どうか死なないで | ナノ
 


 夢を見た。怖い夢だけれど、やけにそれは現実みたいなものであった。
 大きな湖。だけれど向かい側には陸地なんて見えない大きな湖。人はそれを「海」というらしいけれど、きっとそんなことは無い。だって彼は戻ってきたのだから。沈んでいった彼の身体は僕の元へと戻ってきた。冷えた身体は周囲の人によって引き摺り出されて水浸しの彼は拭き取られるわけでも無く、温められるわけでも無い。ただ、その場で横たわらせて調査が始められた。その光景は僕にとって余りにも普通で日常的に見てきた世界と似ていた。何度も難解なものも見てきたよくある光景だったけれど、僕がその場にいたのは名探偵としてでは無く――被害者の知人としての役目が与えられていた。
 そんな僕が与えられた役目になり切ってこう云う。

「……なあ、太宰。何寝ているんだよ」

 目を閉じて血色が悪い彼に近づいて声を掛ける。
 そんなことをしても誰も応えてはくれない。
 太宰も周りにいる人も誰も僕に真実は教えてくれない。口にせずとも見て判るだろう。超常的視力を持つ僕には今視ている世界を受け入れろと云われていた。


『太宰は溺死したのだ』














「乱歩さんー?お隣の人からお菓子を頂いたんですけれども……。どうかしましたか?」

 起きた瞬間に家で一人ぼっちだったものだから先程までの出来事が夢か現か判断出来ずにぼーっとしてしまった。
 しかし隣に顔を出していたらしい太宰は家に戻ってきてくれてアレは夢だったのだと断定出来た。だって目の前に居る男は包帯を巻いていつも通りひょろひょろの身体で動き回っているから死んでいる筈が無いだろう。

「……乱歩さん寝ていましたね?寝癖と寝跡が顔についていますよ。ほら、此処ですよ」
「んー?」

 此処、と自身の頬を指で指し示して僕に教えてくれたが寝跡など別に如何でもいい。だってその跡は手術も治療もせずとも自然消滅するのだから、時間の経過を待てばいいだけだ。
 だけれども、人は死んだら戻らない。

「………」

 僕は太宰の腰に腕を回してくっついた。そこからは確かに温かい人の体温が伝わってきて生きているのだと教えてくれた。此処までくれば安心して少し腕の力を緩められる。
 こんな行為に意味が判らないでいる太宰は僕を見下ろしていながらも、頭を数回撫でてくれた。優しく、触れてくれた。

「本当にどうかしましたか?何か厭な夢でも見ましたか?」
「……太宰が生きている」

 小さく呟いた言葉からはきっと太宰にまだ意図が理解されてはいないだろうけれど、話を訊いてくれるらしくゆっくりと太宰の身体は腰を落としていき、頭に乗せられている手では無い手――貰って来たらしい菓子を持つ手――はゆっくりと卓上に置かれて菓子から離される。そうして今度は背中に回されて抱きしめ返してくれた。少し服の先を掴んでいる。

「………太宰が死んだ夢を見た。何時もみたいに自殺紛いなものをしていたら、本当に死んでしまったんだ。溺死だってさ。きっと水没してしまおうと調子に乗って居たら本当に水に足を取られて間違いが起きてしまったんだろうけれど」

 その時の感触は確かに現そのものと同等だった。夢なら痛くないなんて話もあるけれど、夢の自分は夢だと自覚していないのだから痛覚も夢空間には存在している。だから手が触れたあの太宰の顔も確かに冷たくてぬめりが感じ取れて、気持ち悪かった。

「成程、それで私が本当に死んでしまったのではないかと錯覚してしまったんですね」

 大丈夫、大丈夫ですよ。
 数回背中を叩いてくれるけれど、今でも僕はあれを鮮明に覚えているし怖い。

「私も乱歩さんが死んだら泣いてしまうでしょうね」
「……僕はそう簡単に死なない。死ぬつもりなんて無い」
「そうですね」

 痩せぎすの腰を抱き締めているが、骨に直接触れている気分になってくるじゃないか。もっと太った方がいいだろう。
 そう思って僕は太宰を睨み付けると、首を横に傾げて何か云いたいことでもありますか?と無言で訊かれる。

「太宰、もっと太ろう。もっと甘い物を一杯食べて一杯外食をして一杯腹を膨らませよう」
「……なんですか。私をそんな肥満にしたいんですか?肥満だからと云って溺死しにくいとかではありませんよ」
「それは判っているけれど…」

 理屈はそういう問題では無いのだ。一度不安素材を持ってしまえばそれを取り除くのは至難なもの。失うよりも手に入れる方が難しい。

「大丈夫ですよ、乱歩さんを残して先に死ぬなんてしませんから」
「……本当か?」
「まあ死にたいと思った場合は心中を勧めます。共に死んでしまえば取り残される心配もありませんし。それから――」

 それからも彼は何らかの方法をつらつらと話始めそうだったので僕は頭突きをして顎を直撃させた。加減をしたつもりではあるが、彼が暫く痛みを噛み締めていた。
 そして少し太宰の回復を待ちながら距離を取ると、顎を取り敢えず復帰させたところで太宰はにこりと笑い返してくれた。だが、きっと内心は笑っていないし何かしら仕返しが待っていそうなものであった。

「さてさてーそれじゃあ貰ったというお菓子でも食べようじゃないか」

 話を逸らして別の話題にすり替えようとしてみたが、太宰はそれを許してくれないようで。ぐいっと今度は太宰が距離を詰めて僕の視界をいっぱいに占領してくる。

「乱歩さん、誓いのキスしてください」
「ち、誓い?なな、なんで?」

 何を云い出すんだこの男は。この夢の話は終わり、そして切り替えてしまおうと思い切って変えたというのになんでまだ話を終わらせる気が無いのだ。

「いえ、何時も私からで乱歩さんから接吻してくれないじゃないですか。だから、今回は互いに勝手に死んで相手を取り残さないという誓いの意味を込めて」
「そんな急展開が許されるわけない!僕の中ではもう解決したからこれで話は御終いでいいの。僕が良いって云っているからいいの!」
「それじゃあ今貰ったお菓子、あげませんからね」

 ぐぬぬっ……
 本来の話をそれこそ逸らして別の話に確かに切り替わっては来ているのかもしれない。
 先程お菓子の詰め合わせを見たけれど、中にはカステラやら御煎餅という甘いも塩気も様々に取り揃えられていた。ああいう種類が取り揃えられているのは飽きが来ないから手も腹も口も進んでしまう。すっかり隣の人と仲良くなっている太宰に少し驚きもしていたが、僕はそれよりもこの時の食い下がらない太宰にも驚く。

「わ、判った。接吻すればいいんでしょ。するよ。するから離れて!」

 顔が近いと緊張をする。確かに自身がこうしてキスをしたことは無いけれど、それでも…こう改まって素直に――あんなに笑顔な彼にするのは少し厭だ。

「ああ、目を閉じて!絶対に目を閉じて動くなよ」
「そう云って逃げないでくださいね」

 逃げるつもりは無い。この状態で逃げたら余りにも恥じだろうし、この後太宰に何をされるか判らない。こういう時の彼には素直に従うのが吉だろう。
 そう決断をすると太ジアの肩に手を置いて徐々に顔を近づけていく。太宰も目を瞑っているので僕も同様にしてゆっくりと唇を唇に近づけて。
 ほんの一瞬ではあったが、接吻した。上唇が下唇に当たり、太宰の様に上手くは出来なかったけれど、それでもこれはきちんと数えに入るだろう。

「―――ふふっ」

 これで終わり、なる筈も無く。僕が唇を離そうとするが、それよりも先に太宰が僕の後頭部をぐっと掴んできた。そして僕のやり方よりももっと強い接触をしてきて、離すまいと角度を変えてどんどん触れてくる。結局こうなってしまったか、と半ば諦めて息が切れかけてきたところで口に少し空気を含むとその隙間に太宰の舌が口内に侵入してきて絡み合う。
 暫くして唾液が外に漏れてしまいそうになったところで漸く太宰は解放をしてくれる。

「だ、だ、太宰…最低だ!僕からするだけだって……」
「でも私から接吻をしませんとは云っていませんよ。それに期待していたんじゃないですか?」

 にこりっと悪魔は微笑んでいた。
 うむ、確かにこの男は暫くはまだ生きているのかもしれない。