誰にも届かない「さよなら」の言葉 | ナノ
 


 好きだったのかもしれない。好きだったと思う。
 酷く好きという定義が曖昧な単語だと気付かされた時には既に時遅し。気づいてしまい、その気持ちに確信印が押されてしまったら、同時に後悔すらも襲い掛かってくる。
 それを知って、乱歩はあえてこの気持ちに何も名前を付ける事は無かった。名前を付けた処で烙印も同時に押されてしまうのだ。汚名ともとれる屈辱の印鑑。













「あれ、乱歩さんはまだ仕事が残っているんですか?」
「……太宰は何しに探偵社に戻ってきたの?さっきはもう仕事が終わって帰るって云っていたけれど。ああ、忘れ物でもしたのか」
「流石です、探偵さん」

 その通り、と太宰は自分の机の横に置かれていた。家の鍵を取りに戻ってきた。社を出てから僅か5分。家に帰宅する前に気付けたことは不幸中の幸いだろう、と思いながらも太宰の行動を目で追っていた乱歩は、太宰が少し…ほんの少し老けた事に気づいた。初対面時に既に骨格も出来上がっていた状態でこれ以上成長するとはお世辞にも云えない成人ではあるが、そんな彼が出会った当初よりも老いを持っていることを彼は気付いた。

「乱歩さん、仕事を頑張ってください」
「僕はもう仕事が終わっているよ」
「あ、そうなんですか」

 とは云いながらも、太宰は乱歩に「お疲れさま」と飴玉を一つ明け渡した。不思議そうに乱歩はその飴玉を見つめると、太宰も同じものを先に口へ入れた。
 安全だと先に口に入れて証明した。

「乱歩さんもお疲れでしょう。矢張り名探偵として仕事の質の良さを皆さんが理解しているからそりゃあもう引っ張りだこでしょうし」
「まあね。今日は二件の仕事をこなす羽目になって、もう疲れがどっぷり溜まってしまっているよ」

 疲れを表して乱歩は肩を回した。あまり社内で見かけない乱歩はこの探偵社として探偵の看板をしっかりと背負っている身分であるため、必要不可欠な存在なのだ。そんな彼を太宰は認めている。むしろ尊敬している。

「…あ、乱歩さん」

 太宰が乱歩の名前を呼ぶ。
 何かに気づいた太宰は乱歩の机へと向かい、乱歩の視界から一度消える。

「何?」

 短い返事を返しながらも太宰へと顔を向けて身体を捻る。

「これ、乱歩さんも忘れたらいけませんよ」

 これ、と称して太宰が手に持っていたものは、小さな財布であった。茶色の至って質素な財布。財布を無くしてどうやって生活したらいいのか。普通なら焦る人や感謝を述べる人もいるが、乱歩はそのどれにも当てはまる事無く、ただ淡々と「ああ」なんて云いながら太宰から受け取った。
 そう云えば忘れていたな。なんて探し当てた人を置いて一人の世界観に入っていく。
 それもそのはず、乱歩の頭の中には財布なんて入り込む余地が無かったのだ。

「いくら社内だからとはいえ、貴重品は自分でしっかり所持していた方が安心ですよ」

 そう助言して太宰は笑った。
 その笑みに揺れ動かされてしまった。財布よりも大事なことを考えていたせいだ。彼は、不意に口を開いて、動かしていた。

「太宰、この後暇だったりする?」

 滅多に誘うことの無い乱歩が太宰を誘ったのだ。特に明確なことを云った訳では無いけれど、仕事終わりに誘う話などは限られてくるもの。
 何時もならば二人で社内で会話をある程度すればその場でお別れをしてしまっていた。それが、ここに来て、変化を見せてきた。乱歩側に思いもよらない変化が起きてしまった。
 云った途端にしまった、という後悔の念が強く鳴り、直ぐに訂正しようとしていた乱歩は恥ずかしさで赤面している。自分から誘ったことが無かったのに、こんな場面で云う事になろうとは…彼は非常に恥ずかしさが溢れていた。
 今のは冗談だ。
 なんて直ぐに切り替えようと急いで口を開けたが、先に太宰が口を動かしていた。

「乱歩さんからの誘いは凄く嬉しいですけれど、今日は先約がありまして…。まぁ、乱歩さんの前でぼかしても直ぐに判ると思いますけれど…その、これから中也と会う約束があるんですよ。なので折角の魅力的な誘いではありますけれど、済みません。また今度乱歩さんとも語りたいですね」

 丁重な断りを見せた。

「別に構わないよ。あの素敵帽子君の約束があるならそれが最優先すべきだと思うし。まあ、暇があるから誘っただけだよ」
「そうですか」

 乱歩は顔に赤みを直ぐに引かせた。丁重な断りは逆に彼の恥ずかしさを向上させた節があるが、それよりも思ったよりも自分の気持ちが冷静であったことに内心驚いていたのだ。太宰には決して見せていないが、それでも頭の中で乱歩はいっぱいいっぱ考え事を詰め込んでいた。

「…それじゃあ、お疲れ様です」

 太宰は乱歩よりも先に探偵社を後にした。
 それを見送る乱歩は彼の姿が見えなくなり、一人の空間となった途端にしゃがみ込んだ。恥ずかしさが急に込み上げてきたのだ。彼が居たことで保てていた緊張感が挟みで切られたのだ。その切り口から溢れて、気が付けば目から涙が漏れていた。

「………何をやっているんだ、僕は」

 太宰と中也の仲は彼本人から乱歩も聞いていた。
 おめでとう、と感謝の声を届けた。その思いは非常に真白で素直に応援を送っていた。
 その後だった。乱歩は気付いてしまった。名前を付けていなかった謎の感情に。非常に汚い泥水に劣らない見にくくて醜いものを。
 太宰の事が好きなのかもしれない。何時から好きだったのか。それはもう過去なのか。乱歩はその想いに気づいてから独りで葛藤を続けていた。自分の汚い感情をどう処理したらいいのか判らなかった。それを本人云った処で困らせる事は判っていた。事件のおおよそが人同士の揉め合いである為、あらゆるドラマの結末を乱歩は見てきている。

「…………ううっ」

 乱歩は何時までもこんなことを考えてはいけない、と判っている。いい加減手放さなければならないことも、名前を付けてはいけないことも。

「さよなら」

 口にした処でその感情が消える事は無かった。