「うわぁ、こりゃまた随分と…」 空を見上げると、雲を通って次々に水滴が降り注いでくる。警察署から出てきた途端に僕の視界には先程まで太陽が照らしていた光景など跡形も無くなっているものに変わっていた。外に止められている車に打ち付けられていく大粒の雨。 今日の天気予報でも雨が降るなんて予想を訊いていなかった上に、先程までの晴天ぶりからすっかり油断してしまっていた。傘など所持していない。 さてと、と此処で踵を返して署内に入って傘でも借りればそれで済む至極簡単な問題であったが、それよりも手っ取り早く雨宿りが出来そうなものが横を通る。 白昼堂々とよくもまぁこんなところをうろついているものだ。 「ああ、そこの素敵帽子君!」 人通りがそれほど多くない此処で少し大きく声を張ればすぐに相手は気付いてくれた。 「ああ?」 「ちょっと待って、ね!」 軽快な足取りで僕は通路で大きな傘を指している知り合いを見つけて呼び止めて向かう。多少は濡れてしまったが、それはまあ大目に見て大きな水溜りを一つ乗り越えて傘に侵入する。 「…なんだよ、手前か」 「君が偶々通りかかってくれて助かったよ。何せいちいち警察の人と会話をすると面倒なことが舞い込んでくることもあるからさ」 「傘が無いのか?…って、なんで手前が俺の傘の中に入ってきてるんだよ!」 何を彼はそんなに怒っているのだろうか。よく判らないのでそのままもう少し僕が濡れない位置にまで潜り込んでみる。 すると彼はそれが気に入らないらしく、押し出していこうとする。ああ、傘が揺れて肩が少し濡れてしまったじゃないか。 「傘に入れてくれないと君を今すぐ警察に突き出しても構わないんだけど」 「……はっ、出来るもんならやってみろよ」 多少の間が最初にあった。きっと、僕のこの発言に怯えているんだろう。きっと此処で僕が彼を本気で突き出そうと思えばそれは容易だ。力でこそ彼に叶いはしないが、力以外で彼より上回る知識力を駆使することは可能だ。 「それにそもそもマフィアが警察署の前を堂々と通っているのが拙いんじゃないの」 「疚しいことがあるという素振りを見せるからいけねーんだよ。堂々としていれば不審には見えねー」 「確かに、それも云えているね」 この男もそれなりに考えているんだ。 少しだけ中也という存在認識が変わって行った。 「そんなマフィアさんが今何をしていたんだい?」 「敵対している野郎に誰が喋るかよ」 「ふうん、大体これから小さな集会でも開かれるんだろうけれども」 「………判ってんじゃねーか」 大きな溜息を一つ、雨と一緒に落とされていく。随分と重たい息だったのか、水溜りが少し揺れた。 「手前は絶対集会には連れて行かねーからな!」 「判っているよ。僕だってこんな準備もしていない状態で敵陣に一人で突っ込んでいけば好いカモだと思われて美味しく調理される結末が目に見えるよ」 「だったらさっさと消えろ。今なら見逃してやるよ」 随分と低くて重い声色を使われる。僕は彼に嫌われてし合っているのだろうか。 しかし此処で直ぐに放り出されてしまったところで帰宅するにも遠くて風邪を引いてしまう。周囲で傘を指していない人達は直ぐに屋根のある敷地へとお邪魔している。仕方ないから何処かで傘を購入するしか手段は無いかもしれない、と腹を括っていた。 けれども、それは実行されずに済んだ。 「…何処に向かうんだよ」 「―――え?」 「手前がこれから行く場所だよ。そこまで送ってやるから云え」 「……探偵社だけど」 「とっとと行くぞ」 彼は躊躇せずに路線変更をして僕をきちんと傘の中へと入れてくれた。互いに身体の骨格が大きくは無いので大きな傘に収まっているのだろう。僕は見事に彼のおかげで濡れずに済んでいる。真逆送ると自分から云ってくれる人物だとは全く思ってもいなかった。本当は強請って脅して誘導してしまおうという手段も脳内の片隅に残っていたのだが、矢張り彼の認識が僕の中でまだまだ薄いみたいだ。 「…雨って厭だよね」 「そうか?」 「だってじめじめするし、気分も下がる。気軽に外出するにも傘を指してそこから迂闊に飛び出したら濡れてしまったりと制限が多くなって縛られている気分になるからさ」 「……確かに、今は二人分の身体を押し込んでいるから余計に厳しいな」 彼が少し皮肉を吐いてきたが、特に気になりはしなかったのでそのまま放っておいてまた違う話を振ってみた。別になんてことない話。他愛無い話だ。マフィアも探偵も関係無く、初対面の人にでも気軽に訊ける様な内容だ。 とはいえ、僕の中で彼の認識がどんどん深まっていく。元々太宰との関係性が強くマフィアとしても優秀な人材という程度の印象しかなかったのだから仕方ないけれど。 「うわっ」 突然、車が猛スピードで横切ってきた。細い歩道を二人で並んで歩いているのだから限界まで幅を取ってしまっている。危険性があるのだが、それでも安全だと見切っていたのだが、派手な水音が跳ねる。 それを避ける為にか、隣に居た彼は僕の腕を引っ張り、傘を斜めに傾けて防いでくれた。 「気を付けろよ」 「君は中々紳士的な男だね。口は悪いけれど」 「うるせぇよ」 最後の言葉も口は悪いけれど、それでも最初に会った様に苛立ちを見せている顔ではなく、頬から緩んでいた。 「ああ、もう角を曲がった先が探偵社だから此処で良いよ。君もその方が何かと都合がいいでしょう。まぁ、僕も君と二人で並んでいる場面を迂闊に見られてしまったら後々面倒になりそうだからさ」 「そりゃあな。特に太宰の顔なんか二度と見たくねーから」 「君達は本当に火花を散らし合っているよね」 此処で終わりか。 大きな水溜りが数か所に出来るぐらいには雨が降り続いて、ちっとも止みそうにない。 雨。 ああ、あめ。 『あめ』という単語で思い出した。僕はごそごそと擦れる服の音を立てながらズボンのポケットから手を入れて飴を取り出す。 「…何だよ」 「君へのお礼だよ。なんだかんだと此処まで送ってくれたからね」 警察署で飴玉を数個貰っていたことを思い出した。苺味が二つと、ぶどう味が一つ。 「特別に君にどの味がいいのか教えてあげるよ」 「それじゃあ、ぶどう二つ」 「ええ、二つも?んーでも君には感謝をしているからいいよ!でもぶどうは一つしかないよ」 「じゃあ苺二つでいい」 何故か二つに拘っている彼を不思議に感じながらも苺色の包み紙を二つ、彼の手に乗せてあげる。早速その飴玉を舐めようというのか、一つ彼の口の中に入る。僕はこれでお別れだと思い、傘から出ていこうとしていた。そんなことしか考えていなかったので、もう一つの飴紙を破っていたなんて気付きもしなかった。 「口開けろ」 「え?」 彼から云われた言葉通り何気なく口を開けると、そこには苺味の飴が入ってきた。予想よりも甘酸っぱさが主張されているこの飴は徐々に口の中に溶け込んでいく。 「なんで、君が食べたいんじゃないの?」 「手前と同じものを食べたら少しは理解出来るのかもしれねーと思ったんだよ」 「理解って僕を理解するのか?」 「そうだよ。こんな真隣に敵対人物がいるのに警戒心も一切見せずにぺらぺらとのべつ幕無し怒涛の会話。その態度に驚愕されたんだよ」 ああ、そういうことか。 彼もまた僕を認識して居る最中だったのだ。僕の中の彼が薄かったように、彼の中の僕も薄いのだ。薄っぺらくてまだ未熟。甘酸っぱい苺味はまさにぴったりだ。 「……君は今飴を舐めてどう思った?」 「甘酸っぱい。こんなに苺って酸っぱいか?」 「そうだよね。ははっはははっ」 僕は笑う。 君を置いて一人大きな声を出して笑う。 勿論意味が判っていない彼は首を傾げて僕をそれこそ警戒していたかもしれない。けれど、そういうことじゃなくて…どういうことかというと、単純に同じだったことが妙に嬉しかったんだ。同じ感想を抱いていたんだから。 「きっと、このあめが無くなった頃には君を少し理解できているかもしれないね」 そう一言残してさっと走る。 「またな!」 後ろから確かに聞こえた声は、彼の出した言葉で、雨を突っ切ってきちんと届いていた。 |