壊劫の戴冠 | ナノ

壊劫の戴冠
※『幸福欲』01






叩き落とされた敗北の味。打ちのめされた窮地の屈辱。勝てると見込んだ戦に、部下達に勝利を期待された戦に、負けた。この男のせいだ。


雪を踏み締める退路。睨みつけた視線を、気付いていながら無視する背中に憎悪を覚えた。晒された無防備な背中は、それでいて触れることを許さない重圧に満ちている。泥の一擦り、返り血一滴の汚れすら無い完璧な姿。込み上げる苛立ちにそれを壊し刃を突き立てたい衝動に駆られ、しかしながら無言の許容に足が竦んだ。身を焦がす羞辱に唇を噛む。感じたものは黙認だった。やれるものならやってみろ。聞こえないはずの声が耳朶を舐める。


なんと言うことだろうか。この男は背を向けたまま、こちらを見ようともしないまま、剣を相手に悠然と微笑んでいるのだ。それは己は斬られるはずがないという慢心では無い。守られることを当然とする傲慢でもない。斬られたところで何の問題も無いと、お前には何も変えられはしないと、高みから振り撒かれる慈愛だった。背骨の際から心臓を目がけて刃を滑らせたところで一筋の血を流すことすら無いのだろう。剣を身に受けたまま振り向きもせず退屈そうに笑う声が聞こえる。――それで、どうした? おまえはなにがしたいんだ、諸葛誕? 耳の奥に響く音は身の毛がよだつほど甘い声。



陣に帰着してからも司馬昭殿がこちらを見ることは無かった。苛立ちが治まることは一向に無かったが、それ以上に吐き出す矛先の無さが神経を昂らせた。敗戦の責への達しも無く、生き残った部下を整え、攻め寄せる呉軍に押され後ずさる戦い。埒の明かない状況に鬱屈とする空気。それが変わったのは合肥新城の陣中だった。司馬師殿は、姿ひとつで将兵全ての目の色を変えてみせた。これが選ばれた者の力だと息を呑んだ。


状況を把握すると即座に策を立て、将兵に声をかけて歩く司馬師殿の後ろ姿を見つめながら、司馬昭殿と並んで先の叱責を待った。目の端に捉えた横顔がどうしてか非常に幼く映る。あの雪のなか見せつけられた背中と同じ人間のものとは思えなかった。あのとき私を竦ませたこの男さえ、ただの弟に戻してしまう司馬師殿に途方も無い羨望を感じた。この男を昭と呼び捨てる妄想に体が震えた。


「なぁに考えてんだよ」


突然囁かれた声に目を見開く。声のほうへ顔を向けると、鋭い眼をした司馬昭殿が薄い微笑みを浮かべている。心の内を見抜かれた感触に羞恥と怒りが込み上げた。その表情に先程までの澄んだ顔は何処にも無い。俺がお前にその顔を向けることは無い、と、知らしめられている心地がした。他人と上辺で交わることにばかり慣れた淫蕩な眼だと思った。


こんなものはいらない。こんな手垢の付いた眼は見たくもない。いつかあれを、あの無防備な顔を、この男から引きずり出してやりたい。司馬師殿を見る目と同じ眼を、この男にさせてやりたい。湧き上がった欲望は火のように熱い。同時に東興での戦い以来はじめて司馬昭殿に視線を向けられたことに気が付いた。あの戦い以前にもこのひとはこんな眼をしていたか、どうしても思い出すことができなかった。



司馬師殿の掌の上、この城での戦いは驚くほど滑らかに動いた。聡明な声と鋭い指先だけで大軍を動かす司馬師殿を追いながら、どうすればあの場所に立てるのかを考えた。敗戦の屈辱を雪ぐほどの功績をあげれば良いか。いの一番に諸葛恪の首を刎ねれば良いか。自問しては拙い考えを振り払う。違う。有能な駒でいる限り、いつまでも掌になることはできない。それは狗の生き方だ。あの顔は、狗に見せて良いものではない。


やがて戦況が完全にこちらの優勢に変わった頃、大きく息を吸い込んで敵を斬り伏せた司馬昭殿が、刀に纏わりついた返り血を振り払う姿を目にした。気だるげな仕草に反して瞳は悲哀に満ちているように感じた。屍にはそんな視線を向けるのかと悋気が募った。それも私には決して向けられない眼差しだと気付いたからだ。遠くから暫しその光景を見つめていると、また数人を切り殺してから、司馬昭殿はゆっくりとこちらに顔を向け、静かに、唇だけを動かした。


「おまえは、だめ、だ」


哀しげな微笑みに乗せて。絶望的なまでに、慈しみに満ちた声が脳裡に響いた。凍り付いた体が大地に縛られる。そのまま、私を置き去りにして遠ざかる背中に、憎愛を覚えた。そうして高みから憐憫を振り撒く、このひとこそが王者なのだと気が付いた。晒された無防備な背中。完璧な姿。いつか貫いてやろうと胸に誓った。司馬師殿に成り代わるだけでは足りない。この男を超えなければ。この男より高みから、あの顔を、あの眼を、いつか、私だけのものにしてやりたい。


燃え盛る想いが凍った体を突き動かした。欲情は、炎の色をしていた。






[END]
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