芥一粒にも満たない | ナノ

芥一粒にも満たない
※『幸福欲』03






死なせはしない――と、吐き出した言葉が宵闇を上滑りして地に落ちる。引き摺るように踏み締めた足跡は醜く歪み、靴は泥と土埃に塗れた。食い込んで肩にのしかかる重みに息が切れる。歩みを重ねて足が縺れそうになるほどに肩口や首筋から伝わる冷たさが増し、逸らした私の眼を抉じ開けようと唆す。誑かされるものか。立ち止まるものか。信じるものか、あなたの呼吸がとうに聞こえないなんて。


「無理をさせてすみません、あと少しだから一緒に帰りましょう。戻ったらきちんと手当てをして、傷が癒えるまでしばらく休んで、そうすればきっと良くなる。また戦えます。あなたは絶対に死なせない。あいつらには決して渡すものか。酷い国、憎らしい国、私たちの居場所を潰して誇りを剥ぎ取ってあれほど惨めに捨てたくせに、そのうえ私からあなたまで奪おうとするなんて。あんな非道な国は何があっても打ち滅ぼさなければ。そうだろう、だから早く次の北伐をしないと、あなたも隣で戦ってくれなければ。もう少しで帰れます。手当てを受けて傷を癒してはやくまた私を守ってやると笑って…目を開けて、夏侯覇殿」


返事はない。意識が無いのだから仕方がない。仕方がないのだと繰り返し言い聞かせる。ぬかるんだ地面に足を取られると、力の抜けたあなたの体を滑り落としてしまいそうになって、それを支えた重さに膝を痛めながら安堵した。良かった、まだあなたを感じられる。端正な顔がどれほど血の気を失っていてもこの重たさがあれば信じていられる。大丈夫、あなたはまだ此処にいる。死者とはひどく軽いものなのだから。



この国で将軍の名を頂いてから幾百、幾千の屍を背負ったことだろう。彼らを忘れたことはない。生き延びた私には、仁の世を目指して志半ばに絶えた者たちの遺志を継ぐ責務がある。


丞相と交わした誓いを、託されたものを思えば耐えられる思った。どれほどの重みになろうと押し潰されるはずがない。屍の山を築かれて、血を吐きたくなる重圧に喘いでも歯を食い縛って受け止めた。それが私が生き続ける理由なのだから、負わなければならない。そうして皆が私に戦い続けることを求めている。戦を重ねるほどに積み上がる志は数を増す。


――いつからだろう、背負うことに慣れたのは。激痛に震えた体が麻痺した日は。もう思い出せない。いつの間にか私には死者の重みが分からなくなっていた。どれほど孕まれた願いも受け止めることができた。数え切れない屍の群れを突きつけられても、幾らでも背負えると、思ってしまった。


そんな私を皆は歓迎したのに、あなただけはとても哀しそうな顔をしていたね。なにも言わず手を差し伸べて背負ったものを分かち合おうとしてくれた。優しい掌。おそろしくて掴めなかった。積み重なった荷を分けて、麻痺した痛みを取り戻すことが怖かった。



不意に、夜に紛れた石に足を取られた。乱れた呼吸が喉の奥から風を切る音を立てて、崩れ落ちる。軋んだ金属の音を響かせてあなたの鎧が土に汚れる。抱き留めようと下敷きになった腕に、酷く濡れた感触が広がった。重たい体を、抱き起こした袖が黒く染まる。槍や剣に沁み付いたそれと同じ臭気が漂う。嫌な水音が地面に擦れた。鎧の継ぎ目から滴る体液。赤黒い、血が。


夏侯覇殿。叫ぼうとした名前は言葉にならず、ただ引き攣った悲鳴が喉の奥から溢れるだけだった。絶え間なくこぼれ出る血を留めようと押さえた掌が見る間に染まっていく。指の隙間から生き物のように這い出る濡れた感触。その冷たさに歯の音が合わなくなる。どうしてだ。どうして血が止まらない。ぬかるみ始めた地面が膝を汚す。やめてくれ。奪うな。幾ら縋っても後からあとから溢れる夥しい血液。少しずつ、あなたが軽くなっていく。いやだ、止まって。このまま全て流れ出たらあなたの重みが失われてしまう。


目を開けて――掠れた声で懇願した。首筋に触れた頬の冷たさにはとうに気付いていた。抉じ開けられたこの眼に映る光景が、逃れられない現実なのだと知っていた。血と泥に濡れた足に力を込めて動くことの無い体を担ぎ上げる。帰りましょう、私達の国へ。返事をしないあなたの体は驚くほど容易く持ち上がる。これなら幾らでも背負えると、気付いてしまった。



もしも私が、あなたの屍まで抱えたら押し潰されてしまうような、そんな弱い人間だったら、あなたはいつまでも隣で見守ってくれたのだろうか? 愚かな妄言を呑み下す。知っている、そんな私に価値は無い。あなたの手を取れるはずが無かった。痛みを忘れ、幾千、幾万の死者の想いを引き受けて、ただ前を見て戦い続ける。それがこの国に望まれた私の姿だから。皆が求める私の意義なのだから。


ごめんなさい。荷を分かつ幸福を教えてくれたかも知れないひと。私はもう何もかもわからなくなって、あなたの重みすら、感じられないよ。






[END]
※エロマンガ嶋さんへ
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -