月光 | ナノ

月光






消毒液の香りが肺に充満してぞくりと寒気がした。繋がれたコードを千切らぬよう、流れ込む点滴を逆流させないよう、慎重に体を起こす。


あの光景は夢だったのだろうか。脳裏によみがえった世界は花と光に満ち溢れ、まるで天国。そこに佇んでいたあの人もそんな幻想を崩さないほど美しかった。うっとりと吊り上げられた口角は完璧な微笑をたたえ、優美な仕草はつくりもののよう。……ああ、自分の乏しいボキャブラリーに腹が立つ。なんと讃えれば良いのだろうか。初めて私を必要としてくれたあの人を。


ずきん。


「ッあぅ――…、」


満ちた夢想が掻き消される。痛み。皮膚の破れた右手を腹にあて、そっとなぞってみる。引き攣れるような痛みを伴いながら、それでも確かに感じる感触はあの光景が真実だったと教えてくれた。欠けた視界のせいで世界が狭く感じられたけれどこの際そんな些事はどうだっていい。質素な夜の病室すらこんなにも鮮やかに感じるのは生きる意味を始めて感じられたからに他ならない。


なんて幸せなんだろう。自然と口元が歪む。周囲に感ずかれないようにひっそりと喉の奥で笑った。そのたびに感じる体の軋みさえ愛しい。


酸素マスクを外し、そっと点滴を引き抜く。そうしてゆっくりと降り立った床は、骨ばった裸足にいやに冷たく感じられた。カーテンの隙間から射し込む光が綺麗だ――なんて。世界の美しさなんてもの今まで考えたこともなかったのに。窓辺に一歩、足を近づける。


途端、バランスを崩して倒れそうになった体をなんとかベッドの手摺りで支えた。音を立ててはいけない。だって私は明日にでも死ぬはずの人間なのだから。父にも、血の繋がった母にすら惜しまれることなく逝くはずだったのだから――もしあの人に、出会わなかったならば……


ぞくりと体が震えた。ああ、これも初めて。生きる価値を与えられて、初めて死が恐ろしい。




小さく溜め息をついてベッド横のパイプ椅子に腰掛けた。包帯に締め上げられただけの細い体は滑稽だ。左腕を伝う生暖かい感覚は血液だろうか。痛みは全身に満ち満ちていてもはやどこが痛むのかすら分からない。けれど安穏とベッドに横たわっているわけにはいかなかった。だって、あの人が言ったのだから。私の力が必要だと。だから私は此処から出て行かなければならない。少しの自由さえ命を削るあの人の負担にならないために、外へ。あの人の目的地の可能な限り近くまで。


硬い背にもたれかかるとぎぃぃと鈍い音が響いた。一瞬身を縮こまらせて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。集中治療室を通り越し、死を待つためだけの部屋に聞き耳を立てる医者もいないだろう。幸い今日は救急車のサイレンが煩いから。生死の境界線に立つ患者ばかりの治療室に医者もナースも大慌てで、見放された私に手を伸ばす余裕なんてもの残っていないようだもの。


隔絶されたようにこの部屋だけがしんとしているから、錯覚してしまっているだけだ。世界の注意が私の小さな物音に向いているなんて馬鹿な話あるわけもない。構わないわ。誰も私を見ようとしなかったのに、あそこであの人が私を見てくれた。それだけで生きていける。




ぼんやりと眺めた窓辺が、カーテンの隙間からの僅かな月光に照らされて、思わず涙が出そうになった。心が乱れている。そしてそれは何よりも生の証明だ。死んだように感情を閉ざし、それでも毎日を生きていたあの頃――不思議なことに事故に合う前の日々が遙か昔に感じられる――と、痛みに支配され偽りの臓器で終わったはずの命を繋がれた今と。世間の目から見れば今のほうがよっぽど死に近いというのに。


…本当に馬鹿ね。紛れもなく私はいま生きているじゃない。


少しだけ息を吐いて足に力を込める。パイプ椅子の音を部屋に響かせながらゆっくりと立ち上がった。行かなくちゃ。どうすればいい? 出て行くだけならこのままでも出来ないことはないけれど流石に裸で外を歩けばその姿が人の記憶に残るだろう。下手に目立ってはあの人の邪魔になるだけ。なら隣の部屋から服を盗ってこようか――いいえ、でもこんな部屋にいるのは私ぐらいだ。それにもし患者がいたとしても普通は必ず傍に肉親が寝泊りしているはず。


肉親。たった独りの母。彼女にとって私はいらない子供だった。そこまで思って浮かんだ顔を掻き消した。今はもう考えたくない。




椅子の背もたれに体重をかけて考える。医者かナースのロッカールームに入れないだろうか? 鍵がかかっているかもれないけれど、でももしかしたら何かあるかも知れない。そうよ、ロングコート一着で良い。身が隠れれば暗闇の中だもの。違和感を覚えるほど他人に私の姿は見えはしない。


あの人のため。そう思えば盗みをなんら悪いことだと感じない自分が少しだけ不思議だ。不思議だけれどでも当然だ。…そんなことを思う。カーテンの隙間からは相変わらず月光が射し込んで、


「――っ、」


不意に強くなった光に目を背けた。月を覆っていた雲が風に流されたのだろうか。月の光を死者の光だと言ったのは誰だったろう。意味も無くそんなことを考えながら、ふと顔をあげると小さな棚が目に入った。


病院着でも入っているかもしれない。一歩ずつ踏み締めるように近付いて扉を開ける。中には何枚かのタオルと白い紙袋が入っていた。取り出してパイプ椅子に腰掛け、紙袋の中身をベッドの上に広げる。


「おかあさん」


思わず口を付いた言葉に驚いて、慌てて包帯の巻かれた指で口元を押さえた。


白いブラウス、タイトスカート、下着と靴も。それは父に私を紹介するために、唯一私のために母が買ってきた服だった。何を思って彼女はこの部屋にこれを持ってきたのだろう。良い母という体裁を保つため? この服を着て家に帰ってくることを信じていたと、涙ながらに不幸な母としての自分をアピールするため? 私の死に装束にするため? それとも本当に私が生きてこの服を着ることを信じて――、


『私だけじゃないわ、誰もあの子がそこまでして生きることを望んじゃいないのよ』


かぶりを振って母の顔を追い払う。それから一頻り声を上げて笑った。この期におよんで愛された記憶を求めた自分を嗤った。




あの人だけだ。あの人だけが私を見てくれた。私を必要とし、私に心を思い出させた。嬉しさも悲しさも恐ろしさも全部あの人だけが私に、


「骸様」


私に、生きる価値を与えてくれた。




* * *



最後にブラウスのボタンを留めて、立ち上がる。麻痺したのかもう痛いという感覚は無くなった。背もたれ、ベッド、カーテンと少しずつ体重をかけるものを移動して歩く。少しでも先へ。あの人の目的地へ。ドアに手をかける。廊下はひんやりと冷たい空気に満ちていた。遠くで微かに医者達の必死の声が聞こえる。見ると左袖が血に染まっていたが夜の闇なら分からないだろう。


ドアノブに体重をかけながらゆっくりと病室へ振り返る。からっぽの部屋にはただ月光が射し込んでいる。雲に覆われないそれは、美しく強く明るくて…けれど優しい光だ。どうしてかあの人に似ていると思い、流れそうになった涙をこらえた。


誰もいない部屋。一歩、二歩、足を進めて廊下の手摺りに体重をかける。見上げると見慣れない苗字と見慣れた名前が目に入った。


凪。覚えている声はあの人が呼んでくれたものだけだった。生まれたときからずっと私と共にあった名前だ。死体のような人生を共に過ごした名前はあの頃の私の象徴に思えた。


手を伸ばして名前が書かれたカードを取り出し、力の入らない手で握りつぶす。あの頃の私。これはもう、いらないから。




名前が欲しいと思った。あの人に仕えるための名前が。あの人に与えられた命を生きるための名前が。


こんなにも何かを求めたのは生まれてはじめてね。奥歯を噛み締めて少しずつ、無理をしてあの人のための体を壊さないように、それでも前へ歩く。見つめた廊下の先には月が美しく輝いていた。それがあの人が与えてくれた未来に思えて、ひとすじだけ涙が頬を伝った。






[END]
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