夜、犯罪者達が最も活発に動く時間帯。その名の通り星座のように輝き、まるで不夜城のようなシュテルンビルトだが、夜が危険なのはどことも変わらない。加えて今日の天気は曇り。何時もならば暗い路地裏にまで差し込む月明かりも、今日ばかりは姿を見せない。
 私はそんな空を見上げて内心ホッとした。空を飛んで移動する私は誰よりも月に近付く。私はそれが怖くてならなかった。無表情に煌々と夜を照らす月が、私は怖い。
 空は孤独だ。月はそんな空をより一層孤独にしているようで、見上げれば息すら詰まりそうで、月のある夜、私は空で溺れそうになる。月に吸い込まれてしまいそうになる。月の狂気に当てられそうになるのだ。
 かすかな灯りだけを頼りに、暗い路地裏へと入る。いつもの夜間パトロールで、出動要請があったわけではないが、最近世間を賑わせている殺人犯がこの辺りに潜伏しているらしいという情報を得たから念のために路地裏まで見廻っている。
 微かな悲鳴に動きを止める。夜の闇の中、一瞬だけ見えた光に嫌な予感がした。青い光は月を思わせた。

「残念。一足遅かったな、キング。」

 狂気。正義の化身が私達の追っていた殺人犯だったのだろう黒影の隣りに立っている。助けられなかった。そう思い、そして同時に疑問が浮かぶ。
 私は、この殺人犯をルナティックから助けたかったのか?この男は助けるに足る人物だったのだろうか?

「何、を考えている…?」

 言われ、ハッとした。私の内に宿った疑問を、彼は知っている。そんな口調だった。心臓を掴まれるような気分、とでも言えばいいのだろうか。
 狂気だ。月は隠れているというのに、月と同じ狂気がこの場に張り詰めている。

「弱く脆い正義を掲げるヒーローのキングよ。」
「黙れ。」

 風を起こす。ルナティックのマントがはためいた。ルナティックは嗤っている。

「貴様は気付いているのだろう?」

 息を呑む。ルナティックの台詞に、呑まれる。止めろ。聞くな。呑まれるな。

「優しい優しいキング。己の無力に嘆くか?」

 狂気。麻薬のような甘言。手を差し伸べられれば取ってしまいそうな誘惑。けれど私は愚か者にはなれない。
 苦しくても、悲しくても、私はヒーローだから。耐えるしかない。救いや見返りなどを求めてはいけない。

「…君は私に似ている。」

 ふと、そう思った。私は悩んで悩んで、それでも悩み続ける道を選んだ。彼は多分、悩んで悩んで、そして苦しみ続ける道を選んだのだ。
 だから彼の炎は人を苦しめるものではなく、罪を償わせ救済するものなのだろう。

「君は優しい。優しいヒーローだ。」

 私は思う。わざと道化のような姿をして道化のように演じて、月の狂気を纏っているけれど、きっと彼は優しい。月の狂気を借りなければ、本当に狂っていまいかねないのだ。

「黙れ!戯言を…!」

 そう叫んで彼が出した炎は、私と彼の間を遮断してしまったが、彼は逃げなかった。私の身長よりも高く舞い上がる炎の壁の隙間から、彼の姿が見える。泣いているのだろうか。なぜかそう思った。ああ、そうだとしたら泣かせてしまったのは私か。
 風を起こして炎を消した。彼へとゆっくり近づくが、やはり彼は逃げない。ああ、やっぱり泣いている。マスクに隠された顔は見えはしないが、そう思った。

「泣かないで、ユーリ。」

 自然と口から出た名前に歩みが止まる。私は今、なんと言った?誰の名前を呼んだ?そう思うが疑問が確信に変わるのに時間はいらなかった。いや、むしろどうして今まで気付かなかったのかと自分を責めたいぐらいだ。彼はずっと、一人で苦しんでいたというのに。

「ごめんなさい、ユーリ。ごめん、なさいっ…。」

 私が泣いてどうするのだろうと思ったけれど、理性に反して涙は止まる気配を見せずに零れ落ち続けるから、煩わしくなってマスクを外した。幼子のように泣きじゃくる私を、彼はただ見ている。私はなんて情けない姿を彼に晒してしまったんだ。必死に涙を拭うが、意味はなかった。

「何故貴方が泣いているんですか。」

 呆れているかのような彼の口ぶりに、私の涙は一層溢れ出した。

「君が、好きだから…」
「馬鹿なんじゃ、ないですか。」

 言われて、はは、と苦笑する。そうだ、恋心一つのために数十万といるこの街の人たちを捨て、人生全てを賭けてしまうぐらいなのだから私は彼の言う通り馬鹿なのだろう。

「私、はっ…決めたよ、ユーリ。」
「決めた?」

 ぐいと涙を拭った。そう、私は決めた。覚悟を決めた。そして愛しい彼のために生きると、決めた。深呼吸して、泣いているせいで乱れている呼吸を落ち着かせる。
「私は君が好きだ。君を愛している。だから私は君を守りたい。」
「ふっ…何かと思えば逃避行の誘いですか?」

 ともに逃げても彼を守れはしないだろう。それに、彼が母親を置いて逃げるはずがない。いや、そもそも彼が逃げるはずがないのだ。

「違う。」
「では何を決めたんです?」

 苛立ちを隠そうとしない声色で彼は言う。繊細で、触れたら壊れてしまいそうな危うさを持つ彼。抱きしめるたびに思う。壊れてしまわないかと。

「私も君と同じ道を歩むよ。」

 彼の歩く道に茨が敷き詰められているなら、私は彼を抱えて歩く。彼の歩く道に雨風が吹き荒れているのなら、私は彼の風よけになり、雨よけになる。彼が歩くことが嫌になり、止めてしまいたくなったら、その心の臓にナイフを突き立て、その場に墓を建てて墓守りをしよう。その覚悟を、私は決めた。人を殺める覚悟を、決めた。

「、戯言を…」
「なら証明しよう。どうすればいい?何をすれば信じてもらえる?」


「私に、キスを。誓いのキスを…」

 彼は言う。
 まるで結婚式のような厳かさで、彼の仮面を外した。彼は泣いてはいなかった。けえれど目元は赤い。跪いて彼の手を取り、手の甲に口付けた。立ち上がって今度は唇へ。路地裏でひっそりと挙げられた真似事の結婚式。曇り空から月の光が零れ、私たちの姿を照らす。なんだかひどく滑稽だと思った。

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