0313 19:53

久しぶりの更新なのにごめんなさい。愚痴です。自分のために書いたチラシの裏です。
そんなものをアップしたのは自分の中に溜まった膿をどこかに絞り出したかったからです。自分勝手でごめんなさい。
更新が滞ってた原因でもあるわけだけど、やっぱり自分の努力不足なのかな…ごめんなさい。元気になったらもっとたくさん小説が書けるように頑張ります。










私の母親

母親に何があったのか詳しくは知らない。でもいつからか正確にはわからないけど小学校二年生の時には母親は情緒不安定だった。
優しくて明るい性格の時と、悲観的で愚痴ばかり言って自暴自棄に暴言を吐く時と差が激しかった。多分その時にはもうアルコールと薬物依存の傾向があって、そのせいだけじゃないけど両親は喧嘩ばかりしてた。私も酒のお使いによく行かされた覚えがある。その時は未成年でも買えた。でも母親のビールを買うのはちょっと嫌だった。

うちは3階建てで、父親は一階の部屋で暮らしてた。母、私、妹は二階と三階で暮らしていたのでほとんど家庭内別居。母親は口を開けば父親の愚痴ばかりでうんざりしてた。でも母親は事あるごとに家を出ようとしたり自殺を図ろうとするので機嫌を損ねて見捨てられないように話を合わせてた。
母は父と私たちの目の前で自殺未遂も自傷も平気で繰り返した。私もそれを真似して妹が言うことを聞かなかったらベランダから飛び降りる振りをして妹を泣かせてた。その度に両親に叩かれて怒られた。
「私が何しようと私の勝手じゃない。私が死のうがどうなろうがあんたらには関係ないでしょ。」と説得しようとするたびに言われた。というか今も言われてる。

私も学校でいじめられたり、はみられたりでうまくいかなくて、人と顔合わせるのが怖くて小学五年の途中から不登校の引きこもりになった。
そのせいで両親に迷惑かけてるのもストレス増やしてるのも余計に家の空気悪くしてんのもわかってたけど、結局高校あがるまでの数年間はほとんど自分の部屋から出ずに過ごした。

父親が勤務先の病院をやめた。家族の誰にも相談しないで辞めて、退職金で小料理屋を開く。病院の看護師だった若い女性を雇ったりで両親の仲はより険悪に。

高校にあがる。定時制でクラスの子も私より複雑な家庭環境の子が多くて、訳ありの友人がたくさんできた。先生もそのへんわかってるからおおらかだし、学校では楽に息ができた。脱ひきこもり。
ただ一年の時に父親が家を出て行った。小学校の時、父親は不登校の私を叩いたり蹴ったり階段から引きずり降ろしたりと今考えたら虐待で捕まってもおかしくないような強引なやり方で学校に行かせようとしてた。車で送ってくれたり、面倒も見てくれたのは覚えてるけど、禍根は残っていて、父親が出て行くことは金銭面での不安を除けば安堵の方が大きかった。親子だからだろうか、父も母も嫌いにはなれない。それでも愛しているかと聞かれたら少し考えてしまう。特に父は短気な性格であまり話し合うこともなかったから未だに何を考えているのかわからないし、私も父にどういう感情を持てばいいのかわからない。一般的な親子から見たら情は薄いのだろう。だから私も妹も父親を引き止めなかった。引き止めたのは母だ。
散々、今まで別れるだの出て行くだの言っておいて、「あんなのは本気じゃない。妹もまだ中学生なのに離婚されるのは困る」と泣き喚いていた。私も付き合わされて弁護士に相談も行った。
結局父親が持ち出した条件も良かったので間も無く両親は離婚した。母親は酒浸りになって暗い部屋でチューハイの空き缶に囲まれて酒を飲んでは寝る日を繰り返していた。
私は学校に居場所ができていたので、母と話し合わなかったわけではないが、あまり真摯には向き合わなかった。本人も「今は放っておいて」と譲らないし、何を言っても無駄だろうと母親となるべく顔を合わせないように暮らした。母は元々大分前から家事を放棄していたので食費などのお金さえ貰えればあまり困ることもなかった。
そのうち母親も元に戻った。戻ったといっても情緒不安定は相変わらずで、矛先が私たちにいくようになった。父親からの金は三人で生きるには十分に思えたが、将来なにがあるかわからないのに私たちに金なんか使えないと事あるごとに言われた。
一日中酒だけ飲んで寝たきりになって起きると倒れるといったこともなくなりはしなかった。

看護学校に入学する。あまり向いていなかったのか、高校が特別だったのかなかなかストレスのたまる日々だった。ズル休みも多かったし、母親がおかしくなった時に記録を邪魔されたり、家から呼び出されたり、学校を休んだりで学校では目をつけられていたと思う。小学校の時から腸過敏症で月に数回立っていられないほどの腹痛に見舞われるが、看護学校時代が一番酷くて欠席や早退でどの授業も出席日数はギリギリだった。

ある日急に携帯を止められる。なんの前触れもなかったので故障かと思った。部屋を出たら「将来自分がどうなるかわからないのにお前に金なんか払えない」と母が喚いている。当時私は学生。父親からの養育費もまだ払われていた。口論の末、母は父に電話して私を引き取ってくれるように頼む。父が迎えに来る。この時、父に再婚する予定の相手がいて、一緒に暮らしてるから祖母の家に住むように言われる。再婚相手のことはこの時に初めて聞いたが、以前から父の態度などで薄々そういう相手がいることは気づいていたし、私ももう子供ではないのでショックではなかった。むしろ父親は立ち直ってるだと安心した。引きこもりの私に力で訴えたり、母親を押し付けられたことは未だにしこりになって残っているが、不幸になれとまでは思わないので、幸せになるならそれでいいやと軽く思った。
母親から連絡が来て「あんなの本気じゃない。携帯も戻すしお金もちゃんと出すから戻ってきてほしい」とのこと。何も思わないわけじゃなかったが、流石にそれで戻ったら同じことの繰り返しだとはわかったので断った。父親にも母親は甘やかすと依存するので距離を置いて自立しろと言われた。「あれはパーソナリティー障害だから治らないんだ。巻き込まれて自分の人生をダメにするな」と言われた。パーソナリティー障害かはともかく、確かに精神疾患であることは間違いないように思えた。その時初めて母親を病人として扱おうと思った。母親は元々ああいう人なのではなく疾患なのだと。ならば治療も可能かもしれないと思った。看護学校で精神疾患について僅かに囓ったこともあって、母親を精神病院に入れることも治療のためなら積極的にするべきだと思った。
祖母の家の近くにたまたま親友が下宿してることを知る。小学校からの付き合いで優しい友人に話を聞いて欲しくなり泊まりに行った。
そこでまた家から電話。今度は妹から。玄関まで出て応じる。「母親が酒ばかり飲んで、今日は排泄まで失敗した。床で失禁したまま倒れてる。自分一人では限界なので戻って欲しい」とのこと。
妹は私よりも気丈だ。根も私より優しいと思う。私のように取り乱さないし、根にも持たない。母親にも寄り添いすぎず離れすぎずにいて、私だから母とうまくいかないんだと、妹なら大丈夫だろうと安易に思ってた。その妹が泣きながら電話してくるので流石に見捨てられないなと思った。
父親にも電話して家に戻ることになった。泣きながら電話したら父が「お前たちには苦労ばかりかけてるな」と申し訳なさそうに言ってくれた。嬉しかった。この人はこの人なりに心を痛めてくれてるのだと思うと余計に泣けてきて、親友が何も言わずにタオルを渡してくれてまた泣けた。この子には子供の頃からずっと救われているのに、未だに何も返せていない。
そして私は家に戻った。私が母親から離れられたのは一週間だけだった。
家に戻ってまず母親に自分が精神疾患の可能性があることを認識してもらおうと話した。母は「自分の母親を精神病扱いするなんて」と激昂。叩いてくる。
母も看護師だったのであまり偏見はないのではないかと思っていたが、そうはいかなかったよう。私の考えに妹も難色を示す。妹は昔から過剰なくらい体裁を気にする。私が気にしなさすぎということもあるが。
結局私だけで市のこころの相談室に行き精神科医に相談する。医師は「話を聞く限り受診の必要はある。でも本人が同意しないなら無理やり力づくで病院に連れて行くしかない。男手がないなら難しい。それに今は正論よりも優しさが必要。お母さんはあなたたちに捨てられることを恐れているだろうから、言いたいことは一度飲み込んでとりあえず自分は離れない、お母さんとずっと一緒にいると言ってあげなさい」
帰って医師のアドバイス通りにする。母は泣きながら抱きついてきて、とりあえず攻撃的な態度は納めた。
それでも過度な飲酒も服薬も繰り返す。飲酒運転で人身事故、器物破損したり、排泄の失敗も何度もあった。
実習の記録中に酒や薬を取りに行かせる。断ると延々と「じゃああんたの面倒もう見ないから。パソコンも使わないで」とうるさい。
そのうち酒と薬で倒れる。病院に連れて行くと「恩着せがましい」と逆ギレ。その数日前に自分が喚いて私に酒や薬を取りに行かせたことは忘れている。そのことについてはその後話したが、もう忘れているよう。

留年が決まり、やっぱり無理だと思った。ただでさえハードな看護学校と母との生活を両立なんてできないと思った。まともな時を狙って一人暮らしすることを伝える。距離を置きたかった。今度はスムーズに許可が下りる。気楽な生活だった。実家から近いので妹に何かあればすぐに連絡するように言った。
母が階段から落ちる。妹が救急車を呼んで入院。偶然だが、私と妹が通う看護学校の付属病院に運ばれた。硬膜外出血。妹が薬の袋を病院に持って行って大量の服薬が露見。救急病棟で暴れて妄言など繰り返し、妹や看護師に暴力。実習中だったが呼び出されて向かう。
心療内科は診断名を出さなかったが、救急で運ばれた時の脳外科の部長はこれは精神疾患だし、こういうタイプはまた繰り返すと言っていた。精神病院に行くことも視野に入れ始めており、私はチャンスだと思ったが、妹は泣いて嫌がった。学校の教員にそれ以前にも母のことは何度か相談はしていたが、妹も時間を合わせて姉妹で相談した。結局精神病院には行かず、薬を変えることになった。
退院後も不審行動多い。チャッカマンを持ち出して布団の上に置いたり、徘徊したりする。そんなんで妹からの呼び出しで家に戻されることも多かった。
妹やケアマネと話し合った結果、父親から送られてくる薬が原因ではないかと推定。まともな時を狙って説得し、父からの薬を飲むのをやめさせる。父に私から連絡して薬を止めた。
以後、回復。見違えるように元気になって、私も家に戻った。
特に問題もなく数年過ごす。

最近、また酒を飲むようになった。前のように酷い酔い方をするわけではないが、過去のことがあるので私と妹はあまりいい気がしない。
「お祝い事やみんなで飲みに行った時は別だけど、禁酒する」と約束してたが、忘れたのか本人の中で時効になったのか。
それとなく何度か注意するがもう問題は起こさないし、大丈夫だと行って聞かない。頻度増える。
「あんなことがあったんだから心配する気持ちもわかるでしょ?」と言うと「妹には世話かけたけど、あんたにはあんまり…なんかしてもらったっけ?」と言われる。←NEW!

正直、ブチギレ。あんだけ酷いことされて、たくさん傷ついて、何度も何度も話し合ったのに、この人は何も覚えてないのか。そしてまた繰り返すのか。一気に過去のことがフラッシュバックして号泣からの過呼吸からの腹痛。
これまで仲良くやってきたのは、話し合って立ち直るならこの人を許そうと思ったから。私もこの人をたくさん傷つけたし、迷惑をかけた。それもきっと許してもらえると思ったから。
でもそれは独りよがりだったわけだ。健常になった母親の言葉だからそれは本心なのだとわかった。母親は本当に何も覚えてないらしい。虫のいい話だと思う。「記憶障害かな?覚えてないから謝るしかできない。妹にもあんたが可哀想だって言われた。ごめんなさい」と部屋に来て謝られたが、もう一度話す気力はなかった。何を話しても無駄なのだ。投げやりかもしれないが、母親相手では真実のように思える。今まで楽しく過ごしていた時間さえも薄気味悪かった。
「でも今は元気だし、犬の世話をするのも楽しいし、あの時何もなくてよかったって思える。生きててよかった」と言われて何も言えなかった。落ち着いていた涙がまた溢れた。どういうつもりで言ったのかわからない。でも私にとってそれは軽い言葉じゃないよ。子供の時から母親が目の前で首を吊ろうとしたり、大量の薬を飲むとこ何度も見てきたんだよ。何も感じてないと思ってるの?本気じゃなかったって?そんな昔のこと引きずってるのがおかしいって?でも仕方ないじゃない。忘れたくても忘れられないんだよ。

私が引きこもりの時、死にたくなるほどの自己嫌悪から解放されたのは人はみんな自分を好きになってもいいんだと自己暗示し続けてきたから。「人はみんな基本的には自分のことが好き。だから自分と気があう人、話があう人…つまり自分に近い人を求める」って本かテレビかなにかで聞いて、それが中学生の私にとって天啓だった。私も自分の好きな本やゲームを好きな人とは話してて楽しい。自分は本当は自分の事が好きなのだと、こんなに苦しいのは本当は自分を嫌いになんてなりたくないからだと単純な私はそう思い込んでなんとか立ち上がった。母親のようにみっともなく自傷や自殺することもしたくないと思った。
そして今こんなに苦しいのも私が母を好きだからなんだと思う。母は常におかしいわけじゃなくて、ちゃんと普段の優しい人柄の時もあった。楽しい時だって確かにあったから。
嫌いになればさっさっと突き放してしまえる。父親が出て行った時のように淡白でいられる。結局ずっと思い切れなかったけど、妹も就職して、自立できる歳になった。離れるべきは今なのか。まだ母を一人にするのは怖い。兆候もある。いつ再発して何をしでかすかわからない。そうなっても構わないと、この人を切り捨てるべきなのか。どうしていいかわからない。



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