なんて無謀な恋をする人 | ナノ
 

「しゃちょー大好きー!」
「……そうか」
「しゃちょーは僕のことすきー?」
「……ああ」
「えへへ」

 にっこりと笑った乱歩の顔はほんのり赤みを帯びて、目も細めた。そして彼は、机に突っ伏して体勢を猫背にした。その反対席に居るしゃちょーと舌足らずに呼ばれた男、福沢は彼を見て飲み過ぎだ、とコップを取り上げる。
 二人は仕事を終え、月が綺麗に夜を照らしていく中、行きつけの居酒屋へと顔を出していた。しかし、福沢と乱歩の二人でこうして正面向いて食事をする機会は久しかった。探偵社を含めて数人で来ることもあれば、福沢は一人で遅くまで社に残っていることも多かった。それが今回、乱歩が無理矢理こうして連れてきたことでこの場が設けられた。お互いに成人であるから酒を含みながら他愛無い会話をしていた。

「しゃちょー…は僕の何処が好き?」
「…お前は飲み過ぎだ。意識が朦朧としているじゃないか」
「そんなことないよー」

―――こうなってしまった乱歩はもう再起不能だ。

 福沢は心の中で彼を覚ますことを諦めた。

「ふふっ」

 乱歩はもう酒を何杯も口に入れて身体に取り込んでいた。それが身体に回ってきたのだろう。すっかり呂律もきちんとしないで、目も眠さを表す様に、福沢に話しかけていても真面に顔を向けることが出来ないでいる。顎を机にくっ付けて目を瞑ってしまっている。
 酒のアルコールにも動ずることの無い酒豪の福沢は取り敢えず水を用意してあげる。

「んんー…如何して何も応えてくれないの…」
「………」

 福沢は無言になる。

「……しゃちょーは、何時もそうだ。僕がしゃちょーを好きだって言っているのに、応えてくれない。僕の事を放っておいて、遠巻きに眺めていて、それで終わりだ。なんか社長…と壁が出来たみたいで、前よりも……」

 最後は、口が上手く回らなかったようで、福沢の耳にまで届けることは出来なかった。
 気が付けば、乱歩の顔からだらしない笑みが消えていた。
 このまま眠るのではないか、と福沢は思った。

「……お前は一体俺から何を聞きたいんだ。お前が聞きたい応えを応えたところで、それは必ずしも良いことであるとは限らないだろう。」

 福沢は乱歩にそう諭すが、彼は全くその言葉に納得をしていなかった。
 しかし福沢は決して口を開ける男では無かった。酒をどんなに飲もうが、自白剤を使われようが、決して乱歩の「好きだ」という言葉に応える事は無かった。乱歩が嫌いな常識から外れているのだから、と福沢はそれ以上足を踏み入れる事を違えなかった。齢26の立派な男が、何時までも福沢から離れることが出来ないでいる。それを判ってからは、福沢から乱歩への距離を取り始めたのだ。

「……乱歩」
「……だったら、いっそ手放してくれたらいいのに。見捨てて、フッてさっさと句点でも打って終わりにしたらいいんだよ。そしたら僕も、社長として、これから頑張って接してあげるよ。頑張るなんて気力が居る事、本当はしたくないんだけど、社長がそうしろと云ったら僕はその通りにするよ」

 ―――乱歩が、手放す。

 子供の乱歩と知り合ってから何年もの月日が流れた中で、彼との関係は何時だって均衡を保ってきていた。
 それはあまりに歪なものだったが。
 それでも、互いにその道を崩さないと暗黙の了解をしていた。口にはせずとも、互いに好きだと確定したものを求める事は無かった。
 ことなかれ主義であった福沢は乱歩を手放す想像をした。
 今まで考えたことが無かった―――考えたくなかった―――結末を、考えてしまい、一瞬危なかった。
 乱歩は、むくりっと身体を起こして目の前に残された枝豆を無心で口に含んで、含んで、含んで…口を動かしていた。

「…ねえ、もうちょっと飲もうよ」
「もうよせ。水があるからそれにしろ」
「えー…いいじゃん明日休みだし!僕今日は頑張って働いたもん。今回の事件はあんまり歯ごたえが無かったけど、警察達が僕の異能を見てそれはもう、間抜け面を晒していて……」

 一転。閑話休題。
 あまりにも蛇のぶつ切りの如く急激な会話の方向転換に、何とかついて行こうと必死になる福沢。
 乱歩は先程までの事をすっかり頭から黒板消しで黒板を綺麗にする様に、消え去っていた。好き放題に話し切ってすっきりしていた。
 危なかった。もう少しで福沢は乱歩の雰囲気に流されてしまうところであった。冷静沈着である福沢が乱歩に乱されてしまうところであった。その乱れをせき止めたのも乱歩ではあるが、もし仮にあのまま乱歩が黙り込んでいたら、間違いなく福沢はあの均衡を破っていたかもしれない、と自分で反省した。

「ねえ、褒めて褒めて!」

 乱歩は一通り自身の見事な異能力発揮による功績を話し終えて、頭を机を挟んだ向こう側にいる彼に差し出した。

「…あ、ああ」

 何時もの乱歩である。
 目の前にやってきた頭をポンポンと、2度程頭を軽く触れると、乱歩はご満悦らしく、にっこりとだらしない表情を見せた。乱歩が空気を呼んだのか、それとも彼は只単純に口を開いただけなのか、福沢に彼の真意は読めなかった。

「この後、社長の家にでも行こう!」

 乱歩は急に立ち上がり、顔全体を赤くして云った。酔いが回っている彼は、勢いよく立ち上がった事で立ち眩みを起こし、足元が崩れそうになる。
 福沢はそんな彼の容態にいち早く気づき、肩を掴んで支えた。

「―――もう、今日は帰って寝ろ」

 二人して立ち上がって、そのまま帰宅しようと準備を始める福沢。
 まだ気が済んでいない乱歩は、大きな声で無理矢理店を出させようと腕を引っ張る福沢に抗議の連発をするも、すっかり酔っ払いの相手に手慣れた男は耳を貸す気もせずに、そのまま会計を終えて冷たい風を与えた。




「さむい……」
「これで少し酔いでも覚めるだろう」

 乱歩の前を歩いていく福沢。

「……何処に行くの?」

 福沢の後ろをちょこちょこと付いて行く乱歩。
 不思議に思いながらも乱歩は彼の背中を追っていく。

「お前を送っていく。一人で帰らせたらちゃんと家に辿り着けるか不安で仕方がない」

 まるで子供扱いをされた気分になった乱歩は、両頬を膨らませて、不機嫌さを見せつけた。それでも、前を歩いている彼には全く視えることは無かった。

「誰かに誘拐でもされちゃうかもしれないからねー!社長がちゃんと護衛してくれるってことか。何だか懐かしいね」

 懐かしい。
 探偵社を設立する以前まで、福沢は用心棒を営んでいた。それを乱歩は思い出したのだ。そして、共に福沢も過去を思い返す。

「社長も老けたね」
「お前も同じだろう」
「違うよ!僕の場合は大人になった!僕はまだ童心も忘れていないからね」

 それは、誰もが感じていることだろう。
 冷たい風に晒されて、すっかり酔いが醒めてきたのか、乱歩は本調子に戻ってきた。とはいえ、傍から見れば変わらず、ふらふらしている男ではあるのだが、それでも福沢は彼の表情を見て、確信する。それだけ、二人の付き合いはもう随分と長い。そして、それだけ…二人は変わらないことを選び続けていた。

「社長、また明日!」
「おい、送っていくと云った筈だ。調子に乗ってふらりと道を外したら拙いだろう」
「もうへーきだよ。それにもう僕も老けたしね。社長居なくても大丈夫!」

 そして、福沢を超えて走っていく乱歩。真っ直ぐ、前を歩いていた男を抜いて、振り返る。

「ばいばい!」

 福沢の耳に彼の台詞が聞こえてくることは無かった。口の動きを見て、恐らくその様な事を云っていたに違いない、と推測。
 そしてあっという間に福沢を置いて乱歩は一人で消えていく。

「………へーき、か」

 一人で、呟く。道中に誰の気配も無いことを良いことに、口に出す。先程彼に云われた言葉を繰り返し、そして初めて…自分の心情が見えた。
 本当は、もっと早くに彼との絆を深めて置きたかった。確かな形で繋いでおきたかった。いっそ乱歩を縛り付けておきたかった。
 それでも、彼はその前に社長としての使命を考えて、彼からの告白を無視した。耳を塞いで聞こえないフリをした。それでも諦めない乱歩に安心していた自分が居たことに漸く気づいた。


「なんて愚かな人物だろうか」


 彼が離れて行ったことで初めて、自分が第三者の目線で見れた。そこから見えた自分は、間抜けで、阿呆で、愚かな人物であった。