灰皿の煙草達 | ナノ
 


 今日は午前から雨が降り、店内の床には少し雨跡が残りながらも、夜になるとすっかり雨が消えてしまった。雨が消え、月は雲に隠れながらも見えていた。

「お疲れさま、乱歩さん」

 この店長の春野は、アルバイトの乱歩に声を掛ける。

「ふあぁー」
「あら、寝不足ですか?」

 両腕を上にあげて、大きな欠伸を見せつける。それをしっかりと見ていた春野は、乱歩にすぐさま聞いていく。

「んー…まあ、ね」

 多くを語ろうとはせずに、乱歩は春野に対してにこりと笑みを見せるだけであった。とはいえ、よく表情を確認してみれば、彼の眼の下にはしっかりと隈が見え、今迄仕事に集中して自分の店員を管理できていなかったことを反省する春野。

「では、明日の懇親会は…欠席されますか?」
「…こんしんかい?」
「ええ、新入社員も入ってきたことですから、彼らを歓迎してあげようと思いまして、アルバイトの人にも数名声を掛けているんですよ」

 それを如何して前日に聞くのか、と乱歩は心の中で文句を考えながら。

「そうだねー…少し疲れが溜まっているのかもしれないし、家で安静にでもしようかな」

 すると、春野はそうですか、と苦笑いを見せて終わった。それ以上何か云う事も無く、自分の仕事に集中していく。
 乱歩は、すっかり役に立たなくなった傘を片手に持ちながら、これから帰る事にすら億劫になっていた。帰る、という事よりもここからまた更に歩くという行為に対してだ。アルバイト中ですらやる気が出なかったというのだから、それはもう寝不足だけで済まされる事では無く、重症だ。

「………ふぅ」

 ゆっくりと歩きながら、溜息。歩いては、溜息。それの繰り返しをしていく内に近所の公園が横に見えてくる。誰も居るはずの無い、小さな公園。申し訳程度に砂場が用意されているその場には、すっかり錆びれた長椅子も置かれていた。

「………はぁ」

 乱歩は、不意に座って身体を休めたくなった。いっそ、此処で一泊過ごすという案も善いのではないかと思う程に。
 そう、彼はもう参ってしまっていた。

―――人に恋をして、こんなに大きな損害を受けるとは。

 ギシギシと音を立てながら、椅子に凭れると……感傷に浸ってしまった。実にらしくない、と乱歩自身が一番滑稽だと笑っていた。
 とはいえ、乱歩が此処まで落ち込んでしまっているのも全てはあの男の所為である。「その時」何も驚きや感傷をしていなかったのだ。

『別れましょうか、乱歩さん』

 彼の美しい瞳はしっかりと乱歩の事を捉えたまま云った。
 半年前、その日はすっかり雲一つ無く、月が街を光で照らしていた。何も知らない無垢な乱歩の頭も光で照らして空っぽにしていった。
 だから、乱歩は何も云えなかった。

『乱歩さんの他に、好きな人が出来たんです』

 そう云われてしまえば、引き下がるしかなかった。彼と乱歩は同姓という大きな壁を持っているのだから。乱歩は、漸く彼が正気に戻ったのかと安心もしてしまった。
 そんな事を考えてしまい、また泣いてしまいそうになった時…無意識にポケットに手が入ってしまった。衣服に備え付けられた穴には飴玉がいくつもあり、占めていた。選ぶことも無く、適当に掴んだものをぼーっと眺めて口に運ぶ。
 酸っぱい味。りんごやいちごの様に甘いものでは無く、此れはきっとレモン味だ。

「乱歩さんは相変わらず砂糖の摂取が多いですね。あんまり糖分ばかり取っていると虫歯になったりしますから、気を付けた方がいいですよ」

 一瞬幻覚を見ているのかと思ってしまった乱歩。正確には幻聴からである。背後から聞きなれた声を捉えた耳は、その人物が何処に居るのかと直ぐに位置を特定する。椅子の背後から声を掛けてきた男は、何時もと変わらない格好をしていた。半年前と何ら変わらない、彼お気に入りのコートを着用していた。
 片手にはコンビニのビニール袋を持ち、それ以外は特に持っていなかった。軽い気持ちで出かけてきたのに違いない。

「―――何してるの、暇なわけ?」
「暇って…私だって大学の課題も残っているので頑張っているんですよ」
「…ふうん」
「……乱歩さんは、バイト帰りですか?」
「まあね」
「そうですか。もう少し早ければ乱歩さんのバイト姿を拝みに行っても善かったんですけどね。残念です」

 本当に残念だと思っているのか、と疑心暗鬼になる乱歩。先程から彼主導で進む会話に乱歩は少しだけ苛立ち始めていたのだ。
 大学の後輩で、同じゼミの仲間。そんな彼―――太宰と恋人関係を破壊してから半年。乱歩は四年生であることからも、ほとんど学校に顔を出す事も無く、太宰と会話をする事を避けていたのだ。
 太宰もまた同じく、乱歩に対して連絡をする素振りを見せていなかった。互いに、そのままお別れするつもりでいたのだ。

「乱歩さんは、もうすぐで社会人になるんですよね。私なんてつい最近大学生になったばかりだというのに」
「それって嫌味かい?僕が老けているとでもいうの?」
「真逆、乱歩さんは昔と変わっていないですよ」

 ―――僕とお前が出会ったのなんてたかが半年前のことだ。

 昔、と云えるほどの歴史のある関係を持ってはいないのだ。

「乱歩さんも偶には大学に来てくださいよ。私も今はきちんと単位を取得する為に齷齪しながらもしっかり通っているんですよ」
「…太宰の事だから、何だかんだ単位なんてあっという間に取っていくんじゃないのか」
「それから、乱歩さんは好きな人……出来ましたか?」

 最後に、太宰は口で何かを云った。

「……え」

 それに上手い返しが出来ずに、乱歩は太宰の顔を見る。何を云い出すのだ、と笑顔で会話を流す事もせずに、固まってしまった。

 ―――なんで、そんな事を今云うのか。

 乱歩は、今目の前に居る男の事でへこたれていたというのに、その気持ちを抉る科白であった。

「……別に、関係ないでしょ」

 最早先輩後輩としての関係も過疎化だったというのに、今更そんな個人情報を提供できるわけが無い、と頭の中で云い聞かせた。本心は、単純に好きな人が別れた後も未練たらしく想い続けている目の前の男なのだ。

「そうですか。ちなみに私はいますよ」

 ……だから何なのだ。と、云いたかった気持ちを飴を噛み砕く事で取りあえず止めておいた。乱歩は、この男と偶々出会い、そして落ち込んでいる人に向けて何を云い出しているのか、と元恋人であり後輩であり他人である相手が判らなくなった。それが、脳を焦らせ正常な判断を鈍らせてしまう。

「僕は、あの時から変わらずに、君の事が好きなだけだよ」

 そう云ってしまったのだ。口の中にはもう溶けて無くなってしまった飴が、それを制止する事も出来ずに。
 相手に、思いもよらずに届けてしまった。
 それを聞いた太宰は、なぜか溜息をついた。笑顔をすっかりと消え去って、悲し気な表情を露わにした。

 ―――なんで、君がそんな顔をしているんだ。

 今にも泣きそうになる太宰の顔に、本当に泣きたいのはこちらなのだ、と苛立ちを募らせていた。

「…なんで、乱歩さんは別れてもそんな風に思っているんですか。貴方はもう直ぐ社会に出て、大人として扱われて行くのですよ。それでもどうしてこんな愚妹を想い続けているのですか」

 何故か、声を張ったのは太宰である。
 正直乱歩は何も把握できなくなっていた。大学で学んだ心理学も使い物にならない。恋人の思考などを読み取る授業など習っていないからだ。

「なんでそんな顔をするんだよ。君がフッたんだろう。僕よりも好きな人が出来たと云って、それで終わったんじゃないか。なのに…泣きたいのはこっちだッていうのに、如何して君が泣きそうな顔をしているんだよ」
「それは、乱歩さんの環境が変わっていく時に、私の事がお邪魔になるのではないかと思ったからです。だったらせめて、自分から別れを切り出して衝撃を和らげようと」
「それは実に自分勝手な考えだね」
「我ながら、擁護出来ないですね」

 自分の事ばかり目を向けていて、結局相手を気遣いながらも相手を傷つけてしまったことを太宰は、初めて気づく。
 新たな飴を取り出しては…それは口に含まれることも無く地面へと落ちる。土がしっかりと付いてしまい、最早口に含むのは抵抗のある。それを、乱歩は見ることも無く立ち上がった。

「それで、君は如何して此処から去って行かないの」

 真正面に向いて云う。

「酷く情けない話ですが、もう一度やり直したいと思って…失礼ながら待ち伏せていました」

 頭を下げながら、太宰は誠意を込めて云った。許されない事をしてしまったが、まずは謝罪とやり直す機会を得ようとする。

 その返事を乱歩は、笑いながら云った。


「――――莫迦だね、太宰は。……けど、そんな莫迦を好きでいる僕も立派な莫迦だ」