「君を迎えに来たんだ」
「迎えって、なんの…」
まだ整わない呼吸に乗せてなんとかそれだけ聞き返す。
吸血鬼はこほん、とわざとらしい咳払いをしてかしこまった。

「鏡音リン……僕の花嫁になってほしい」
「………………………へ?」
たっぷり間を置いてから、さっきまでの緊迫した、どこか淫靡な空気をぶち壊す間抜けな声が口から漏れた。いや、だって他にどんな反応返せっていうの。
まだまだ酸素が十分に行き渡っていない頭を懸命に働かせる。
えーと…『ハナヨメ』って『花嫁』のことだよね?花嫁って結婚する女性のことだよね?今この人…じゃなくて、吸血鬼、確かにそう言ったんだよね。それってつまり…………………プロポーズ?
「………え、ちょ、はああああああああっ?!!!」
「リン、声が大きいよ」
「お、お、大きくもなるわよ!!プロポーズ…私、今プロポーズされたの?!!」
「そうだよ」
「そうだよって…そ、そんな簡単に言わないでよ!!」
「?口上が気に入らなかったのかい?それとも…」
「違う!!そこじゃない!!内容じゃなくてプロポーズそのものが問題なの!!」
わざとなのか天然なのか(多分後者だけど)とぼけたことをいう吸血鬼に即座に突っ込みを返す。さっきから衝撃発言しかしてこなかったレンだけど、今のに比べたら『僕は吸血鬼』なんて可愛いものだ。
だってプロポーズだよ!?私、吸血鬼に結婚を申し込まれたんだよ!?あまりのことに恐怖も熱の余韻も明後日まで吹っ飛んでいってしまった。
「……だめ、かな?」
レンは小動物みたいに首を傾げて不安そうにこちらを見つめてくる。うっ、そんな捨てられた小犬みたいな目で見られると……い、いや!綺麗な顔にほだされちゃダメだ!レンが危険な肉食獣だってことはさっきのでわかってるんだから!ここはきっぱりはっきりお断りしないと!
崩れていた足をお尻の下に折り畳んできちんと正座に座り直す。本当は立っている彼に目線を合わせて向き合うべきなんだろうけど、さっきのあれで腰が抜けたみたいでまだ自力で立てないから正座で勘弁してもらう。
すぅとひとつ息を吸って、まっすぐにレンの目を見つめて一音ずつ丁寧に言葉を紡いだ。
「……お断りします」
レンは綺麗な曲線を描く眉をほんの少し歪ませて、私に問い返してきた。
「…理由を聞いても?」
「理由もなにも、これで受ける方がどうかしてるでしょ」
彼は不法侵入者で吸血鬼だ。いくら美形だからってそんな人のプロポーズを受ける人間がいるだろうか。いや、いない。
「大体なんで急にそんな話になるの?」
「急じゃないよ。初めて会った時に言っただろう。君を迎えに行くって」
「そんなこと聞いてな………あ」
そういえば言ってたような気も…てゆうか言ってた。や、でも、あれは夢の中の出来事で……でも彼が本当に吸血鬼で今までの言葉もすべて真実だったとしたら、あの夜も現実だったってことで。そうなるとやっぱり7年前の彼とこの吸血鬼は同一人物だったってことで………え、ちょっと、待って、また頭が混乱してきた。
「思い出した?」
「お、思い出したけど、それとこれとは……そ、それに私まだ14歳なんですけど!!」
そうだ。私はまだ14歳。吸血鬼の間ではどうか知らないけど、人間で女の子で日本国民である私は親の承諾を得られたとしたって結婚することは法律上不可能だ。
「吸血鬼に年齢の概念なんてないから関係ないよ」
それがなにか?みたいな顔で言い返される。ああ、それで年をとってないのか……って論点はそこじゃない!
「レンはそうでも私は人間なの!関係あるの!」
「今はね。でも花嫁になったら君も僕と同じになるのだから、やっぱり関係ないよ」
「関係な……ん?」
………………待った。この人はまたさらっとトンデモ発言をしませんでしたか?
「ちょっと待って。今、なんかすごいこと言わなかった?」
「なにが?」
「私が吸血鬼になるとかなんとか」
「ああ…吸血鬼に噛まれた人間は吸血鬼になるんだ。映画や小説なんかでもセオリーだろ」
なんですと!
私さっき噛まれちゃったんだけど!それって、つまり、
「わ、わたし…吸血鬼になっちゃうの?」
「うん」
うんじゃねーよ!!!!
私はわなわなと拳を震わせてキッと彼を睨みつけた。下手人は私がなぜ怒っているのかわからないといった表情で首を傾げている。それが余計に私の神経を逆撫でた。
「なんてこと…なんてことしてくれたのよー!ばかー!」
「なに怒ってるの?まあ、正確には吸血鬼じゃなくてその眷属だけど、そんな大した違いはないよ」
「違う!私が怒ってるのはそこじゃない!」
「じゃあ、何?」
「吸血鬼とかその眷属とかそんなわけわかんないものになりたくないんだってば!私は人間をやめたくないの!!」
「なんで?」
「なんでって…」
あまりの話の噛みあわなさにもはや言葉もでない。なんでってこっちがなんでって聞きたい。私が人間をやめたがっているように見えるのだろうか、この吸血鬼には。
「吸血鬼…の眷属もそう悪いもんじゃないよ。老化は緩やかになるし、病気にも滅多にかからない。簡単なものなら魔術も使えるようになって便利だし」
だめだ、この吸血鬼。とことん論点がずれている。これが異文化コミュニケーションの実態なのだろうか。進展のない押し問答になんかもう泣けてきた。
「違うってばあ…ばかあ…うぅ、ぐすっ」
「リン?どうしたの?なんで泣いているの?」
「レ、レンのせいじゃんかあ…」
ほんの数分前、レンに血を吸われた時のことを思い出す。大波のように襲い掛かるあの感覚に紛れてはいたけど、牙を立てられた時の鋭い痛み。すぐ間近で自分の体液が飲み下されていく音。普通に生きていればまず味わうことのないだろう捕食される恐怖。それらがまざまざと思い返されて、自分も同じように人の血を啜って生きなければならないのかと思うと、悲しくて胸が張り裂けそうだった。
「ひっく、うぅ、わ、わたし、きゅうけつきなんてなりたくないぃ」
「リン、泣かないで。大丈夫だよ。一回牙を立てられたぐらいじゃ何も変わらないよ。老化スピードは少し下がってるかもしれないけど」
「ぐすっ…ほ、ほんと?」
「本当だよ。ほら、泣かないで」
宥めるように背中をさすられて段々落ち着いてきた。
それならよかった…のかな?でも本当に吸血鬼になっちゃうよりは遥かにましだけど老化しなくなるのも困る。もっと大人になってからなら有り難いかもしれないけど、二次性徴も完了していない時期に勝手に成長を止めないでほしい。胸も身長もまだまだこれから大きくなる予定なんだから。
悶々と考えていたら頬に手を添えられて、レンの顔が近づいてきた。慌てて押しのける。
「ちょ!や、やだ!」
「なにが?」
「今ほっぺ舐めようとしたでしょ!?」
「だってリンが泣くから」
「だからって舐めることないでしょ!?涙を拭いてくれるなら指とかハンカチでいいじゃない!」
「そんなのもったいないよ」
「は?もったいない?」
なにが?
「リンの涙は甘くて美味しいから。舐めれば涙も拭えて僕は嬉しい。一石二鳥じゃないか」
「んなっ!?」
あ、甘いって……吸血鬼って体液だったらなんでもいいんだろうか?てゆうかそんな理由でいたいけな少女だった私のほっぺたを舐めまわしていたのか、こやつは!
「あ、あのねえ、そういうの人間同士でやったらセクハラになるんだからね!リンは人間の女の子だからこういうことしちゃだめなの!」
「僕たちはお互いの伴侶になるのだからセクハラとは言わないんじゃない?」
「だから結婚しないってば!」
また振り出しに戻る。屁理屈ばっかで、全然話通じないけど、根は悪い吸血鬼じゃないっていうのは話していてなんとなくわかる。7年前にも助けてくれたし。正直に暴露すればあれが初恋だったりもする。でもそれと結婚は別問題だ。
「だ、大体なんで私?結婚とか吸血鬼同士ですればいいじゃない!」
「誰でもいいから結婚したいわけじゃないよ。リンだから。リンが好きだから花嫁になってほしいんだ」
「なっ…」
プロポーズの次は愛の告白。順番が逆な気がするけど、そんなことは今の私にとって些細なことだった。プロポーズはもちろんのこと、男の子に告白されるのもはじめてのことだったから。
怒涛の急展開に頭がついていかずフリーズしていると、レンは少し悪戯っぽく笑って私の首筋の噛み痕を指先でつつとなぞった。
「ひゃ…っ」
「僕に血を吸われてる時、どんな気持ちだった?」
「ど、どんなって…」
聞かれても困る。あの感覚を言葉にするのは難しい。自分でもよくわからないし、説明しようがないのだ。でもレンには見当がついているみたいで、戸惑う私にさらに笑みを深くする。
「気持ちよかったんじゃない?」
「えっ…?」
気持ちいい?そんな風には思わなかった。 
別に気持ち悪かったわけでもないけれど、あんな強烈な感覚を気持ちいいの一言ですませていいのだろうか。
「ああ、そっか。リンにはまだわからないのかもね。無理もない」
くすっと、微笑ましくてたまらないって感じで笑いかけられる。これは…ばかにされてる?
子ども扱いするような物言いにむっとして言い返そうとしたけど、レンの爆弾が落ちるほうが少し早かった。
「リンはまだ処女だからしっくりこないかもしれないけど、人間は吸血鬼に血を吸われると性的快感を得るんだ」
「せっ!?」
本日何回目か分からない絶句。レンは私の状態に気付かず個人差とか相性はあるけどね、と続けてる。いや、待って!何の話!?処女って…せ、性的快感って……じゃあ、さっきのあれも、7年前のあれも、つまり…そういうことだったの!?
レンの言う通り男の子とそういうことはおろか、ファーストキスだって未経験な私には刺激的すぎる真実に一気に血液が顔に集まった。そんな…そんなことって…。
「リン、顔真っ赤だよ。本当に初心なんだ。ふふっ、可愛い」
「………………」
悔しくて、恥ずかしくて、なにか言い返してやりたいけど、今はそれどころじゃない。
知らない間に乙女として大事なものをあっさり奪われてしまっていたような気がして、穴があったら入ってそのまま埋もれてしまいたかった。
「リンは変わらないな。出会った時もそうやって顔を真っ赤に染めていたよね。大きな瞳を潤ませて、小さな身体で自分を繋ぎ止めようと必死に僕に抗って……結構長いこと生きてきたつもりだったけど、あんなに甘くて可愛い生き物はリンがはじめてだったよ」
「………っ」
お願いだからもうこれ以上恥ずかしい台詞を言わないでほしい。いい加減のぼせてしまいそうだ。でもレンにやめる気はないみたいだった。いつのまにか腰を落として私と同じ目線まで降りてきている。顔が近い。首筋を撫でる指先が、逸らされることのない視線が熱くて、それが私をさらに落ち着かない気持ちにさせた。
「ねえ、信じて?この7年間、リンのことを考えない日はなかったよ。リンの泣き顔も血の味も喘ぎ声も頭から離れなかった」
「あえっ?!!」
またもや心臓によろしくない単語に思わず声があがる。でもレンは私が何をしたって眩しそうに笑うだけだ。
「こういうのって一目惚れっていうのかな……いや、一目っていうのは違うか。僕はあの時、五感すべてで君に恋をしたんだ」
「え、あ……」
「リン」
今までとは違う空気を纏って呼ばれる自分の名前に、自然と背筋がすっと伸び上がった。羞恥のために床をうろうろ彷徨っていた視線もしっかりと彼を捉える。レンは口元から笑みを消し、視線は抜き身の刃みたいに強くて鋭いものに変化していた。青い瞳の奥に灯る熱さえなければ、捕食者の表情に似ていたかもしれない。
「僕は吸血鬼だ。人間の血を啜る君たちの敵だ。それは変えられない。だからリン、君にこちら側に来てもらうしかないんだ」
ふたつの掌が私の両手を包んで持ち上げる。冷たかったはずの彼の手は今は熱いぐらいに温度を上げて、小刻みに少し震えていた。吸血鬼も緊張で震えたりするんだ。
「本当は僕が人間になれたらよかったんだけどね。でもそれはできない。どうやったってできないんだよ。我が儘なのは百も承知だ。向こう千年呪ってくれもいい。それで君を傍に置けるのなら、僕は喜んで君に頭を垂れるよ」
レンは本当に私に向かって丁寧に頭を下げた。そのまま許しを乞うみたいにして私の両手の甲に唇を寄せる。羽根みたいに軽くそっと触れるだけの口づけ。さっきと違ってレンの唇はぞくりとした熱も、背筋を走る疼きも伝えてはこなくて、慈しむようなキスはただ甘いだけだ。だけど心臓を蜂蜜の海にどぷりと沈められたようなその甘さはどんな熱よりも深く私の神経を蝕んでいった。

「リン」

レンが私の名前を呼ぶ。捕食者の目。獲物は私。ゆっくりと心臓に牙が立てられる。

「愛しているよ、鏡音リン。僕と共に悠久の時を生きてほしい」

愛している。

その一言は耳から注がれる甘い甘い媚薬のようだ。たったそれだけの言葉で私の心は急速に彼に溶かされていた。もしかしたら吸血鬼は淫魔の一種なのかもしれない。甘い毒で人を堕落させる悪魔に身も心も囚われて、何の力も持たない私に抗う術なんてないように思える。
だけど、私はたったひとつだけ持っていたんだ。吸血鬼の誘惑を退ける十字架を。

「ごめんなさい」
そっと十字架を掲げる。
それは私のたったひとつの願いだ。もう大切な人を泣かせたくない。その願いがあなたを拒む力になる。
「ママが泣くから、レンと一緒に行くことはできない」
「…………」
「ママには私しかいないの。私がいなくなればきっとママは私を探して毎日泣いちゃう。だから今はまだママの傍を離れるわけにはいかない。ううん、私が離れたくないんだ」
レンに出会ったあの夜のママの涙を思い出す。もうあんな顔はさせたくない。させるもんか。そう自分に約束した。だから、
「だから、ごめんなさい。あなたの花嫁にはなれません」
繋がれたままだった両手をそっとほどいて床につき、私は精一杯の感謝と謝罪を込めて深くお辞儀をした。口から出る声は情けないぐらいに震えていたけれど、ちゃんと自分の想いを伝えることは出来たと思う。
「ごめんなさい。そしてありがとう。7年前、私を助けてくれて。こんな私を好きになってくれて」
床に水滴がぽたぽた落ちる。これは私の涙。
誰かの想いを拒むのがこんなに辛いなんて知らなかった。誰かに愛されることがこんなに痛いなんて知らなかった。夕立みたいな涙が床を次々と濡らしていって、泣きながら笑ってしまう。
これじゃ、私が失恋したみたいじゃない。

「……もしも」
それまでずっと黙って私の言葉を聞いていたレンが唐突に唇を開いた。頭の上から静かに淡々と落ちてくる声に悲しみは含まれていなくて、身勝手に少し安心する。
「もしも君に断られたとして、最後に来るカードはきっと君の“ママ”なんだろうって……そう思ってたよ。リンにとって“ママ”がどれほど大切な存在かはわかっていたからね」
「レン」
「でもね」
ふと、レンの声に楽しんでいるような色が混ざった…………楽しい?
思い切って涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。やっぱりレンは楽しそうに笑っていた。
……わけがわからない。いまこの場面で彼がこんな表情をする要素があっただろうか。
頭の上にはてなを浮かべる私に、レンは手品のタネでも教えるみたいにして言葉を紡ぐ。
「リン、僕は君に7年間も焦がれ続けてきたんだ。7年は僕らの生命の尺度からすれば瞬きするような一瞬だけど、一日千秋とはよく言ったものだね。君に会えるまでの時間の流れが僕にとってどれだけ緩やかなものだったか君に想像できるかい?気が遠くなるほど長い夜のなかで君への想いがどれだけ深まったことか。それをたった一夜の君の一言であっさり幕引きだなんて……考えられない」
舞台役者みたいにすらすらと喋るレンに泣くことも忘れて目が点になる。この人はたった今、その大好きな私にふられているはずなんだけど、とてもそうは見えない。
「えっと、つまり、何が言いたいの?」 
「つまりね、諦めないってことさ」
「へ?」
あ、このレンの顔って楽しそうじゃなくて、不敵って言うんじゃないの?とか今さらな感想が頭を過ぎったのは多分現実逃避だ。またまたあっさり奪われてしまったファーストキスからの。
「んんっ!」
顎を掬われ、唇を重ねられて一瞬ぼけっとエスケープしていた頭も、本日の度重なる急展開に少しは学習してくれたのか、それほどの間を開けずに動き出す。
7年前からほっぺただの膝だの肘だの、挙句の果てには首筋まで舐めまわされてしまっているが、やっぱり唇同士のキスは特別なものだ。
いくら美形だからって、吸血鬼だからって、こんな簡単に奪ってしまうのはいかがなものか!
「んんーっ!んううー!」
乙女の怒りを込めた鉄拳をレンの薄い胸板に叩きこむけど、全然びくともしない。
なんとか逃れようと身を捩れば更に深く捉えなおされて、おまけに舌まで捻じ込んできやがった!
「!!!!んふっ、んちゅ、はっ、やあっ!……っんう!」
がむしゃらに首を動かしてなんとか唇を離しても、また捕まって逃げた罰だとでもいうように強く吸い上げられる。さっきからその繰り返しだ。
ほっぺたの涙はすっかり乾いて皮膚が妙にそこだけ突っ張っているが、口周りと下顎は新たな水分でべちゃべちゃになっている。
「は…んっ、んふ、っ…んんっ」
いつの間にか鉄拳は解かれて、左手はレンの服を、右手はレンの左手を掴んでいた。
身体の力が抜けてまたあの熱がやってくる。血を吸われてる時は戸惑いとか恐怖のほうが大きかったけど、今はただひたすらにこの熱が恥ずかしい。
だってこれってせい……か、……ああもう!言うのも恥ずかしい!とにかくこの感覚の正体を知ってしまったからにはとてもじゃないがこの熱を受け入れることはできなかった。
でもどんなに活を入れても身体はふにゃふにゃとクリームみたいに蕩けていって、結局私はレンが満足するまでなすがままに口内を貪られてしまった。
「っはあ、はっ、…っ、なにするのよ!」
「あはは、そんな色っぽい顔で吠えられたらまたしたくなっちゃうなあ」
「!!!!」
「ふふ、冗談」
濃厚すぎる口づけが終わってもなかなか息が整わない私とは対照的にレンは憎たらしいぐらいの余裕顔だ。ああもうっ!なんなのよ、こいつは!
「〜〜っっ!!冗談でキスなんかしないでよ!ばか!!」
「さっきのキスは冗談じゃないよ。まあ、果たし状みたいなものかな」
「はあ?果たし状?」
「そ。リンのママがライバルっていうのはなかなかに手強そうだけど、こちらもそう簡単に白旗を振る気はないんでね」
また頬に手が伸びてきて慌てて後ずさる。これ以上好き勝手にやられたらこっちの身がもたない。
部屋の隅まで退いて、両腕で自分の身体を隠すように抱きしめる私に、レンは苦笑しながら立ち上がった。
「んー、ちょっとやりすぎたかな?これ以上すると君に嫌われそうだし、そろそろお暇するよ」
そう言ってぱたぱたと窓際まで歩いていく。……どうでもいいけど、窓から不法侵入している癖に靴は律儀に脱いでいたんだなあ、この人。
「じゃあね、リン。今日は帰るけど、僕は君を諦めていないから。覚悟しててね、僕の花嫁」
「…?え、ちょっと!?」
突っ込みどころの多い捨て台詞を残して、レンは2階の窓から身を投げた。
慌てて窓際まで駆けよって外を見る。でもそこには誰の姿もなくて、私は狐につままれたような気持ちになった。
…………吸血鬼ってやっぱり飛べるんだ。




「リーン、そろそろ起きなさーい!」
1階から響く大声。相変わらずママの声はよく通るなー。でも普段は有り難いその声も今は煩わしかった。
「んんー、もうちょっと…」
あの後、しっかり鍵を閉めた窓から太陽がこれでもかってぐらいに光を投げ込んでいる。
もう結構な時間みたいだけど、昨日はあんなことがあったんでなかなか寝付けなかったのだ。お願いだからもう少しだけ眠らせて欲しい。
「もうお昼よ!いつまでも寝てないのー!」
「んう…おひる?………お昼!!??」
がばっと布団を蹴飛ばして、バネのおもちゃみたいな瞬発力でベッドから跳ね起きる。
枕元の時計の短針はほぼ真上を差していた。やばい!完全に遅刻だ!
「ママ!なんでもっと早く起こしてくれなかったの!?」
「ママは起こしたわよ。リンがいつまでも起きなかったんじゃない」
「そ、そうだけどっ…お昼って!!お昼って!!」
急いで着替えながら階下に向かって声を張り上げる。ママに責任転嫁してもしょうがないのはわかっているけど、でもお昼って!お昼だなんて!こんな時間に登校なんて先生に何て言われるか!
「あーん、もうやだー!いっそ休みたい!」
今から登校したところで担任のひんしゅくをかうだけだ。それならいっそうまいこと言い繕ってずる休みできないものだろうか。
私は欠席に相応しい理由を考えながらも制服を着終えて、転がる様に階段を駆け下りた。キッチンでコーヒーを淹れていたママは怪訝そうな顔で私を迎えた。
「あら、リン。なんで制服なんか着てるの?」
「なんでって、だって学校…あ、もしかしてずる休みしていい?」
まさかママからも賛成してもらえるとは思わなかった。やった。ママの協力が得られるならうまいこといくかもしれない。でも、私の姑息な考えはママの溜め息で掻き消される。
「何言ってるのこの子は。今日は日曜日じゃない」
「……………にちようび?」
ママの言葉をオウム返しにする。にちようび…日曜日?壁のカレンダーに目をやると今日の日付は赤文字で印刷されている。
日曜日…じゃあ学校は、おやすみ?寝ぼけた頭がやっと事態を飲み込んでどっと肩の力が抜けた。
「なーんだ。じゃあ、慌てる必要なかったじゃん。起きて損したー。……寝直そ」
そういえばママが平日の昼間にいるわけなかったんだよなー、とかぶちぶち言いながら部屋に引き返す。歩きながら制服のスカーフをしゅるりと外した。ママとの女二人暮らしだからあんまりこのへんには頓着しないのだ。
「ダメよ。今日はお客様が来るんだから」
「お客様?」
あまり我が家では馴染みのないフレーズに歩みが止まる。お客様……はて、初耳だけど。
「もう!本当にこの子はっ!先週言ってあったでしょ!今日からリンの従姉弟が家に下宿するからって!」
「はい!?従姉弟!?下宿!?」
さらに初耳だ!つーか私に従姉弟がいるなんて本当に聞いたことない!パパもママも一人っ子だったはずじゃあ!?
「え?ちょっと、ママどういう…」
私の声を遮ってピンポーンとインターホンの軽い電子音が響き渡った。
「あ、はーい!今行きます!」
ママは絶賛混乱中の私をほっぽって玄関へと向かった。
「えっ、ママ、待ってよ!」
その背中を慌てて追いかける。そこで待っていたのは私を更に驚かせる光景だった



「ご無沙汰しています。鏡音レンです。今日からしばらくの間お世話になります」
「まあ、久しぶり!しばらく見ない間に大きくなって!」
開いた口が塞がらないってこういうことだろうか。辿りついた玄関先では見覚えのあり過ぎる少年とママがなんかテンプレなやりとりを繰り広げている。てゆうかなんでここにいるんだよ。
「ほら、リン。あんたの従姉弟のレン君よ。挨拶なさい」
「……レン?」
母親に紹介された私の従姉弟だというレン君を改めて見る。金髪も青い目も整いすぎた顔も全部が全部、紛れもなく昨夜私に求婚して狼藉を働きまくった吸血鬼のレンのそれだった。
え?どーゆうこと?私には従姉弟がいて、しかもその従姉弟は吸血鬼だったってこと?そんなばかな。そこまで考えてはっとする。
吸血鬼……そういえば昨日、吸血鬼は魔術が使えるとかなんとか言ってなかったっけ?まさか……………

「リン」
目の前に差し出された手に思考を中断させられる。確信に近い疑念を持って彼を見れば、最上級の王子様スマイルがうさんくさいぐらいに輝いていた。うん、これはクロだ。
「これからよろしくね」
恐らく、いや絶対に魔術的な力で私の親戚に成りすましている不法侵入者兼吸血鬼兼詐欺師は固まっている私の手を掴み、強引に握手する。そのまま距離を縮めた彼が耳元で甘く囁いた言葉は私を凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。



「言ったでしょ。諦めないって」




 










 
SweetSweetPain



な、長かった…


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