※死ネタ注意 爽やかな春風が頬をくすぐりだして、もうすぐ春がやってくるのだろうと身体全体で感じていながらも、隣に居る乱歩と共に俺は散歩をしていた。 「もうすぐ春だな」 「んー…そうかな?まだ十分寒いし、暖かいものが食べたいよ」 乱歩はまだ風が冷たいと表して随分と恰好を暖かく着込んで冬を感じさせていた。 まあ、その意見も全く批判することでは無いので、そういう捉え方もあるのだな、と認識して育ち始めている木々を視野にいれていく。 外は寒いから早く帰社したいと云った風に小言を云いながらも、それでも俺のゆっくりとした歩みに合わせて隣に並び続けている。個人的にはゆっくりと街並みを観察してのんびりと帰社出来ればいいのではないかと思っているのだ。それに合わせてくれる乱歩は、にこりと表情の好いものを見せながら云った。 「でも、たまにはこういう二人で散歩みたいなのも悪くは無いよね。それに、美味しいものがあれば福沢さんが買ってくれるだろうからさ」 左右を見ているのは、食べ物目当てなのか。自分の財布を少し触って確認しながらも、それでも隣にいてくれる優しさや彼なりの思いやりも嬉しく受け取る。 「でもさ、この桜が見える頃に来たかったなぁ。矢張り暖かい方が情緒があってなかなか風情があると思うんだよね」 「………そうか」 冬もまた風情があるとは思うが、彼には未だその好さが判らないのだろう。それを押し付ける必要も無いのでそのまま受け流しながら、目の前に見える小さな桜の木を見た。その先に大きさが疎らな桜の木が連なっている。しかし、この桜の木は… 「これは数年経たなければ綺麗に咲いている姿を閲覧するのは難しいだろう」 今はまだ成長途中の段階なのだ。来季に見れるというわけでもないだろう。 「えー、じゃあ桜が咲くぐらいに大きくなったら二人で見に来ようよ」 その言葉に返すものが見当たらなくなり、口だけが開いてしまった。「何、驚いているの」と乱歩に問われてしまうぐらいに顔に出てしまっていたのだろう。 しかし乱歩が真逆共に見に来ようと云って期待十分の顔色を見せてくるとは思いもしなかったのだ。 「なら、大きくなったら来るか」 「後何年くらいかな。まぁ、僕がおじいさんになる前には咲いてくれると思うけれど」 「そんなに時間は掛からないだろう」 きっとここら一体に桜が咲き始めれば綺麗な桃色に彩られて春を表してくれることだろう。後数年の辛抱だ。 「それまでに福沢さんが約束を忘れたら許さないからね。ああ、それとも体に印でもつけておこうか。油性だと風呂に入り続けていたら消えてしまうから…うーん、如何しようか」 「そんなことをしなくても忘れるわけがないだろう」 お前との約束なんだから。 大事な二人で見に行くという約束を無下にするほど非道な男では無い。孤独な男の過去を持っているが義理等には忠実な人間であったのも確かだ。 「じゃあ、ほら」 そう云って乱歩は小指だけを立たせて片手をこちらに向けて差し出してきた。指切りをしようという約束事だろう。懐かしいな、と思い乱歩の形を真似て自分も同様に彼の手の前へと出して、そのまま互いの小指を絡める。 「指切ったら針一万本のーます!」 「……千本だろう」 「あれ、そうだっけ」 まあ、いいかとお気楽な彼なら約束事を守ろうが構い無しに針を千本飲まされてしまう可能性もありそうで怖い。しかし、二人の約束を忘れることは無かった。 忘れはしなかったのだ。 国木田君が号泣していた。それが社内に響く。それにつられて谷崎君も泣き始めてティッシュの残骸が目の前に散乱している。敦君なんて顔が酷く崩れている有様だ。太宰なんかは無表情でありながらも怒りを露わにしている面もあった。 そんな中で僕は一体どんな表情をしていたのだろうか。 「乱歩さんは、悲しいと思わないんですか?」 失礼な発言だなと思いながらも、敦くんは僕に対して直球で言葉を投げかけてきた。どうやら傍から見れば僕は悲しんでいるわけでもなく、怒りを見せているわけでもないらしい。 何時も通りの表情に見えると云われた。 ―――福沢さんが死んだ。 癌を患って闘病生活を送っていたが、結局病院でそのまま息を引き取ってしまったのだ。 今まで元気に社の筆頭として活躍していた彼がいなくなれば社内全体の色合いが黒く濁ってくるのも可笑しくはない。親しい人がいなくなれば泣くことは心理上普通なんだろう。だから、僕は彼らが泣いていることに対して不謹慎な発言をするつもりは無い。「泣くんじゃない」なんて言葉を投げかけてみろ、今度は僕に怒りが向けられる。「泣くなって方が無理難題だろう」と大方行き場に困る感情を僕へと放り投げて発散するに違いない。 「………」 社長室の扉を見てみる。開けられたその扉の向こうには少し前まで社長が利用して温もりを残していた場所だ。そこに、今は誰も居ない。誰も入る気分にならない。 数時間前に葬式を終えて、社長との別れをしていたが実に綺麗な顔だった。ほとんど無表情な彼ではあったが、仄かに安らぎの表情が見え隠れしていた。 扉から視点を変えてそのまま僕は社の玄関口にまで歩く。 「乱歩さん、何処に行くんですか?」 誰かがそう訊いてきたが、僕は特に応えることも無く一人で外へと出ていく。特に誰かが追いかけて問い詰めてくる気配もなく、彼らはまだ社長との別れの余韻に浸っていた。 僕だって悲しいと思った。心の中では未だに整理がついていない。人の死を見ることは慣れていた筈なのに、たった20余りの人生で両親に親しい人間すらも死を見る嵌めになろうとは想像もしていなかった。 そんな想像などしたくも無かっただけだ。 頭を一度左右に振ると、大きく風が横切っていく。そして、それに倣って横から桜の花びらが一枚流れてくる。 「………もう、春か」 とうに春を感じていた筈なのに、矢張り桜を見るとその想いは余計に強まっていく。 桜が流れてきた場所を特定するべく、花びらの元へ歩いていき大きな桜の木の前へと立つ。 「もうすっかり桜の木が大きくなっていたのか。まぁ、暖かくなるからと云って花粉が散漫していて悪い面もあるけれど、きっとそんな文句を云ったら社長は怒るのかもしれないね」 周囲には桜の木を見て眺めて風情があるとうっとりしている。しかし、黒い衣服を纏っている僕の周りには少しだけ異質な壁が張られている様に皆近づいては来なかった。その方が助かるが。 「社長は約束を破ったから針…何本だったけ。飲まさなければならなくなってしまったね。一緒に成長した桜の木を見に行こうと云っていたのに」 此処で何か一人で呟こうとも別に社長が返事をしてくれるわけも、存在しているわけもないし、ただただ桜の花は散っていくばかりだ。 「……ぁっ」 ああ、駄目だ。 思い出してしまった。 あの顔を。 生きている彼の姿を想像しようと努力しても、矢張り新しい記憶が鮮明に蘇ってきて邪魔をしてくる。彼は死んだのだと思い知らされる。 すると、途端に僕の眼からは大きな粒が頬を伝って落ち始める。 悲しんでいなかったわけじゃない。頭が追いついていかなかったのだ。整理が出来ずに、現実を受け止めるだけの度量を持ち合わせていなかったのだ。今漸く泣き出すことが出来た。 「……なんで、なんで…社長が死ななきゃならないの」 笑った顔。 安らかな顔。 怒った顔。 安らかな顔。 呆れた顔。 真っ白な顔。 驚いた顔。 真っ白な顔。 生きている彼と死んでいる彼が両方現れて、現実を受け止めろと桜の花が自分の頭にいっぱい落ちていく。 「社長、好きだよ。これからだって、忘れたりしない」 すっかり成長してふとましくなった桜の木の前に小指を立てて、指切りをする。 「忘れたら針千本、のーます!」 小指に何か暖かな温もりを感じた気がした。 |