おひさま | ナノ
 


「帽子、落としたよ」

 突然、誰かから声を掛けられた。日の光が横浜の街中をはっきりと照らしている中、黒を基調とした服装に何時も身に着けている帽子の格好。その帽子が今俺の元では無く、後ろに居る男に渡っていた。

「………ああ、わりぃな。すっかり頭に乗っていない事に気づきやしなかったぜ」
「ふうん。この帽子素敵だね」

 しかし、彼は帽子を渡す事無く眺めていた。

「あ、あのさ…」

 手を差し出して返してもらうように促すも、彼は何も云わずに自分の頭にのっけた。何だ、この男。初対面のくせに。

「もう、返してもらえねーか」

 少し低い声を出して彼に威圧的な態度を見せる。

「ふふん、どうだい?僕にも似合うかな」
「……残念だけど、その格好に俺の帽子は似合わねーだろ。それにお前だってちゃんと自分の帽子持ってるじゃねーか」

 彼は彼で片手に自分のハンチング帽を所持している。

「はいっ」

 すると、彼は自分の帽子を俺の頭に乗せてきた。帽子を乗せられたはいいものの、俺としては如何反応したらいいのか判らずに戸惑いを隠せなかった。

「…うーん、あんまり似合わないね。矢張り君にはこの帽子が一番似合っているということだね」
「そうかよ。だったら早く返せ」

 横浜のこんな大通りで一体俺達は何をしているというのだ。こんなところで悠長に過ごしているつもりは無い。これから仕事が待っているんだから。しかし、この小柄の男はにこにことした表情を見せて未だに俺の帽子を渡す気は無いらしい。

「返してあげない」
「はぁ!?」

 なんだ、この男。太宰みたいに癪に障るような素振りを見せる。彼奴の顔を思い出すだけで苛立ちが募るが、この男には同じ匂いがした。

「…今暇だから少し遊んでよ。僕人を待っているんだけど、中々来てくれないから暇で仕方が無いんだよね。だから暇そうな君にも少し付き合ってもらいたいなぁ、と思って」

 なんだ、この男は。
 厭な笑みを見せてくる。この男、もしかして俺のことに気づいているんじゃないだろうな。―――マフィアに通ずる何かの職業か。……少し相手を凝視してみるがそれにしてはあまりにも無防備な男だった。

「……判ったよ。付き合ってやる」

 結局こっちが折れてしまった。
 すると、この男は目を輝かせた。

「ほんと!?」

 彼は俺の帽子を思い切り握り締めて形を崩していったが、それに対して何も咎める事も出来ずにただ項垂れた。ついさっき口にした自分の発言を悔いるしか出来ないことに。ここで同業関係だったら直ぐに暴動にでも発展すれば事を無理矢理でも収めることは可能なんだけど。どうにもこの男には全く敵意が無い。
 本当に俺を暇つぶし相手として見ているのだろうな。
 そんな一般人と会話をするなんて久しぶりだった。
 だからだろうか。少し嬉しくなっている自分もほんの少し居た。

「それにしても今日は暑いよね。如何してこうも横浜は日差しが厳しいんだろう。ねぇ、僕喉が渇いたんだよね」
「……ふうん」
「喉が渇いた」
「………」

 この男、俺に何か物を買えって事か。集られているとしか思えないこの態度に彼はさも当然という素振りを見せる。

「じゃあ、何が飲みたいんだよ」

 取りあえず要望を訊いてみる。それにきちんと応えるかどうかは別として。

「うーん、何か甘い物。ああ、でも甘ったるいと後々響いてくるからさっぱりするものがいいかな」
「……なんだ、その曖昧なものは」

 肩に背後霊が憑りついているのではないかと疑いたくなる。なんで初対面のこの男にこんなに使われているんだ。

「じゃあ、買ってくるから待ってろ」

 と云って、俺はこの男を置いて行く。このまま去って行こうか。帽子は何時までも彼の元に届いているが、それでも帽子ならまた別に購入すればいいだけだろうから、それで…
 そのまま如何しようかと悩む。ろくに飲み物も買わずに遠巻きに彼を眺めていると、一人で帽子を弄って待っている。子供が親の帰りを待っているようにも見えた。
 その彼の挙動に少しだけ罪悪感を持ったので、再び近づいて行こうとする。
 その時だった。

「あ、乱歩さん」
「もう、遅い」
「…すみません」

 すると、其処には見たことがある人物が居た。
 太宰と人虎。勿論人間の面を模した奴らではあったけれど、その二人に囲まれている男は気軽に話していた。

「そうか」

 あの男も探偵社の一員ってわけだ。顔を知らないが、それでもあの男が自分の中で敵と云う分類をされた時、何かがぽっかりと空いた。
 久し振りに人とまともに会話をしたと思っていたが、結局その人物は俺にとって敵となる。

「…………買わなくて良かったじゃねーか」

 少ししてから名前も知らない男の居た場所に向かうと、其処にはすっかり彼に弄られて崩れてしまった帽子だけが残っていた。
 それを拾い上げて、俺は……その帽子を深く被る。
 ああ、今日も日は誰彼構わず照らしてやがる。