触れられなかったキスの味を、僕は生涯忘れない | ナノ



 あと数センチ。あともう少しで、彼の唇に触れられたのに。触れてもいいはずなのに、どうしても触れられない。
大人になってまだ数カ月の新人。探偵社にやってきてもうすぐ1年が経とうとしていた。それでも、未だ僕は新人である。
 外から何やら騒がしい声が聞こえてくる。窓が開けられている探偵社内にもしっかりとその声は届いていた。それでも平然と一人室内で新聞を見て、隅に掲載されているクロスワードを見て解いている男、乱歩さんがいた。

「……んん、此処は…」

 ペンを片手に持ち、それを回す。くるくると綺麗に舞い、少しずつ穴を埋めていく。それを遠目に見ていた私は、あまりにも自分の世界に入り込む彼を見て…酷く憧れた。独自の世界観を貫き、常識に囚われる事の無い彼の素晴らしい生き様を見ていくうちに、惹かれていき、それは次第に私を虜にしてしまった。
 彼を毎日観察していく。ああ、これは乱歩さんが好きな駄菓子かもしれない。そんなことを仕事の道中に見かけた店に立ち寄って考える様になっていた。探偵社に顔を出して先ずは彼の存在を視界に入れる処から始める。そんな日常になってきていた。
 仕事を終えて、これから帰宅しようと考えていたのだが、あまりに彼が熱中している様を見て、不意にからかってやりたい衝動に駆られた。もう少し、新聞紙よりも私に目を向けてくれないだろうか。欲が溢れてしまった。
 ゆっくりと足が床を蹴って、乱歩さんの隣にまでやってくる。

「……ん、太宰か。少しは此の仕事場にでも慣れたのかい?もっと興味深い事件探しに精を出してね」

 24歳。4つも上の人生の先輩であり、探偵社の古参。その人から見ればまだまだ私は雛同然ということなのだろうか。自分へ子供扱うような態度に少し苛立ち、強気に出た。彼の世界観に私も入ってしまいたかった。

「今日は、乱歩さんにお話ししたくてやってきました」
「お話?それは時間を取っても面白くなる話なの?」
「それは…そうですね。乱歩さんの心を動かすよう努力してみます」

 にこりと笑みを作る。其れに彼も応えてくれるらしく、ペンを新聞紙の上に置いて身体をこちらに向けてくれた。此れは期待してくれているのだろうか。掴みは抜群という訳だ。
世界のドアノブに手を掛けた。
 目と目がしっかりと合い、今間違いなく彼の目には私以外は写っていないことだろう。外の騒音も彼の耳にはきっと届いていない。聞こえているのは、私の声だけだ。

「……黙っていないで早くいいなよ」

 見つめ過ぎると、彼の機嫌を損ねてしまう。

「乱歩さん」

 弾けるように言葉が飛ぶ。
 そう云えば、あれだけ乱歩さんを誘うように仕向けていたものの、心を動かすような内容を考えても居なかった。国木田君辺りなら適当にからかってしまえば済むから、特に考えもしないで会話をしている事が多いが、乱歩さん相手になると少し構えてしまう。それでも、乗ってしまったこの流れに逆らうことも出来ない私は、口に出した。







「好きです」

 確かに心を動かした。
 それは、私の心である。思わぬ発言、今の状況で口にするつもりなど毛頭無かったというのに、口は、脳は、勝手に今だと指示をした。これが告白でいいのだろうか、と後で頭を抱えてしまう程に情けない。情けなく、格好悪い。

「…乱歩さんの事が好きです」

 繰り返して彼に伝えて、自分を追い込む。本能のままに踏み込んで飛ぶ。
 告白を突然行ってしまったのにも関わらず、一方の乱歩さんは笑っていた。にこりと笑っていた表情は今まで見たことが無かった。楽しんでいるわけでも、面白がっているわけでも、喜んでいるわけでも無く、彼は違う笑みを見せていた。
 まだ彼の知らない一面があるのか、と此れだけでも儲けものかもしれない、と場違いな考えを持っていた。

「……だ、ざい」

 気づけば、私は乱歩さんの肩に触れていた。手を置いて、顔を近づけた。背景すらもその視界から消し去るほどに近づいて、唇目がけて顔を動かした。今ならまだ逃げ出せるよ、と云ってあげたかったが、あまりにも乱歩さんが動じないので其れは肯定の意志だと勘違いした。あと数センチの処で、彼は名前をはっきりと呼んだ。

「太宰」

 そんな優しく呼ばないでください。
 固まり、唇が行き場に困ってしまった。何時もよりも何倍も優しさの込められたその大人の雰囲気。

「乱歩さんは、私の事を如何思っていますか?」

 答えを口にしてもらいたく、聞いてみる。
 それから、彼はすっと私の魔手から離れて、距離を取った。唇がとうとう何処に戻せばいいのか分からなくなってしまった。

「……好きだよ」

 だったら、と思うが…彼はもう私の顔を見ていなかった。笑っている中に、確かに苦しそうな表情を見付けてしまった。楽しんでいるわけでも無く、彼は苦しんでいた。

「乱歩さん」

 私が彼を苦しめたのだろうか。一体何が原因だというのだ。何が、彼を…

「好きだけど、もっと好きな人が一杯出来る。太宰はまだ二十歳でしょ。若いっていいよね!若い時にしか出来ない事っていっぱいあるんだよ。愚かな大人になってしまえば見えなくなってしまうこともある」

 乱歩さんは充分若いですよ、だとか。
 乱歩さんとだってそこまで歳の差があるわけじゃ無いですよ、だとか。

 云いたい事は色々あったが、それは口に出さなかった。

 ―――そうか、彼は私を受け止めてくれないのか。

 互いに、確かに心を動かされたはずなのに、それでも触れることが出来ないのは、まだ私が未熟だからなのか。



 これはまさに、飼い殺しだ。