしまうかわからないのだ。
そこにいるのは以前の、自己中心的で、妖怪には冷酷な陰陽師の唯幸ではなく、一人の孫を心配する老人だ。
その真剣な姿に、匂宮は心が動いてしまった。
自分の世話焼きな性格にうんざりしたが、動いてしまったものは仕方がない。匂宮は目を伏せ、ぶっきらぼうに呟いた。
「わかった。ただし、この娘が亡くなるまでだ」
「…有り難う!匂宮…感謝する」
唯幸の表情が明るくなった。
匂宮の細い手を握って、ブンブンと上下に振った。
そして、光の速さで匂宮の左手と自分の後ろに隠れて様子を伺っていた澪の右手を掴んだ。
「な?!」
「え?お、おじい様!?」
匂宮が驚いて捕まれた手を振りほどこうとすると、唯幸は匂宮の左手首を掴んだ。振りほどけないほど、老人とは思えない強い力で握られている。
唯幸の口から何か術のようなものの言葉が聞こえた。
次第に自分の左手が熱を帯びたように熱くなった。
そして、手の甲に何か紋様が描かれる。
これは、賀茂の…唯幸の家の家紋。
少女の手の甲にも同じように。彼女の右手の甲にも家紋が描かれる。
「おい、唯幸!これ、『主従の…』」
『主従の術』だと匂宮が気づいたときにはもう、術は完成されて終わっていた。
『主従の術』とは、主に陰陽師である人間と妖怪や式神が主従を結ぶ契約術だ。
主従関係を結べば、その妖怪は「主」となった人間に従わなければいけなくなる。その関係は、主である人間が死ぬか…主従の術を解除しない限りは続く。
従者となった妖怪は、主が側にいないと力が制限されてしまうこともあり…。あまり妖怪や式神はこの術を結ぶのを嫌がる。
それを不意打ちで彼は結ばされてしまったのだ。
「…」
もう左手を触っても熱さは感じないが、手の甲の紋様は指で擦っても取れない。しかし、ソレはまるで、刺青のように肌に刻まれていた。
唯幸は悪戯が成功した子どものように大笑いをする。
やはり年をとっても昔のように自己中で悪戯好きなところ…根本的な性格は変わらない。
「唯幸、貴様!」
「悪く思うなよ。では頼むぞ、『相棒』」
ゲラゲラ笑いながら、唯幸は少女を匂宮のところに押しやる。
転びそうになった少女を受け止めて、顔をあげた匂宮は唯幸に手を伸ばそうとした。
しかし…唯幸は忽然と姿を消していた。
まるで、そこに唯幸と言う人はいなかったような静寂が訪れ、匂宮と澪だけが残った。
「消え、た?唯幸…??」
匂宮は目を何度も瞬きしたりするが、もう唯幸はそこには存在していなかった。すると、澪が口を開いた。
「あの、ね…」
「ん?」
「…お祖父様はもう、死んでるの」
匂宮の瞳は大きく見開かれた。
「し、死んだ?」
「うん」
「いつ…」
「三日前…。もう、葬儀も私と兄様で行った…」
澪はたどたどしい口調ながら、匂宮に説明する。
唯幸の死んだ時の様子や、葬儀の話。その話を聞くたびに、匂宮は「親友」が死んでしまったのだと少しずつ理解する。
「…そうか」
「でも、今日の朝に…お祖父様が枕元に座ってたの。約束を果たさないといけない。それに、澪に会わせたい奴がおるから、少し力を貸してくれ…。って」
「…」
「それで、おじい様の大事にしていたお守りに…魂を宿らせて…ここまで来たの。もう、魂はここに…ないんだ」
「…」
匂宮は呆気に取られた顔をした。
匂宮に出した手紙の、約束の日が来る前に彼はもうこの世にはいなかったというのだ。それなのに、約束を頼みたいためにわざわざ。魂だけで来たのだ。
「馬鹿だな、唯幸は。約束など…。
いや、それほど切羽詰まっていたというわけなのか」
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