隣には、君だ | ナノ
 



 大抵喧嘩は案外些細なものであることが多いのだ。自分の食べたかった物を別の人間に食べられてしまったからと云って騒動を起こす愚かな姿を晒している人間を見たことがある。
 今回、私が怒って彼に大きな声を出してしまったのも、その類のものなのだ。だけれども、人が真剣になっているところを邪魔されてしまえば誰だってその人物に怒りを露わにしてしまうのだ。

「ねぇ太宰。これから暇?」

 仕事を無事に終えて直帰しようとしてた場面に、乱歩さんから声を掛けられる。彼からこうして何か誘いごとがあるなんて滅多に無いのだ。だから、こうして誘われて素直に顔が綻ぶ。

「これから家に帰ってオリンピックの応援でもしようかな、と考えていただけです。よろしければ一緒に楽しみませんか?」

 4年に一度の大きな世界ぐるみの大きなイベントだ。それぞれの競技に出てスポーツ選手が一所懸命戦う姿を私達一般人も自国に対して応援して気持ちを一つにしていく。私も勿論生まれた土地である此処を応援しているのだが、それを隣で乱歩さんと一緒に楽しめればそれは凄く面白くなるのではないかと考える。
 誘いに了承してもらえたことで乱歩さんの顔には隠しきれない喜びが溢れ出ており、その様にまたにやけてしまった。
 そう予定が決まればコンビニに途中で立ち寄って二人で軽く飲み物を調達したり、帰るまでに軽く互いのスポーツに関する話をした。
 私も別に特別スポーツに熱狂的であるわけでは無い。おおよそのルールは理解してテレビ画面で眺めているぐらいの知識だ。しかし、乱歩さんは全くの知識が無いということが発覚した。当初は彼自身にとってテレビ鑑賞をするのに苦痛ではないかと心配もしたが。

「いいよ。太宰と一緒に見て楽しめるならなんでも」

 彼としても珍しい発言をしてくれてそのまま家に着いた。なんだかんだと楽しみにしている乱歩さんは真っ先に私の家に到着すると靴を乱暴に脱ぎ捨ててテレビを点けて定位置を早くも確立していた。
 私も直ぐに彼の隣に並んで一緒に楽しもうと思っていたのだ。試合が始まるまでは。

「……ねぇ、此れって如何いうルールなの?」
「柔道には先ず体重の基準値によってそれぞれ階級がありまして―――」

 それからだ。彼は一つ一つ質問を見ている最中にしてくるのだ。「今どうして勝ったのか」「足は使ってもいいのか」
 何故?という問いかけに一つ一つ答えていけば、自分自身が楽しめる環境に無くなってしまっていたのだ。もっと画面を見て会場の臨場感を一緒に味わいと想像していたのだ。

「乱歩さん、少し黙っていてくれませんか?」
「ええ、でも僕あんまり柔道て詳しくないから見ていて判らないんだけど」
「乱歩さんが事件を解決している合間に文句を云ってくる人が居たら厭でしょ」
「そりゃあ厭だけれど、これとその状況が同等だと考えるのは難しいんじゃないか」
「私が厭だと思っている気持ちはそれと同じですよ」

 しまった。
 云いすぎてしまったのではないか、と後悔したときに画面の中では大きな歓声が巻き起こり、祝福をしていた。それなのに、私が想像していたのはこういうものでは無い。もっと二人で笑って会話がしていたかったのに。

「そうか、判った」

 乱歩さんは一体何を判ったのか、それから先は黙って前のテレビ画面を見始めた。此処で直ぐに帰られなかっただけよかったのかもしれないが、それでもこの状況は非常に重苦しいものだ。
 隣に居る彼は背中を丸めながらも真顔で画面の人を瞳が追いかけていた。

「…………」

 私に非があるのは判っているのだ。乱歩さんに悪気がある筈では無い。悪気が無いから許されることでは無いと考えているが、乱歩さんの場合は知識が全体的に偏っているのだ。
 身体半分だけ身を引いて彼の背中を視界に入れながらも画面を見ていく。彼と恋仲になってから初めて面と向かった喧嘩をしたかもしれない。二人は喧嘩なんてしないだろう、なんて他者から云われていたが、きっかけなんて本当に些細なものだ。
 試合が次々に行われていく途中に、私は一度重たい腰を起こす。
 すると何か不安な表情を見せながら隣に居た彼はこちらを見る。

「まだ試合の途中だよ」

 ただ席を立って飲み物を取ろうと考えていただけなのだが、彼はその行動を別な解釈をしていたのだ。このまま何処かに行ってしまうのではないかと思っているらしい。

「…乱歩さん、何が飲みたいですか?」
「―――え、と。じゃあラムネ」

 この時期になると乱歩さんはラムネが本当にお好きだな。
 少し話しかけづらくはあり声を掛けたらいいのかどうかと抵抗を持ったが、彼もそれは同じ様で。二人して科白の出だしが少し掠れていた。声を出し馴れていなかったみたいだ。先程まであんなに口論して声を枯らしてしまうのではないかと喉の調子が心配になったというのに。

「……ふふっ」
「………ん?」

 思わず笑ってしまった。
 喧嘩をしていた筈なのに、今こうして普通に会話が出来ているのだから。不思議なものだ。それだけ大きな火にならなかったのだろうが、それは私ではなく乱歩さんが大きな要因なのだろう。彼の性格が、私から怒りを取ってしまった。

「いえいえ、黙っている乱歩さんは矢張りらしくないなと思いまして」
「別に黙って見ていても面白いってことが判ったからこれからは黙って見ていることにするよ」
「そういう意味じゃないですって」
「だって太宰は僕が要所要所で喋ると不機嫌な顔を見せてくるじゃないか。そんな状態で二人楽しめるとは思えないからさ」

 乱歩さんはテレビ画面に目を向けているまま口だけ動かしていた。
 今一つ乱歩さんに私の気持ちが届いていないのか、すれ違った会話をしているのではないかと不安になり、直ぐに飲み物を用意してまた定位置に戻って彼の間近にまで迫る。

「私としても無知な乱歩さんが突然一緒にテレビを見て楽しめるわけ無いのは判っていたんですよ。それでも、乱歩さんと一緒に楽しみたいと我儘を云ったのは私です」
「無知だから楽しめないわけでは無いよ。そりゃあ誰だって好き嫌いが個別に存在するし人が同じ気持ちや感性を持っていたらそれこそ奇妙な世界が出来上がる。皆のレベルは同じになってオリンピックなんてものも存在しなくなるだろう」

 ……なんだか壮大な話に発展していっているのではないか。それでも黙って乱歩さんの意見に耳を差し出していると。

「僕はただ、太宰が楽しんでいるものを一緒に共有したかったんだよ。知りたかったんだ、お前のこと」

 そう云うと乱歩さんは私の肩をめがけて身体を倒してきた。頭が肩に見事ぶつかり、重みや体温が伝わってくる。
 同時に画面上ではまた大きな歓声が湧き上がり、私自身もそれに同調して熱が上がっていく。

「…喧嘩、悪くないかもしれないですね」

 喧嘩でも口論でもしてみなければ彼の本心など引き出すのが難しいのかもしれない。だって、乱歩さんがそんな風に思ってくれているなんて口にしてくれるまで気付きやしなかったのだから。
 私は目の前に置いてある飲み物に口をつけて、喉を潤す。まだまだこれからきっと喋る羽目になるのだろうから。

「え、僕達って喧嘩していたの?」