左右、向かい側、どのデスクにも人が座り満席状態となっているこの場所で、一人大きなあくびを見せつけていた男がいた。 それを片目に見ていた太宰は乱歩の仕事への脱力感を見てはひとりで笑みを浮かべていた。 そんなことに気づいたのか否か、乱歩は太宰と目が合えばにこりと笑ってみせた。 夜。皆が退社していき、太宰も今日の仕事はひと段落したのでそのまま直帰をしよう電気を消した時だった。 まだこの事務所に残っていた人物がいた。乱歩だ。ソファを一人で堂々と独占して同化していく勢いに誰も気づかずに帰宅していったのだろう。このままでは一人事務所で夜を明かして次の日を迎えてしまいそうな彼をこのまま置いて行くか、起こしてあげるべきだろうか、今太宰の頭の中では二択の論争が起こっていた。乱歩は気持ちよさそうに寝ながらも毛布が無い状態に寒さを肌で感じている様子。 南側にある窓は入り口の引き戸を閉める勢いで風を入れ込んで、さらには月の光も彼を照らしていく。太宰はその窓を閉めようとまずは動き出そうとすると、それを遮るように誰かの指が彼の衣服の裾を掴んだ。誰か、とは勿論乱歩のことだ。 とは言え、今まで乱歩は寝息をひっそりと立てていたので太宰は完全に寝ているのだとばかり思っていたので、その行為には多少の驚きを見せていた。 「乱歩さん、起きていらしたんですね」 「太宰のその立ち位置だとちょうど月の灯りが遮られて閉じた目でも気づけるんだよ」 彼はそう云うとゆっくりと上半身を起こす。しかし依然として乱歩は服を掴む力を緩めることは無く、むしろ起き上がる時に負荷をかけたため、太宰のバランスを崩した。 そんなに大袈裟な事にはならないが。 狭くはない事務所に二人。そんなに密着しなくてもいいのではないか、と国木田辺りが指摘をしてきそうな距離感になったが、特にうろたえる様を見せることは無い。乱歩は少し寝ぼけている様子で太宰を見つめ、太宰はそれに笑顔で返す。 目を細めながらも徐々に現状に慣れ始めた乱歩はぱっと太宰を引き止めていた手を離し、幾度か目を擦る。あんまり擦ると目に悪影響が及んでしまいそうなのだが、気にすることも無く強く左右に振る。それを止めたのは太宰であった。 「あんまり擦っては駄目ですよ。目に傷でもついたら大変ですよ」 手首を掴んでそっと顔から離してあげると、不機嫌そうな顔が露わになり、邪魔されたことに憤慨している子供そのものであった。それに気圧されてしまわないように太宰は一度視線を逸らしてしまう。 「乱歩さん。もう帰る時間ですから帰りましょう」 「んーそうかそうか。帰ろうか」 乱歩は太宰にのしかかるように両腕を太宰の腰に装着させて体重をかける。その重さに太宰は身体を動かすことも出来なくなる状態になるが、嫌がることは無かった。 別段今日はこれから何か用事があるというわけでも無いと、身体を無理に動かすこともせずに風を顔に受けていた。夜風が頬をひゅうっと撫でる。 風を気持ちよさそうに感じていると、腰にしがみついていた腕が締め付けてくることに太宰は気付く。どうやら乱歩にとってはこの風は気持ちいいよりも寒いのだ。口で言われずとも伝わったため、太宰はようやく貼り付いていた足を動かした。 「う、うわぁ」 さすがに太宰の身体が動けば乱歩も動かざるを得ない。ソファから離れることが出来なかった乱歩は上半身が見事床に倒れてしまう。 「大丈夫ですか?」 それと同時に窓は施錠されて風の侵入を防いだ。振り返った時には既に時遅し。乱歩の脱力した身体は柔軟性に助けられながら怪我も無く落ち着いていた―――表情から察するに。ゆっくりと彼の助けに向かったことによってようやく乱歩は立ち上がる。 もう一度大きなあくび。 「ふふっ」 「何。今のどこに笑う要素があったのか僕には解らないのだけれど」 「乱歩さんは分からなくていいんですよ。多分、言っても解らないでしょうから」 そんな濁す言葉を言われてしまえば乱歩は太宰の顔を凝視して何を考えているのか当てようと試みる。しかし、太宰はその行為を遮るように乱歩の両目を手で隠してしまう。見られることで何か心を覗き込まれてしまう気がするのだ。それだけ、乱歩の目には怖さが存在している。 「ふむ、まあいいか。太宰のことなんて些かも理解するなんて無理なんだろう」 その言葉に安心した太宰はゆっくりと視界を開示してあげる。それからそそくさと事務所の出口へと二人で向かう。 「乱歩さん、それではおやすみなさい。また明日」 「ああ、また明日」 事務所を出てすぐ外へと出た二つの身体は小さな道路を互いに背を向けて歩き出す。すぐに角を曲がればもう互いの姿など把握できることも無く。 太宰は曲がる前に一度振り返る。そこにはのんびりと歩いている乱歩が小さくなっていく。どんどん、足が進むにつれて太宰の瞳にはぼんやりと消えて消えて、そして角を曲がり、彼は視界から姿を消した。 「……全く、困ったもんだなぁ」 乱歩の頭脳の賢さを前に奥底まで覗き込まれているように感じてしまったあの時。確かに太宰の心中では乱歩のことでいっぱいになっていた。一挙手一投足に気を取られてしまい、目を乗っ取られたかのごとく乱歩を追いかけていた。 「また、明日」 明日はこんなヘマをしないだろう。そう言い聞かせて太宰はその意味を深く問い詰めることは止めた。問い詰めることも無い、言葉に表すことは簡単なのだ。それでもそれは口にしてはいけないと理解している。それを相手に伝えるなんてことは以ての外だ。 太宰もまたゆっくりと道を歩き出す。 「それは―――」 |