間奏曲 | ナノ

間奏曲






「死は、恐怖ですか?」


唐突に骸様は言葉を発するものだから、俺と犬はびくりと振り返ったのだけれども、骸様は俺たちの顔など欠片も見ていないように、壊れかけた椅子に腰掛けて古ぼけた本だけを見つめていた。


「…俺はまだ死にたくないれす」


右手にばさばさと鱗粉を撒き散らすアゲハチョウを掴んだまま、決して視線が交わることの無い骸様の目を見つめて犬は言う。目に付いた弱者を抱きしめるように握り潰してしまうのは犬の悪い癖だ、なんて見当違いのことをぼんやりと思った。


犬が死にたくないと言う傍らで、同じように死にたくないはずの生物を殺そうとする姿は酷く滑稽だ。


「そうですか」


骸様が犬の行動を把握しているかは分からなかった。骸様の目は相変わらず古ぼけた本にだけ向けられていて、規則的に文章を追うだけなのだから。


「はい」


そう言えば、犬は骸様の質問には答えていない。けれど骸様は何も言わなかったから、きっとそれも一つの答えだと受け入れたのだと思った。


俺は骸様の読む古ぼけた本のタイトルを知らない。


「千種は?」


骸様の声は美しいと思う。


それはきっと俺が骸様をまるで信仰の対象のように思っているからかも知れない。そうでなくても骸様の声は美しいのだと、俺は信じているけれど。ああ、結局すべては俺の考えのもとにあるのだから堂々巡りだ。でも、俺は、骸様の声は美しいと思う。


「俺は、」


俺は言葉を発するのが苦手だ。理由は分からないけれど。


骸様は犬のようにつらつらと言葉を紡げない俺を急かしたりはしない。それが骸様が俺にさして興味を持っていないからなのか、俺を理解してくれているからなのかは分からない。でも骸様が俺を理解してくださるなんて申し訳ない気がする。でも俺ごときを骸様が理解できないなんてこと、あるわけがないと思う。どちらなのだろう。


「あ!」


犬が小さく叫んだ。犬の足元に羽がもげた歪なアゲハチョウが落ちていた。何度か体を引きつらせて、アゲハチョウは動かなくなった。


骸様は古ぼけた本から目を離さない。


「死が…骸様のためにならないのなら、恐ろしいです」


返事は無かった。


「あーあ…」


ため息をつきながら、犬はアゲハチョウだった死骸を拾い上げ、窓から外に投げ捨てた。それはこの廃墟に来てから何度も繰り返された行為だったから、きっとあの窓の下にはたくさんの死骸が捨てられているのだろうと思う。


折り重なり積み重なり、ゴミのように溜まっていく死骸は、やがて腐り落ちて、長い年月が経てばすべての痕跡をなくしてしまうのだろう。俺や犬はそれを見ることは出来ないけれど、骸様ならきっとそれを見ることが出来る。だからどうしたと言われれば何も答えられない話。


「犬、手を洗ってきて下さい」
「はい」


犬は骸様の言葉には必ず従う。それは俺も同じだけれど。


部屋には俺と骸様だけになる。犬のいない世界は酷く静かだ。言葉も、衣擦れも、呼吸でさえ。一番、生命としての音を奏でるのは犬だからだ。その犬が一番、無意味に他の生命の音を止めてしまうというのはやはり滑稽だと思う。たとえ犬がそれを意識していなくても。


「犬は…」


美しい声が聞こえた。骸様と目を合わせることが出来るは相変わらず古ぼけた本の俺の知らない文章だけだ。細い指で少し黄ばんだページを捲りながら骸様は言う。


「素直で、残酷です。千種も素直だけれど、憐れだと思います」


俺は黙ったまま続きの言葉を待つ。


「僕はきっと君たちの死ぬ姿を見るでしょう」


そうですね、骸様。あなたが俺たちより先に命を落とすことはありません。絶対に俺たちがさせません。たとえそれで死んでしまおうと、俺は構わない。


「それでもきっと、僕は生き続けます。たとえこの体が朽ちても…」


骸様は顔をあげた。骸様の目は窓の奥、日本特有の青い空を見つめていた。


「僕は生にも死にも恐怖を感じません。生き続けてしまえばそれは同じことで…痛みすら感じない僕は拷問のような恐怖も感じないのですから」


生も死も恐ろしくないということが、どんな気分なのかなんて、俺にはどうでもよくて。もしそれに骸様が意見を求めるのなら犬がいたほうが良いと思ったけれど、一向に帰る気配も無く。


ただ俺は骸様の寂しそうな目が胸に痛い。


「けれど――君たちの死は、僕の恐怖になり得るかも知れない」


そう言うと骸様は俺を見つめて、にっこりと笑った。


「それは、骸様にとって、幸せなのですか?」


音を区切りながら紡いだ言葉は歪だと思った。まるであのアゲハチョウの死骸のようだ。


骸様は何も言わなかった。


ただもう一度にっこり笑っただけで、また古ぼけた本に視線を戻してしまった。


「戻りました」
「おかえり」


骸様は視線を逸らさない。それを当たり前のように受け入れて犬は部屋の奥へと入っていった。大きな足音を、生命活動の証である音を、撒き散らしながら。



* * *



そうして廃墟は今日も一日を紡いでいった。骸様が日本に来た意味を口にするのは、これよりもう少しだけ、あとの話になる。






[END]
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