傾城 | ナノ

傾城
※『幸福欲』04






「すばらしい母上だったのですね」


媚でもなく偽りでもなく囁かれた言葉にひどく満足した。誰よりも敬愛する母の素晴らしさを本心から理解できる者を、私はそれまで私以外に知らなかった。


母の話をするとき、向けられる目はその殆どに憐憫が滲んでいた。この上なく愚かな反応だと思う。奴らは理解し得ないのだ。幼い時分に叩き込まれた英才教育の数々は、そのすべてが私のためになされたことだと言うのに。寝食などは死なない程度に保てば良い。遊ぶ暇があれば論語を学べ、休む余裕があるなら完璧な礼儀を身につけろ。厳しい言葉は母の論理に基づいては至上の愛なのだと知っていた。私を凡愚に育てないための必死の情であると気付いていた。


「…姜維殿?」


瞳を見開いて微笑む姜維の眼差しに、羨望の色を垣間見たのはそのときだった。お前は――、浮き上がった言葉が思わず口をつく。お前の母上はどのような方だった? 言葉に出した途端、姜維の瞳に翳りが滲んだ。うらやみが滴る音を立て這い出で瑕の無い微笑みを張り付かせた。密かに息を呑む。隙を見せれば喰われると感じた。交わった視線を絡め取られる。冷や汗の滲む感触。長い指が手招いて、臓腑のかたちをなぞらせようとしている。


母の話をしても、構いませんか? 否定されないことを知っていて姜維は確認する。無言のまま頷いた。そうして、己の身の上を話す声にしては、やけに感情の籠らない言葉が続く。天水の四姓と呼ばれる生まれ。幼い頃に父を亡くし、母の手で育てられたこと。幾つかの思い出。殆どはすでに調べ上げていたありふれた昔話で、然したる興味も抱かなかったのだが。


「母はよく私に言い聞かせました。この乱世に生きていられるだけで幸福なのだと」


その言葉から声の調子が変わった。姜維の視線が何処か遠くをなぞり、躊躇うように伏せられる。真実なのか演技なのか、判断できない淀みの無い仕草を見せられる。気取られないように身構えた。姜維は明らかに、私にこの言葉を聞かせたがっていた。


「母はいつも決まって言いました。伯約、おまえは幸せな子よ、と。…だから」


一呼吸、噛み締めて言い淀む。憑かれたような眼が揺れた。


「幸運に感謝しなさい、慈悲に頭を垂れなさい。お父様まで亡くしたこんな痛ましい世界で、今こうして生きてるだけでおまえは幸せなのだから。私もおまえも皆の助けがあるからこそ穏やかに暮らしていられるのですよ。己の身の程を弁えなさい。多くを望んではいけない。ただ今ある幸せを喜んで受け入れなさい。伯約、おまえは幸せでしょう? そうよね、伯約、おまえはしあわせな子よ――…ねえ、鍾会殿」


言葉にされた語調は、姜維自身がそう言い含められてきたのだろう、柔らかな声音だった。けれど。


「鍾会殿、聞かせてほしい。才を認められたいと願うことは罪なのか?」
「……姜維、」


声を振り絞って名を呼んだ。嗚呼。それ以上なにを言ってやれば良いのかわからない。言葉ひとつ思い付かない己を恥じ入った。耳に焼き付く、降り注がれたあまい呪詛のおもいで。幸せ、だと? なんて優しく装われた呪いだろう。姜維、――伯約。余さず名を呼べばお前の呪縛を改めてやることができるだろうか。精巧な微笑。蝕まれた肉を隠す仮面。どれほどお前は足掻いたことだろう。安寧という檻に閉じ込められて。


「勝ち取った智を磨き上げた武を、誇ることは、活かしたいと望むことは罪深いのですか? ねえ、鍾会殿」


張り付いた微笑みのまま囁かれた言葉の裏に燃え盛る憎悪が潜んでいる。呑まされ続けた毒を、何度えずいても吐き出せず、爛れたお前の喉の内側まで口付けてやりたいと思った。姜維、お前がどうして私の母の愛を理解できたのか漸くわかった。私の母を否定する愚かな奴らはお前の母を讃えたのだろう。優しい面差しの洗脳から抗おうとしたお前を蔑んだのだろう。伯約、よく聞かせてくれた。お前は歪んでなどいない。お前は間違ってなどいない。その言葉が欲しいのだろう、分かっているよ、私ならそれを言ってやれる。


「教えて、士季。生きるだけなら私でなくても良い」


己を殺すことに耐えられなかった欲深い眸。仮面の向こうから私を捉えるそれを美しいと感じた。握らされた臓腑のかたちを愛そうと思った。指先から慟哭が伝わる。認められたいと血を流すお前の嗚咽が聞こえる。しあわせなんてわからない。他人に埋もれ惨めに長らえるぐらいなら死んでしまいたい。抗いたい、私に才を与えながら道を潰した天命に。見返したい、私を見世物にして嘲笑うこの世界を。貪欲な誓いに聞き惚れた。価値が欲しいか、愛しい伯約。膿んだ傷を見せつけて、私に欲しいとねだってくれるのか。


お前に国を与えてやりたい。お前がいなければ成り立たぬような国を。溢れる想いの代わりに、腰を引き寄せ渇いた唇を塞いだ。恍惚と広がる血の味と、甘く縋りつく舌に逃げる場所も無いほどとらわれてようやく、思わされたのだと気が付いた。それでも良かった。お前の眸は真実だから。底の無い闇に引摺り込まれても構わない。さあ伯約、どんな国が欲しい。辟易するほどの言葉をお前に浴びせてやりたい。欲深いお前を満たすためならこの大陸さえ生贄にしよう。


砂上の王国はお前が死ねば潰えるのだ。いとおしい私の傾城。お前に滅ぼされるための国をやろう。






[END]
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