せめて隣が、あなたじゃなければ | ナノ



「おい、太宰。お前仕事の調査書はちゃんと書き直したのか?」
「開口一番君はまた私にお説教でもするというのかい?ああ、全く…煩い小姑みたいじゃないか君は」

 つい先程12時を越えた事を時計が知らせてくれてから、呆けている太宰を事務所で見かけた為、声を掛けたらこの反撃だ。
 あからさまな溜息を付かれる。
 しかし、それでもきちんと記されている書類を俺に渡されてしまえばそれ以上何か云える事は無かった。ちゃんと書類は文字で埋め尽くされており、彼は俺が云わずとも仕事はしていたらしい。偶々だろう。何時もは俺が云わなければきっと終えている筈がない。しかし今回彼が終えていたのには恐らく理由がある。

―――ああ、そうか。

 俺は独りで完結してしまった。容易に答えを導き出してしまったのだ。

「あーっはっはっは、今日は莫迦みたいに天気の良い日だねえ。これじゃあ街中の人がごった返してしまいそうじゃないか」
「おや、乱歩さん。おかえりなさい。仕事は終えたんですか?」

 事務所へと顔を出した乱歩さんは東北での依頼を受けて遠出をしていたのだが、今日昼過ぎに戻ってきた。

「ああ、実につまらなかったよ。折角久しぶりの遠出だったというあまりに詰まらな過ぎてこの有様だよ」
「うわぁ、凄い量の御土産ですね」

 この有様、というのはまさに両手にお土産を抱えて、依頼を解決したとは思えぬ程の観光っぷりを見て取ることが出来る。
 そんな彼の御土産を見て俺も含めて多くの人が物欲しそうに集ってくる。

「ほらほら、皆は仕事をするんだよ。谷崎君、君はまだやることが残っていただろう」

 しっし、と手首を巧みに動かして散れと指示をする太宰。そんなことをしている当の本人は一人で乱歩さんがわざわざ購入してくれた御土産から離れようとはしない。

「太宰…お前も仕事が残っているだろう。お前も離れろ」
「否、私の仕事はもう大方済まされているよ。今日はもう仕事は終了している。現に、君の手には私が済ませた調査書があるだろう」

 その言葉に俺は何も言い返すことが出来ない。唇を噛み締めて太宰に反論する術を持たない俺はそこから数歩後ずさる。

「乱歩さん、昼食はもう済まされましたか?まだでしたら良ければ一緒にこの後どうですか?」

 太宰は乱歩に昼食の誘いをする。
 それを聞いて乱歩は既に口に甘い土産品を頬張りながらも顔を縦に振って応えている。乱歩さんなら土産品で既に腹を満たしてしまいそうだが、それとまた別ということだろうか。
 ……それより俺は仕事だ。太宰には珍しく仕事が残っていないらしいが、俺にはまだ仕事が多く残っている。この手帳に記されている理想とは今日も掛け離れた時間を無駄なことに消化してしまっている。
 すぐ傍で会話に花を咲かせている二人を視界から消して、本棚へと向かい、やり場の無い憤りに髪を掻きむしりながら、どすどすと、地響きを気にすることも無く、足を動かしていく。何故、そんなに怒っているのか、恐らく誰にも理解し難いことだろう。この探偵社に居る者に理解出来る筈がない。乱歩さんには見透かされてしまうかもしれないが、それでも理解には苦しむだろう。実際、このやり場の困る感情は俺にもどうすることも出来ずにいるのだから。
 五十音順に並べられているこの本棚。俺の目には確かに本の題名が映っている筈だが、脳がそれを認識してくれない。
 振り返ると、仲睦まじい乱歩さんと太宰。
 周囲では平然と仕事をこなしている人がいる中で二人は異常な光景ではあったが、これが彼等にとっては通常なのだ。
 徐々に何かの感情は呆れにと変わり始める。そして溜息を付いてそれは呆れへと確信していく。

「それじゃあ、国木田君。頑張って仕事をこなしてくれ給え!」
「国木田。暇があったら何か面白い事件でも見付けてくれよ。それを僕がささっと解決して名探偵としての仕事を皆に見せてあげるから」

 どうやら二人は土産から昼食へと移動していくらしい。
 乱歩さんは自分が購入した幾つかを事務所の人に渡し、大方自分の机に置いて行く。別に乱歩さんは仕事をこなしているのだから何か云うつもりは無いのだが、あの隣に漂々と存在している太宰には云いたいことが山ほどある。仕事が無いと云っていたが、無いなら新たな仕事を与えられるのだから、今日は調査書を書き終えたら終わりという訳では無いのだ。
 それでも、俺が何も云えずにいるのは、きっと勇気が無いからだろう。

「……勝てる筈がない」

 乱歩さんが帰ってくると分かっていて太宰は恐らくそれまでに調査書を書き終えていたのだろう。太宰が真面目とはかけ離れた男であるのに、それでも今日ばかりは俺の催促に負けなかったのだ。
 乱歩さんが帰ってきたら一緒に昼食の誘いをしようときっと前々から計画していたに違いない。

―――ずきりっ

 鈍い音が何処かから聞こえてきた。誰にも聞こえることは無い。俺の身体の中にある何かがひび割れた。


 せめてあいつの隣が、乱歩さんじゃなければ。

―――好きになったのは、俺が先なんだ。

 そんなことを云えもしない俺は、乱歩さんの笑顔を見ていることしか出来なかった。