蝉時雨 | ナノ
 


「…乱歩。西瓜が手に入ったのだが、食べるか?」

 そう、切り出したのは夏前の事であった。
 近所の知り合いが育てているものの一つを福沢さんに、と手渡されてしまったのだ。それを如何する事も出来ずに一人で事務所に向かうも、其処に居たのは仕事を終えたのか、仕事をしていないのか判断しかねる男が居た。食べる事もせずに煎餅を次々に割っていく。とても等分する事は無理であるが、彼は一口で食べやすい大きさに割っていく。それでも、決して食べることは無かった。
 食べないのなら、勿体ないだろうと訴える思いもする気は無かった。

「食べる!早く早く!」
「判ったから、少し離れてくれ。これじゃあ動けないだろう」

 そうしてたしなめると、直ぐに乱歩は俺から離れて行く。事務所には他に誰か居ないのか、と乱歩に聞いてみるも何処にもいないらしい。
 乱歩は社長室に無断で入り、テーブルに置かれていた囲碁の本を適当に投げ置き、西瓜を食べる準備をしていく。それを見ながら、自分で西瓜を均等に割っていく。種が点いていて赤い実がしっかりと現れている。
 数分の間、二人が離れているとそれは直ぐに用意された。夏前と云えど、しっかりとした西瓜のできに、福沢は食べる前から趣を感じていた。
 ソファですっかりくつろいでいる乱歩も、西瓜の登場には姿勢を正して、自分の元へと辿り付くことにうきうきしている様子であった。

「―――いただきます」

 礼儀正しく声を出す俺。その間に一口齧る乱歩。

「…西瓜って如何して種があるんだろうね。種さえなければ文句は無いのに」

 そんな事を云ってるので不満なのかと思うも、彼は至極満足気な表情を見せてそのまま被りついていく。

「もう直ぐ夏だねー。そしたら社内旅行とか行きたいなー。美味しい食べ物が在るところね」

 確かに、西瓜が出てきた事で夏がやってくるのかと待ち焦がれる気持ちさせらえる。暑さという苦労話も尽きないが、それでも夏は夏で緑豊かな季節へと成り代わって行き、街の風景も一掃される。
 皆で休息の場を設けるというのも必要だな、と乱歩の意見に賛同をするも、乱歩を含めて大勢で出かけることに多少の抵抗もあった。主に、目の前で西瓜を食べている成人済みの少年の事だ。
 真逆自分自身が心配要因であるとは思っていないだろう。

「沖縄とかは暑そうだなぁ。京都だと和菓子とか一杯ありそうだよね」
「乱歩」

 すっかり先のことに夢中になり、目の前で西瓜の種が散乱している状況にも気づいていなかった。それを気づかせるように、きつく名前を呼ぶと、慌ててそれを拾い上げる。机に数個、床にも…服にまで点いていた。

「んー…とれたかな?」
「まだ服についている。…違う、其処じゃないもっと左だ。…ではなく」

 逐一種の居所を指摘してあげるもうまく彼には伝わらずに、結局乱歩に近づいて自分で取ってあげる。確かに首元に近かったので中々自分の眼では確認するのが困難な場所にあった。灯台下暗し。他人の方が判る事もあるのだ、と髪の毛が乱歩に当たりながらも取ってあげると何故だか乱歩は照れていた。

「…社長、母上みたいだ」

 一体どのあたりが似ていたのだ。とも思ったが、子供の世話をする挙動から彼はそう示したのだろう。

「まあ、でも社長は皆の母親、みたいなものだもんね。国木田君とだってよく囲碁をしているし、太宰とも雑談をしているし。与謝野さんとも卓上遊戯で遊んでいる」

 社員との対話をすることも必要な要素だ。そういう建前もあるが、彼らと対面することは単純に楽しいからでもある。
 それがどう母上という説に繋がるのかはわからないものではあるが。しかし、どうにも彼は不機嫌に変わってしまった。

「……何が云いたいんだ」
「んん、何が云いたいわけでも無いけど。真逆社長が社長になるとは思わなかったなあ、と昔の事を思い返してみただけだよ」

 社長が社長、という重複された科白によって少し難しくも思えるが、つまりは「俺が社長」になることに意外性を今思い返したのか。それは勿論本人も予想もしていなかったことではある。天涯孤独として生きていくものだと思っていた時期があった。
 その考えがいつの間にか変わっていたのだ。

「それも、お前と共に生活していく成り行きから始まった事もある。だから、お前がこの環境を作ったと云える」

 孤独である乱歩と出会い、様々な事件に出会う怒涛の時間を生活していった彼の為に作り上げた探偵社。そしてそれを束ねる事となって行ったのは、想像しては居なかった。

「じゃあ…僕の所為であるんだ」

 所為?
 随分被虐的な考えだ。俺としては乱歩を責める様な発言をしたつもりは無いのだが、彼のテンションはやや下がり気味と変化していった。
 だが、それでも西瓜を食べるペースは止まることなく、今手に持っているのは既に4つ目となっていた。

「乱歩の所為というわけでは無いだろう。むしろ乱歩のおかげというものだ」
「そうなの?」

 不審そうにこちらを見てくる乱歩。

「そうだ。人は人と出会う事で未来を変えていくこともある。それは善きこと悪いこと共にだ。乱歩は、俺の人生を大きく変えて行き、結果としてよかった事に繋がって居るんだ」

 だから、有難う。と素直な気持ちを伝えると、また照れる顔になった。全く、ころころと表情が変わり豊かな男だ。

「ふうん、僕のおかげか。ふふっ、そうだよね。矢ッ張り社長には僕が居ないと駄目だよね。うんうん、判っていたんだよ」
 
 随分と拡大解釈が乱歩の脳内では行われているみたいだが、そんな彼を見ているのが悪い気はしなかった。

「社長は西瓜食べないの?食べないなら僕が貰うよ」
「…あ、ああ」

 今手元にも一つ口をつけていないものがあるというのに、まだ所持しておきたいというのか。まだ完熟とは程遠い西瓜だが、彼は気に入っているらしい。直ぐに、残りのものを乱歩にあげる。

「ふふっふふふっ」

 乱歩は鼻歌を歌い始める。だが、何の歌かよく判らない。彼の思考を読み取るのは非常に困難であるのは昔も変わらない。

「何を笑っている」
「だって、僕のことを助けてくれたのも社長だからさ。それで社長も僕が居てくれてよかったと云ってくれたことが凄く嬉しかったんだよ」

 彼もまた素直な言葉を出してくれた。
 すると、遠くから小さな声が聞こえてきた。誰かが事務所に帰ってきたのだろう。あまりこの西瓜の残りを見られるのは良いものでは無い。すっかり二人で独占してしまった一玉を乱歩は勢いよく食べた。

「乱歩、今度は口に種を付けているぞ」
「ん」

 するとん、と顔を前に出した。如何いう意図があって彼が前に出したのか。

「…全く、子供だな」
「お母さんに取ってもらいたいな」

 何を可愛いことを云っているんだ。
 俺は笑いながらも種を一粒取った。
 ただ、それだけ。それだけのことだ。俺と乱歩は互いに人生に影響を与えあい、各々の歴史を語る時、きっと名が添えられることだろう。