「もう、知らない!」 大きな声を出してしまった。 喧嘩をしてしまった。 そして、ろくに会話をする事も無く、そのまま消えてしまった。 何時も、仕事の合間に社長の処へ行ってはのべつ幕無しに会話をしては、互いに時間を過ごしていた。その言動の一部が時々癇に障ることもあって、それで少し討論になることもあるけれど、今回は違った。 喧嘩、というよりも一方的に僕が怒って…逃げてしまった。 その理由は、単純に僕よりも仲好さそうに事務員の女の人と話していたからだ。僕の前でだって早々に笑顔を見せる人では無い。石像も顔負けの表情筋の無い人が、女性に微笑み掛けていた。 別に、話しかけるな…とは云わないけど… 「狡い…」 矢張り、我慢は出来なかった。 一人で勝手に怒って、そのまま探偵社を後にして…消えて行ってしまった。 ―――嫉妬、だ。 たかが笑顔如きに僕は一体何をムキになっているというんだ。彼だって石像よりは動くのだから笑顔ぐらい人にあげても問題は無い。僕がその権利を所持しているわけでもあるまいし。 只、またあの時の社長のにやけていた面を思い出しては怒りを隠せない。 外を出てみると、少しだけ雨が降っていた痕が地面から分かる。少しコンクリートの色が変色して濃い色を浮かび上がらせていた。そんな道を気にもせずに僕は足音を立てていく勢いで歩みを進める。 しかし、帰った処でまた一人で怒っているだけなんだろうなあ。 そう思うと、何だか糖分が足りなくなってきた気がする。きょろきょろと左右を見渡してみるが生憎近辺は住宅街。甘味処などここから暫く有りはしない。それだけなのに、更に苛々が募ってくる。 「…社長の、莫迦」 今更面と向かって謝ることなんて出来ないし、あちこちへらへらしている八方美人な相手にも少しは責任が在る筈だ。否、八方美人ではないか。 兎に角、社長から謝ってくるのを待つ。きっと……謝ってくれる、訳無い。 去り際に最後に放った言葉の意味を、きっとあの人は理解していない。知らない、と叫んで出て行った瞬間に、顔を見てみたが……全く理解していなかった。表情は眉を潜めて不快感を丸出しにしていた。多分、他の人からしてみれば分からない匙加減だけれども、あの時の顔…僕には解っていた。 「あーあ…着いちゃった」 後数歩、前に足を出せば家の玄関へと到着する。そこまで来て、家に入ることに躊躇し、足が止まってしまう。どうせ家に入った処で今は菓子も切らしているから、口寂しさに何かを求める事も出来やしない。 どうしたものか、とゆっくりと顔を上げてみると、眼には既に暗くなっている夜空が見えてくる。雲に隠れて星も月も真面に見えない、ただの真っ暗空。今にも又雨が降ってくるのではないかと注意していい。むしろ、今すぐにでも大降りして僕の身体を打ってくれてもいい。 そうすれば、きっと―――泣きそうな顔を隠すこともせずに済む。 自然は人一人の為に雨を降らせるはずも無く、仕方なく数歩動かして家に入った。玄関にやってきて、靴を乱暴に脱ぎ捨てて―――横たわって居る。 「はあーあ」 そして長い溜息。自己嫌悪しながらも。 起こった理由は、単純に…嫉妬しただけじゃない。社長が笑っていた相手が女性で、凄くお似合いだったからだ。社長はもう良い歳だからそろそろ結婚してても可笑しくない。それでも僕なんかを傍に置いているから何時までも独り身だと噂される。 見ていて、悔しかった。社長を幸せにしてあげられない自分が、情けなくなった。名探偵にだって出来る事と出来ない事がある。何なら出来ない事だらけだ。 「………ぅっ」 そう考えて、遂に我慢していた涙が頬を伝って行く。瞳が滲んで真面に視界が見えやしない。もう、何も見えない。両腕をごしごしと動かしてみるが、涙が止まる事を知らずに…雨の変わりに降り続ける。それでもごしごしと動かし続ける腕。顔が腫れても構わない。そんな心配を全くしないで目に触れていく。 その時だった。 ピンポーンッ 何処かの家のベルが鳴らされた。 ピンポーンッ どうやら僕の家らしい。訪問客が来る予定は以ての外、僕の家の所在を知っている人物など数が知れてる。どこぞの煩い訪問仕事だろうか。 ゆっくりと上体を起こしてから、顔の酷さを確認せずに扉に手を掛ける。 「もう……一体何の御用で」 「…乱歩」 開けた途端名前を呼ばれた。聞き覚えのある声。 つい先程まで聞いていた声。それを懐かしいと思うなんて、僕は相当参っていたらしい。 扉を開けた先に居たのは、社長だった。何時も通りの社長のその立ち姿にすら久しぶりに見た気がして感動してしまった。ずっと貴方についてで頭が一杯だったというのに。 その来客の姿を目に捉えると、眼球を名一杯広げた。確かに見間違えていないと自分に言い聞かせるように。 「ど、如何して…此処に」 「如何して、と云われても困る。此方は乱歩が投げ捨てた言葉が気になってまともに仕事をこなせずに苦労していたというのに。お前がそんなに目を赤くしていたら先にこちらから聞きたくなる」 そこで、漸く自分の顔が少し痛いことを感じ取る。指でそっと目の周りを触れてみると、少し擦り過ぎてしまった感触がある。 「突然怒り出したかと思えば、今度は泣いていたのか?全く忙しない奴だな」 「だって、社長が悪いんだよ。……否、悪くは無いけど…何ていうか、その…」 歯切れが悪く、ぶつぶつと尻蕾に言葉が消えて行き、相手に届かなくなってしまう。それでも社長はきちんと話を聞こうとしてくれているのか、こちらを見ていた。真っ直ぐに、眼を逸らしてしまいたくなる程に、見ていた。 「理由を云ってみろ」 「……それは…社長が、他の人と…笑っていたのを見て、苛々したんだよ。只それだけ!」 相手の目線に耐えられずに、頭を下に下げて行き場に困っている手を見ていた。己の指と指が取りあえず意味も無く動き、この状況に留まって居ようと爪を立てて痛みを与えていた。そうでもしていないと、自分が馬鹿々々しい事を口にしている恥ずかしさから今すぐ扉を閉める衝動に駆られてしまうと思う。痛みで恥ずかしさを和らげている。 「何だ、嫉妬でもしたのか」 「……ん」 短く、縦に顔を振る。 「そうか」 たったそれだけだった。いくら口下手なおじさんだからってもっと何か云ってくれてもいいじゃないか。いっそ小馬鹿にした発言でもしてくれれば此方も言葉を返しやすいってのに。 睨みつけてやろうか、と顔を見上げると……予想外だった。名探偵が予想外な場面に遭遇するなんて滅多に無い。 社長は、口角を上げていた。笑顔と云うには表情筋が仕事をしていないので括りに入れられないが、それでも社長は笑みを見せていた。 「何、笑ってんの…」 「人は嬉しい時に笑うものだ。俺も人間だ。嬉しい時には笑う」 嬉しいって。嬉しいって社長は云った。云っていた。確かに口にしていた。 そんなことを云われてしまったら、 「もうしょうがないな…許してあげる」 何一つ解決していないが、解かれた。喧嘩なんてものは所詮そんなものだ。どちらかが折れて和解をしてしまえば、真相究明せずに、そのまま話は終えられてしまう。 それは、何故か。喧嘩なンてしている場合じゃない。それよりも、もっと大事なものがあるからだ。 例えば社長が折角家に訪ねてきてくれたのだから、家に招待してあげなければならないように。 |