愛の言葉なんてひとつもなかった | ナノ


「へェ、あんたら別れたんだ」

 驚いている与謝野さんは、自身が手にしていた新聞紙から視線を僕へと移した。
 それだけ新聞に載せられた死亡記事よりも興味があるということらしい。

「なんでまたそんな結論に至ったんだい。先週まで仲良くやっていたように見えていたんだけどねェ」

 机に肘を付けて顎を手に乗せて此方を見てくる。不思議そうに、僕の表情を読み取ろうとしているが、僕はその視線に表情を変えることもせずにただ淡々と話を続けた。僕の方は彼女を見ることも無く椅子の背もたれに身体を預ける。
 僕にとっては多分、淡々と他人事のように会話を出来る程の出来事でしかないのだ。

「なんでと云われても理由が無い、それだけだ」
「…理由が無いのに別れたのかい?太宰に何か嫌な事でもされたんじゃないのかい?」
「否、太宰はそんな非道な男では無いよ」

 与謝野さんが口にしたから断言しよう。一昨日、僕は太宰と別れた。付き合ってわずか数カ月で終止符は突然僕から打たれた。

「与謝野さんには良くしてもらっていたのに悪いねえ」

 与謝野さんはおそらく僕らのことを一番近くで見守ってくれていた人に違いない。それだけ僕らのことを気遣ってくれていたというのに、別れた報告をするのが遅くなってしまって悪い、と謝罪をする。

「…まァ、あんた達がその結果で良いと思っているンなら別に妾(アタシ)は何か口出しするつもりは無いよ」

 そう云って今度は僕の顔を横目に見てくる。彼女はさっきから一体僕に何を求めているんだろう。別に別れたからと云って泣くことは無い。

「―――理由だけでも教えてくれても善いだろう、乱歩さん」

 仕事も無い彼女の暇潰しとして聞かれているのか、彼女は僕を心配して聞いてくれているのか、理由だけは教えてくれと云う。
 理由は―――先に云った。

「無いんだよ。何も。これが別れた理由だよ」

 それだけ云って僕は時間を確認する。時刻は僕を仕事に向かわせる様に刻々と動き始める。


 最初から僕は太宰に愛されていたわけでは無いのだ。愛の言葉なんて僕に届いてこなかった。いくら優しく接したところで、彼は僕を見ていなかった。彼を困らせてみたところで、怒ることも無く、彼からしてみれば僕の行為は響いていなかったのだ。
 だから、僕たちは別れた。










「あんた達、別れたんだって?」

 仕事帰りの私にまず口を開いたのは、妙に不機嫌な与謝野さんだ。
「…は、はあ」

 私らしくも無く、歯切れの悪い返事となってしまった。
 機嫌の悪さを隠さずに、彼女はただ私を睨みつけていた。乱歩さんから何か話を聞いたのだろうか。
 このタイミングで話を持ち出してきたという事は、恐らく乱歩さんがちゃんと説明をしていないということだろう。

「ええ、別れましたが、円満な別れ方ですよ。なのでこの後仕事で支障を来すことは無いと思いますので心配しなくても大丈夫ですよ」

 最後に笑みを追加して。

「―――へェ、そうかい。円満な別れかい」

 どうやら疑っているらしい。
 しかし、嘘では無い。乱歩さんと私は先日別れたが、それでも後腐れの無い様に別れた。

「……その理由を乱歩さんから聞いても『理由は無い』の一点張りで全く話にもならないのだが、それでも円満だと云うのかい?」

 与謝野さんは、顎を上げてさながら私を見下す…では無く、見下ろす様だ。
 理由は無い、と乱歩さんが云ったらしいが、実にその通りだ。別に乱歩さんは与謝野さんにはぐらかしたわけでは無い。本当に理由が無いから別れたのだ。

「理由が無いんですよ」

 そう云うと、さらに与謝野さんの睨みに鋭さが増す。眉間に皺を寄せてお前まで同じことを云ってくるのか、と思っているに違いない。

「つまり愛する理由が無いから別れたんですよ。乱歩さんは私の事を愛していないんですよ」
「…愛していない。そんなことを乱歩さんが口にしていたのかい?」

 そう、乱歩さんは云っていた。
 彼からの別れ話はまさにその言葉から始まった。「太宰を愛していない、愛する理由が無いから別れよう」と。
 その言葉は私の身体を突き刺していったが、そしてそのまま身体をすり抜けて行った。刺し跡を残す事無く、さらさらと砂と共に風に乗って消えて行った。

「私は愛されていなかったんですよ。乱歩さんは別に私を好きでいたわけでは無かったというだけの話です」

 その言葉を私は淡々と話す。事実だけを述べて与謝野さんの眉間の皺を取り除いてあげようとしたが、それでも彼女の皺が消えることは無い。



 最初から私は乱歩さんに愛されていたわけでは無いのだ。愛の言葉など彼から聞いたことが無かった。いくら優しく接したところで、彼は別に何も思ってくれなかった。彼を特別に扱っていたが、彼からしてみれば私の行為は響いていなかったのだ。
 だから、私たちは別れた。