残夜のおわりに02 | ナノ

残夜のおわりに
※R18






それでも、どんなことにも人は慣れるものだ。愚かなことに。それとも俺はこれを生きるための適応だと言い張るつもりだろうか。ああいいさ、言ってやるよ。もうその浅ましさを嘆く場所には帰れない。此処で生きることを選んだ。生き続けることを選び取った。


初めて姜維と交わったあの夜から月日は流れて。その頃にはもう俺は、狂ったように勝ち目の無い北伐を繰り返す、蜀の人間の一員になっていた。そこに納まって見えてきたものもある。俺が息をするためにと姜維を利用しているように、蜀の人間は皆多かれ少なかれ姜伯約という存在を利用して、貪って、自らの何かを保っているのだと気が付いた。


なんて脆弱な基盤だろうか。その姜維が立つ足場は、姜維の目にしか映らない過去の妄執の産物だと言うのに。しかしだからこそ、この国では誰も姜維の暴走を止めようとしないのだと分かった。間違いを正さない。過ちを罰しない。この男が壊れては自分が困るから、ひたすらに正しいと盲信する道を走らせ続ける。


それを憐れと思うほどには、その頃の俺は姜維のことを大切に思っていたけれど、その流れに逆らってまで姜維を救いたいと考えたことは無かった。簡単な話だ。何度も繰り返しているだろ、俺も、生きていたいから。



「姜維…、も…っ、はやく……欲し、い」


寝台に押さえ付けられ後ろから覆い被さられて、犯される。今はもう、いつも、になった行為。一度、体を交えてから姜維は頻繁に俺を抱くようになった。もちろん俺が勝手に膝をついて舌を使って、それで終わりになる日も多かったが、終えた後に視線の合わないときは決まってそのまま押し倒され服を剥がれた。


抱きながら姜維が何を見ているのか、何を思っているのかは相変わらず分からない。交合の最中は必ず頭を押さえ付けられて、振り返ることを許されなかったから。だから勝手にあの侮蔑に満ちた暗い目を向けているのだろうと考えることにしていた。行為自体も、最初に交わったときと同じように、俺が何を感じるかは一切無視して一方的に行われる形のままだったから。家畜か人形か、性処理の道具として扱われ続ける。反吐が出そうなほど心が掻き毟られて、その分だけ幸福と紛うほど安堵した。手酷く扱われることを寧ろ求めていた。


「あ、あっ、姜維…もっと、もっとして…」


繰り返される行為に体が慣れて、最中の痛みに気を失わなくなってからは、作り声で喘ぐようにした。それで姜維が目覚ましい反応を見せることはなかったが、感情を無視して犯されているのにその行為に喘ぐ自分を考えると酷く滑稽で醜くて、自分でも容易く自分を蔑むことができたから。ただ嘘の声をあげるうちにどうしてか本当に感じてくることがあって、そのときばかりは嫌悪が勝り、吐いて押し付けられた敷布を汚しそうになった。この行為が本当の交合になってしまうことへの消えない恐怖があった。


俺は奉仕する側であって、姜維に気持ち良くしてもらう資格なんてない。感じることを覚えた体は揺さぶられる感触に慣れるほどに、ふとしたきっかけで快楽を呼び覚まそうとするから、誤魔化すように自分の手を熱を持ち始めた性器に這わせてこれは自慰の快楽だと自らを欺瞞した。姜維の目にはどれほど浅ましく映ったことだろう。でもそれで良かった。俺はそういうものであるべきなのだから。


「っ…ん、あ、……は、っふ…あ、あっ、ああ…!」



姜維が熱を吐き出すのに合わせて、無理に叫んだ喉が疼くように痛んだ。寝台に投げ出した足の内側を音も無く精液が伝う。突っ伏したままの頭を姜維の掌が優しい手つきで撫でた。普段は俺が起き上がって帰ろうとするまで、服を整えながら近付いても来ないのが殆どなのだが、時折そういうことがあった。正確には覚えていないが、おそらくは次の北伐に近い夜になるとみせる仕草なのだと感じていた。


大丈夫だって、俺に息をさせてくれるお前を裏切ったりするものか。そう言ってやれば姜維の心の何かを埋められるのかも知れないと考えたけれど、どうしても確信が持てなくて、いつもされるがままに掌の感触を味わった。奉仕に見せかけてお前を利用している分際で、厚かましくお前を満たそうとまでは出来ない。ただこうして無茶な抱き方をすることで、どんな形でも良いから、姜維が俺を利用できていれば良いと心から願った。


性処理でも良いよ。暴力を交合の形でぶつけたいだけでも良いよ。今の居場所は蜀だけだけれど、元々俺はお前を追い出した魏の人間なのだから、その恨みを刻み込んだって良い。侮蔑して罵倒してお前の好きに扱えば良い。――次々と浮かぶ言葉はどうしようもなく耳触りの良い綺麗事ばかりで、そうした態度を取ることでまた姜維に責任を押し付けている自分が垣間見え、血が滲むほど奥歯を噛み締めて、腐った言葉を呑み込んだ。



* * *



蜀のために死んで欲しいと言われた。もちろん、その言葉のままでは無かったけれど。


「頼みます、夏侯覇殿」


最後になる戦いの、最初の砦を護れという布陣。何があってもこの場所を通すな。引く場所は用意していない、たとえ最後の一人になろうとも、一人でも多くの敵兵を屠って、自陣に火を放ってでも魏を止めろ。決してその砦を越えさせるな。そうは言うものの明らかに蜀を滅ぼしに攻め入る魏軍に対抗するだけの戦力は分配されておらず、本当の役目は止めることではなく、敵の戦力を削る捨石となることなのだとすぐに理解した。


だというのにそれを命じる姜維の言葉に一切の淀みや悔いは無くて、その声を聞いていたら、自然と了承を答えていた。他の将たちもその布陣の意味を理解しないはずがなく、瞬間その場に動揺が走った気がしたが、続けて伝えられた成都までの布陣を聞くと皆同じく静かに了承の旨を告げていた。


本陣を背後に控える姜維の陣まで、幾重にも重ねられた布陣はそのすべてが逃げ場の無い関だった。それぞれの持ち場に与えられた役目は、魏を倒して生きるか、魏の戦力を削って死ぬか、そのどちらかしかない。同時に殆どの将が理解していたことだろう。迎える魏の戦力はこの蜀のすべてを賭した布陣であっても、姜維の陣まで戦い続けて漸く相討ちに出来るかどうかだと。



軍議を終えてもどうしてか心は静かなままだった。あれほど生きることに執着していた俺が、死ねと言われて何故それを拒む心が浮かばないのか自分でも不思議だった。無意識のうちに強がっているだけかも知れない。けれどもう、あの時のように生きるために逃げようとは思わなかった。いま此処からすべてを擲って逃げ出し泥水を啜りながらでも生きようとすれば、何か道はあるかも知れないと思ったけれど、それをするつもりは何処にもなかった。


考えることは、どうすれば少しでも魏の戦力を削って、成都へ足を運ぶ人間を一人でも多く減らせるかだ。最初に相対する将が誰であるかの予想はついた。かつての姿を思って、簡単に勝てる相手ではないと思案する。火を放つならその炎のせいで命を落とす味方は極力減らしたい。と言っても逃げ道のないこの布陣では、無駄に死ぬぐらいなら相討ちになれと命じようとしていることに他ならないが。


「夏侯覇殿!」


不意に後ろから声をかけられ驚いて振り返る。姿を見つけて走り寄って来たのか、息を弾ませて。久しぶりに明るい場所で相対して見た姜維の顔は酷いものだった。消えそうもない隈の浮いた目元に、双眸だけが強く輝いて、執着に後押しされるまま立ち止まることなど思い付きもしない眼をしている。


そうしてふと気が付いた。逃げようと思わないのは、姜維を置いていけないからだ。心配だとか、大切だとか、そういう優しいものではなくて、自分のために姜維を使い食い潰し続けた俺たちには最後に責任を取る義務がある。だからこそ蜀で生きてきた俺たちは誰も姜維の選択に背くことができない。


「今夜、私の部屋に来てくれないか?」


何の返事もできないままの俺に、少し声を落として姜維はそう続けた。これまでずっと夜な夜な合間を見つけて通い続けたのは俺の意思だったから、姜維からそうした言葉を聞いたのは初めてだ。あるいは陣立ての相談かも知れないと思いながら声も出せずに頷く。再び視線を合わせると、待っています、と静かに微笑んでそのまま足早に立ち去って行く。その後ろ姿を見送りながら、今夜が最後になるのだという確信が胸中に渦巻いていた。



* * *



「最後に、話したいことがあって」


人目を忍んで部屋に入るなりそんな声を掛けられて面食らう。いつものように寝台に腰掛けながら、初めて姜維はその隣へと俺を招いた。どうしたらいいのか分からなくなり言葉に詰まってしまう。考えてもみれば、夜にこうして姜維ときちんと会話したことなんて無かった。何処を見ることもできず目を伏せていると、肩に手を回されて、驚くほど静かに寝台に押し倒される。


「姜維…?」


押し倒されることの意味は当然分かっているのに、いつもとあまりに勝手が違うせいで動揺してしまう。思わず名前を呼んだ唇を舐められたじろいだ。そうして促されるままに舌を招き入れて、確かめるようにゆっくりと絡め合う。今まであれほど体を繋げてきたのに、口付けたのは初めてだった。俺と姜維はそんな関係では無いのだから。思ってこの先を考えると恐怖が広がり、逃げるように身を捩る。


惑う体を寝台に縫い留められる。けれどそれもいつものように力尽くで押さえ付けるのではなくて、背中に両腕を回されて抱擁されるから、おかしな錯覚をしそうになる。何かを言おうと思っても絡んだ舌に呑み込まれて言葉にならない。息が苦しくなると少しだけ離されて、髪を撫でられながらまた口付けを繰り返される。何度も重ねられるうちに初めてということも分からなくなってきた。いつもこうして抱き合って、愛し合うように口付けられていた気がする。この部屋で、この寝台の上で。


「ずっと、言えなかったけれど、私はあなたのことを慕っていた」


いいや、今も慕っている、他の誰よりも――。口付けの合間に告げられた言葉の甘さに思考が止まりそうになった。言葉を返せないまま帯を抜かれ服を脱がされる。自分だけ裸にされることがこの体勢ではどうしても気恥ずかしくて、姜維の服に手をかけたが制されることは無かった。脱ぎながらかろうじて袖が通っている程度の乱れた恰好のまま抱きしめられる。体温を直接に感じて、こうして肌を触れ合わせたことすら初めてだと気付いた。


そのままその言葉に溺れてしまいたかったのに。喉に柔く歯を立てられた途端、恐怖が噴き出して体が震えた。困ったように眉根を寄せる姜維を見ていられなくて頭を振るう。ごめん。だめだ。最後に、こんな優しい言葉を貰えて幸せなはずなのに。お前に優しくされる資格が俺には無い。されることが、怖い。駄目だよ姜維、俺なんか…俺みたいな裏切り者は蔑まれて、見下されて、そういうものとして扱われなければ駄目だ。


声を振り絞りながら、そう説明しようとするほどに涙が込み上げて、それでもたどたどしい言葉を姜維は一つひとつ聞いてくれているようだった。頷いて抱き締めて、頬を濡らした涙まで舐めとられる。小さな子供をあやすように、額に唇を落とされて作り物のように綺麗な頬笑みを向けられる。痛々しい目の隈だけがそれが作り笑顔では無いと教えてくれているようだった。


「けれどすまない、夏侯覇殿…今だけは私の願いを叶えてくれないか?」


私のわがままに付き合って欲しい。首筋に舌を這わせながら告げられた言葉に驚いて目を見開く。そういう言い方を姜維にされたことは今まで一度も無かった。その言葉を聞くと不思議と恐怖が鎮められるようで、恐るおそる姜維の背中に腕をまわして、言葉にする代わりに自分から肩口へと口付けた。姜維にはきちんとそれが伝わったようだ。舐めたり柔く歯を立てられたり体中を愛撫されながら、下腹部から更に下へと指を這わされる。


長い指に絡め取られたとき、初めて姜維にもたらされた快楽を素直に受け入れることができた。擦り合うように足を絡めると、指や熱を持ち始めた性器が体を掠めてそれだけで微かに喘ぎが漏れた。熱さへの恋しさに体が疼いて縋りつく。快楽へ導こうと絶え間なく動かされる指に自分の手を重ねながら、入れて欲しいと囁いて懇願した。自分の言葉が恥ずかしくて顔が熱くなる。隠すように胸元に顔を埋めると髪と項に口付けられる。羞恥と安堵と快楽とが渦巻いてどうにかなりそうだった。


けれど声は届いただろうに、姜維は指を動かすことをやめようとしない。いつの間にか重ねていた自分の手まで巻き込まれて、愛撫されているのか自ら慰めているのか分からなくなる。緩く撫ぜられて扱かれて、熱の籠った空気にも呑まれ、次第に限界へと導かれていく。体はとっくに快楽に負けているのに、達してしまえば今が終わってしまう気がして、逃げるように体を引いた。しかしそれもすぐに捕まえられる。呼吸に混じって零れる声。半開きだったその口に舌を挿し入れられ、溢れそうになる唾液を嚥下して、喉を鳴らしながら姜維の手の中に熱を吐いた。


そうして荒くなった呼吸を整える間もなく、吐き出したばかりの粘ついた精液を挿入の助けにと塗りこまれる。何度も強引に暴かれて広げられた体は簡単に指を受け入れた。慣れた手つきで数を増やされ内側を押し広げられる。していることはいつもと変わらない前準備なのに、その手つきがひどく優しくて、性器を弄ばれるのとは違う快楽が背中を駆け上がり息を呑んだ。充分に指を埋められた頃には達したばかりの熱までよみがえり始めていた。


挿れられた姜維の指に、穴を広げるためだけではない意図が込められていることも、初めての経験だった。探るように体内を弄る指が熱を呼び覚ます場所を見つけようとしている。排泄のためにあるはずの場所で快楽を得られることは知っていた。押し込めた記憶の中に何度かそれを感じた過去もあった。あるいは作り事の声をあげながら自分を欺瞞に導いた快楽の出所もそれと同じだったのかも知れない。


「……ぁ、あっ」


余すところなく体の中を触られる内に自然と声があがるところがあって、そこに指を這わされるたびに頭の奥が痺れた。姜維のためにと偽りを掲げてあげていた声とは違う、自分の意思を無視して零れる喘ぎは、作り事のそれよりも余程おんなのようで抑えることができない。声は耳に響くたびに快楽を押し上げる。つい塞ごうと口元に動かした手は止められて、形を確かめるように一本ずつ指を舐られてわけも分からず鳴いた。体中が熱い。この体で、姜維に触れられたことの無い場所はもう無いだろう。


快楽のありかを教え込むように中をなぞりながら長い指が引き出される。粘ついた音が響いて、それにも反応してしまって、羞恥に背中を震わせる。無意識に閉じようとしていた脚を開かされ抱えあげられた。背中を仰け反らせて呻く。額から伝う汗が姜維の睫毛を濡らしたその光景さえどうしてかひどく性的なものに見えてしまう。空を切った踵が姜維の肩に触れる。なんて体勢だ。嫌でも昂った自分の性器が視界に入って、固く目を閉じた。どちらのものか分からない汗が胸元を音も無く伝い落ちる。


暗やみの中で、いつの間にか強く屹立していた性器を体内に押し込まれる。圧迫感に理性が戦慄いて、喉を震わせてひたすらに鳴いた。敷布に立てていた爪を背中に回される。もっと奥へと求めるように深く抱き寄せる。耳元で姜維が小さく呻いた声が聞こえた。時間をかけて慣らしながら体の中を動かれる。回数を忘れるほど抱かれていたはずなのに、初めて交わったような心地がした。恐怖が顔を出しそうになるたび、どうしてそれが分かるのだろうか、姜維に優しく口付けられて絡みついたしがらみが解けていく。


俺はなんて贅沢者なんだろう。この国でも心を歪ませずに幸福を得られるのか。痛みを伴わなくても息ができる。何から何までお前に与えてもらって、嬉しくて、そんなお前を利用し続けたことが苦しくてならない。ごめんな、姜維。今更それを謝ることは許されないから何も言えないけれど、せめていま俺がどれだけお前を大切に想っているか伝われば良いのに。


揺さぶられるほどに快楽を煽られて、動かされるままに喘ぎ続けた。それ以外の言葉を忘れたように姜維の名前を呼ぶ。同じように、滾るほど熱の籠った声音で名前を呼び返される。このまま理性を取り戻せなくなるかも知れないと錯覚するほど気持ち良くて、抱えられたままの下半身を自分の意思で動かすことができない。響く声を呑み込むように行き場を無くした舌を舐めとられる。交わった体は何処から何処まで繋がっているのだろうか。


限界を感じて、薄く目を開く。熱に浮かされた姜維の顔が濡れた視界を埋めた。触れ合いながら微笑まれる。このまま体ごと崩れてしまえば良いのに。馬鹿な夢を見て、深く穿たれた体が快楽に追い立てられて、姜維の腹部を汚しながら昂っていたものを吐き出した。そうして残滓を滴らせながら力の抜けた体を何度か揺すられて、甘い声で俺の名を呼びながら姜維が達するまで、ひとつに繋がった感触を繋がれた幸いを、余すところなく体に刻み込んだ。



* * *



「本当はずっとこうしたかった」


汗に濡れた髪を梳かれながら姜維の声を聞く。熱が引いてからは寝台の上でただ抱き締めたり、口付けたりを繰り返して、帰らなければと思う体を引き留められた。硬い寝台に二人で横たわる。こんな夜が来るなんて、実際にしている今でさえ信じられなかった。


柔らかな言葉に擽られて、首だけ動かして暗がりの中の顔を見つめると、今にも泣きそうな顔をしている姜維が目に映る。驚いて身を乗り出せば、すみませんでした、と震えた声が耳に届く。それでもそれが零れることは無いのだろうけれど、涙の溢れそうな目尻を指で拭って、何を謝るのか、問えば、今まであなたを酷く傷つけた、と返る言葉。それに誘われて初めて抱かれたときの痛みを思い出す。


「お前がしたいなら、俺はそれで良かったよ」


口に出してから随分と身勝手な言葉だと気付いたが、今さら訂正もできずにそのまま姜維を見つめた。俺がそう扱われたかったという思いが根底にあったにせよ、姜維がそうしたいと思って、俺の身体を利用できていたならそれで構わないと思ったことも本心だった。寧ろ痛めつけたことを姜維が悔いているならそれは違うと言ってやりたかった。歪んだ形であれその痛みに救われていたのだから。そうして息をしていたのだから。


ところが、暫く押し黙ってから、姜維は首を振った。否定の意味で。


「なら、どうして?」


躊躇うような仕草に焦燥を感じて思わず問い詰めるような語気で声を出す。答えたくないのか姜維は視線を逸らす。無意識にか身を引こうとする体を、肩に手をかけて強く留めた。顔を覗き込んでも姜維は目を伏せたまま視線を合わそうとしない。姜維。名前を呼んで頬に触れる。此処で逃げてはいけないと思った。逃げればこの先、姜維は決して答えようとしないだろう。それに、もう俺には、この先なんて無いのだから。


拮抗したまま、視線を逸らさず見つめ続ける。暫くそのままでいて、漸く、観念したのか姜維が視線をこちらに向けた。泣きそうな顔をしていた。泣いてしまえばいいのに、泣けないのだろうと思うと胸が苦しくなる。


「……あなたの罰になりたかった」


――ならなければならないと、思ったのだ。静かな声。姜維の言葉を頭の中で反芻する。罰、に。震える眼を見つめながら息が詰まった。ああそれとも震えていたのは俺かも知れない。咄嗟に目を逸らしたくなったが、それではいけないと思い直して、交えた視線を噛み締めた。


罰と言った。ひどく合点の行く言葉だった。今まで俺が抱えていた、言いようのない恐怖や膝をつかなければという焦燥は、その言葉ひとつに集約されるものなのだと気付いた。そうか。そうだ俺は、生きるために国を捨てて逃げ出した俺は、俺の過ちは、罰されなければならないと――。何を捨てても生きようとすることは間違いではないと思っていた。それでも何処かにそうまでして生きることへの侮蔑があって、だからきっと、俺は誰かにそれを糾弾されたかった。誰かが咎め罰してくれるなら、それに背いて生きる権利を得られると、それでも生きたいと望むことへの正しさを抱けると、思って。


耐えられなくなったものが込み上げて、気が付けば姜維の顔に涙を落していた。罪悪感に満ちた顔をした姜維に頬を拭われる。そこまでを、明かしてはならないと思っていたのだろう。そんな顔をしないでくれと言いたいのに、浮かぶのは身勝手なことばかりで声が出ない。ずっと姜維を利用していると感じていた。けれど姜維がそれに気付いているなんて、気付いてなお利用することを許してくれていたなんて、考えもしなかった。生きるためと飾り立てた建前を掲げて、仕方が無いのだと目を逸らすばかりで、姜維の優しさを分かろうとすらしなかった。



そうして先程の言葉を思い出す。なりたかったと、告げて、ならなければならないと、言い直した。意思の裏に責務がある。その言い方には既視感があった。そうでなければならない。そうされるべきだ。それを繰り返し自分に言い聞かせていたのは他ならぬ俺だ。――裏切り者の俺はそういう存在で無ければならないはずだ、と。


「……ああ。…ああ本当に、お前は、ばかな奴だな」


本当に、どうしようもなく愚かで、悲しくなるぐらい優しい男だよお前は。



込み上げる涙を抑えられないまま姜維を抱き締める。呼応するように姜維は俺の背中に腕をまわした。止まる気配の無い涙は、本当は姜維が流して少しでも楽になれるはずのものだろうに。お前の代わりに泣いているというのはあまりに傲慢で、けれどそれで少しでも姜維の何かが軽くなれば良いと願う。


「夏侯覇…殿?」


こんなにも分かり合えたはずなのに、お前を置いて死ななければならないことが悔しかった。初めて自分のため以外に生きたいと思った。俺を生かしてくれたお前のために、死んでやろうと思っていたけれど。駄目だろ、俺は、お前の隣で生きてやらなければ。生きて、やらなければならないことがあるのに。俺ならお前にしてやれることがある。生きて、いれば。


どうしてもっと早く気付いてやれなかったのだろう、こんな間際ではなくて。できることなら蜀に降ったあのときに戻って愚かな俺の目を醒まさせてやりたい。姜維を利用しなくても、姜維に自分を利用させなくても、息をすることを許される道があるはずだと一緒に探せただろうに。誰もがお前を貪って生きようとしているこの国で、もしあのとき気付けていれば、俺はそれに染まらずにお前と生きられたはずだ。


生きるために国を捨てた裏切り者、は。屈従して蔑まれるべきだと俺が自分を罵倒したように、他人のために食い潰されて当然だとお前は自分を呪ったのだろう? 誰もお前の過ちを罰そうとしないこの国で、抗うこともできずに、逆らう自由すら得られずに誰かのためにその体を削って、心を擦り減らして。不確かな道を何一つ罰も与えられずに生き続けるというのはどれほど苦しいことだろうか。自分を呪いながら、それでも呪った自分をたった一人で信じ続けなければならなくなるなんて。



抱き締めたまま、解かれた長い髪を撫でるように梳く。してやれたはずのことは何一つできなかったけれど、最後に一つだけ残せるものがあることに気が付いた。髪をかきあげて顕わにした耳元に、涙に嗄れた喉で囁く。


「俺を慕ってくれていると言ったよな?」


はい、と。頷きながら答える姜維の声を焼きつける。小さくてまっすぐな声。少しだけ、最後にお前を理解できて、分かったことがある。これが最後になる夜にお前がそれを打ち明けた理由が。押し留めていたものを最後にさらけ出したのは、死ぬ前に愛し合いたいとか、最後ぐらいまともに体を繋げたいとか。きっとそういう甘美なものだけではないはずだ。そうだろう姜維、それだけじゃない、よな?


「俺も、お前を大切に思っているよ。いま他の誰よりも」


それだけ、と。それでも含みを持たせてしまう自分の甘さを自覚しながらそう告げる。瞬間、微かに姜維が体を震わせたことに気が付いた。聡いものだと感心してしまう。でも今は良いよ。腕に力を込めて震えに気付かないふりをする。気付かないふりをしようと、声に出さずに、姜維に伝える。


「……はい」


淀みなく頷く声が耳に届くと自然と微笑むことができた。涙はまだ壊れたように頬を伝っていたけれど。


それでいい。お前の間違いを正さないこの国で、お前に罰を与えないこの蜀で、俺が一つだけできること。誰より慕った相手は、想いを通じ合うことのできた大切な人間は、これからお前の暴走に巻き込まれて死ぬよ。それを苦しんでいい。悲しめばいい。そうして、それでも、と。それでも生きてやらねばならないことがあるのだと、傷ついて刻み込んで踏み台にして、生きろ。この命を利用してくれ。誰より慕う相手と飾り立てた俺を、失ってでも進むべき道があるのだと、その正しさを抱く術をお前に残していくよ。


「俺がお前の罰になってやるから」


腕の中で姜維が頷く。これが最後になるぬくもりが悲しいほど温かかった。どんな顔をしているのかは見えなかったけれど、見えなくても分かる気がした。遅くなってごめん。こんなことぐらいしか残してやれなくて。



一緒に生きてやれなくて、ごめんな、姜維。



* * *



砦が燃える。矢傷を受けて熱く痛んだ傷口も、炎に呑まれれば分からなくなる。兵は尽きた。約束通り一人でも多くの敵兵を削って、皆死んでいった。残るのはあと俺ひとりだけだ。


「久しぶりだな、鍾会。お前とこうして戦うなんて、まったくおかしな因果だよ」


蜀で生きられて俺は幸せだったよ。だからどうか。


「さあ逃げ道無しの背火の陣だ。夏侯仲権、刺し違えてもあんたらを止める! ってな」


願うよ、お前が正しく生きられるように。






[END]
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