血に染まった鍵盤



 狂ったようにキーを打つ。滅多な不協和音がガタガタと部屋を揺らすのにも、彼は全く気付かない。ただ只管に手を鍵盤に叩きつけ、愛するピアノの上げる悲鳴に似た音階を耳に心地好く響かせる。
 何時からこうしているのか、何時これを終わらせるのか、それは彼には解らず――否、恐らく他の誰にも解るまい。永遠に続くソロかもしらないし、或いは次の瞬間には終わってしまうコンサートなのかもしらない。
 けれども一つだけ確かなのは、彼は狂った頭を振り乱してピアノを、愛するピアノを愛しているのであり、それを他の誰にも決して止められないという事だ。

 ――先ず最初に提言しておかねばなるまい。何よりも、彼の名誉の為に。否、私は狂人の類を異質だと思ったことは無いのだ。何故なら、我々は得てして元より狂人なのだから。
 それと云うのも、考えてみたまえ、貴方は貴方自身が狂っていないと断言する事が出来ようか? 常識と云う非情なバイアスに浸かりきり、誰も彼も同じ軌跡を描く事のみを望むこの世の中で、確りと自分は狂人では無いと言い切れる者が居るとしたら、彼その者が狂人なのだ。
 さて、解って頂けただろうか。この世の総ては狂人である。故に、私は狂人の類を異端とは見做さない。つまり、彼もそうは見做さないのである。
 それよりも更に、私の口を重くする苦痛の要因は他にある。彼はピアノを愛していたという事だ。彼は、一生実る事の無い愛に狂い悶えてしまったという事だ。これは何よりも重罪であり、貴方も知っての通り、その苦しみに呑まれた者は決して今生に戻ってくる事は無いだろう。彼はその渦中に呑まれ、そして遂に、自らの愛を証明する為の最後の手段に出た。

 それが、あの曲だ。

 美しくも狂おしい詩、それが屹度彼の耳には届いているであろう。愛するピアノの歌う美しき音色で。嗚呼、彼にはもう他の音など聞こえない。何も、何一つ、それ以上を望むことも無いのだろう。
 私は悲しみを胸に湛えたままドアを閉める。錠を掛け、扉越しに彼に祈祷する。何時しか一連の行為は習慣になっており、私もまた、それ以上を望まなくなっている。
 貴方にはこの真意がお解りだろうか。けれども私は後悔もしないのだ。この世には狂人しかおらぬ。狂人以外の者はおらぬ。ならば、私もまた、狂人であろう。それで良いのだ。それ以上など、望むべくも無いのだ。



 嗚呼彼の音色は何と甘美でうつくしいことだろう!



 ――廃墟に落ちていた手記はこう締めくくられていた。遺されたのは朽ち果てたピアノと崩れ落ちた鍵盤、そして風の吹き通るこの邸。何一つ、今生には残らない。それは必然か。運命なのか。私はそっと手記を閉じ、また床に落としておいた。ぱさりと乾いた音が邸中に充満する気がした。綺麗な音色だったろうか。このピアノが歌う音は。そんなことはあるまい。一切、一片たりとも、あってはならなかっただろうに。魅入られた者たちは謳うのだろう。それも仕方の無い事に違いない。私には、理解できない感情ではあるが。



→ss
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