やわらかな夜の向こう側 | ナノ
 


 鈍感。社長は鈍感だ。彼と僕はもう何年もの付き合いになるが、その中で最も親しく接していたのは僕だと思う。いや、僕だろう。断言してしまっても宣言してしまってもいい。だから、彼のことを一番知っているのはきっと僕だ。
 そんな僕でも彼の恋愛事情を知らない。一番知っているのに、案外知らないことが多いのは、彼が見せてくれないからだ。僕を相手にしているところで、子供だと小莫迦にしているのかもしれないけれど、成人してからも僕にはその影すら見せない。だが、女性との対面が苦手な人でも無い。社員だって仕事先でも普通に接している。本人の口からそんな話を訊いた事も感じる事も無い。――時々子供が苦手なのかもしれないと思うけれど。
 そんな彼は恋愛なんてしない。見合い話もあったらしいけれど、社長は対面する前に既に断っていた。
 まだ幼い頃に、

『会ってみたらいいのに』

 なんて云ったら、僕の頭を乱暴に掻き回してこういった。

『今は、お前の子育てで手一杯なんだ』

 それじゃあまるで僕がお荷物みたいじゃないか。あれか。離婚して子供を連れていると中々再婚が難しかったりする話と似た類なのだろうか。要するに、彼曰く僕が居るから恋愛にまで手を出せないということらしい。
 とはいえ、もう僕は成人をして社内にも後輩が出来て先輩としても立派に仕事をこなしている。それでも、彼は相変わらずだ。
 まあ不器用な人なんだろう。一匹狼を気取っていた割りに僕への面倒を溜息交じりに行ってくれていたし、こうして雇ってくれて独り立ちもさせてくれた。あ、あとは鈍感かもしれない。
 去年の冬に社長は事務員の一人から手作りのチョコレートを貰っていた。他の人には買ったものを配っていたのに。ああ、僕も市販のチョコを貰ったけれど、何とも安っぽい味だった気がする。まあ、僕は美味しければ値段にこだわりはしないけれど、社長のチョコには値段が点いていない――非売品だった。

『そのチョコ、食べないの?』

 何時までも社長室の机に置かれていたので僕が痺れを切らして訊いたことがある。すると社長は、僕に向かって差し出してきたのだ。

『お腹が空いているなら食べるか』
『え、それって社長が貰ったものでしょ?』
『ああ、だから一緒に食べよう』

 仕事を中断して二人でそのチョコを食べた記憶がある。あの時、僕としては少しだけ罪悪感を覚えた。あれから二人に何か進展があったとは思えないけれど、社長はそのチョコを「旨い」の一言で片づけてしまって、ほとんどが僕にあげていた。きっとこれが手作りだなんて気づいていない。気づいていたところで、彼女への愛情は届いていない。それは全て僕が食べてしまったからかもしれないけれど、ラッピングからして社長は期待してもいいと思うんだけれど。鈍感な社長を見ていて気付くのは、きっと社長は社員をそんな対象として見ていないのだということだ。
 社員が危機に晒されれば総動員で探して救出に向かわせるぐらいお人よしなのに、人には鈍感だ。
 鈍感だからかな。無意識だからかな。
 社員をそんな対象として見ていないのだろうけれど、社長は僕だけは特別に扱ってくれている。そう断言しても…宣言は出来ないな。
 きっと社長は僕が好きなんだろう。社員や友人以上に、その対象よりも上に思ってくれているんだろう。
 だって社長は僕が家に泊まりに行きたいと望めば溜息で誤魔化しながらも顔を綻ばせて受け入れてくる。知っているんだよ。僕が仮眠室で寝ている時に時々傍に寄ってきて意味も無く髪をき上げているのを。
 でもそんな素振りも無意識なんだろうね、悲しいけれど。
 だから、僕も好きだなんて云ってみたらきっと答えは「NO」だろう。だって自分の感情に気づいていないんだから、彼の頭の中では何時までも僕は子供なんだ。














「……社長、知っている?」

 二人しかいないこの室内で社長に声を掛けるが、全く返事が返ってくる気配が無い。すっかり机に伏せて眠ってしまっている。昨夜は遅くまで社内に残って仕事を処理していたから、今朝になってその反動がやってきてしまったんだろう。
 あーあ、結婚していたらきっと奥さんが料理を作って待っていてくれたんだろうけれど、社長は独りだからそれを気遣ってくれる人は居ない。だから、仕方がないから僕がその穴を埋めて気遣ってあげているのに、社長は気づいているんだろうか。いや、こんなに近づいているのに気づいていないんだからそんなさり気ない僕なりの優しさなんて気づかないだろうね。
 僕が握ったおにぎりを机の隅に置いて僕は社長の髪に触れてみる。何時も僕が寝ている時に触ってくるけれど、何が楽しいんだろう。触られるとくすぐったくてそれで目が覚めるのだけれど――
 わさわさと軽く触ってみる。するとびくっと社長の肩が動いたが、それでも起き上がる気配は見せずにまた少ししたら大人しくなった。
 その姿を見ていると面白くなってもっと触ってみる。

「――ふふっ、何これ」

 わさわさっと触ると社長は流石に起きたのだろうか、手をゆっくりと頭の上に置いて僕の手を振り払ってきた。

「うーん……乱歩か?」
「せいかーい!」
「……なんだ、やけに機嫌が良いじゃないか。何か好い事でもあったか?」

 寝ぼけている社長の貴重な表情を拝むと、僕はそれだけで口がに上がってしまっていた。

「人の頭を弄るのは案外面白いもんだな、と思って」
「……そうだな」

 社長も目を細めて此方に向かって笑みを見せた。なんだ、寝起きの社長ってこんなに守備が緩いんだ。何時も泊まりに行って起きた時にはすっかり身支度を整えている姿だから、知らなかった。ふむ、意外にも知らないんだな。

「お前も寝ている時に触ると寝ぼけて手で払ってくるからな」
「……社長の触り方がエロいんだよ」

 ねっとりとした触り方なんだと思うけど。だが、僕がそう強めに云ったら、すっかり目が覚めた社長はくすりと笑った。口を隠して。あの滅多に笑わない社長が。

「……いや、お前は案外気持ちよさそうにその後俺の手を頬に当てたりしているからそれが気に入っていると思っていたんだが」
「―――!?」

 そんなことをした覚えが無い!いや、確かに触られていた時はさっきの社長同様に寝ぼけていたりするだろうけど、そんな動物みたいな動きをしていたのか。急に恥ずかしくなって赤面してしまう。

「お前は、可愛いな」

 そうして起きている僕の頭をわさわさと触った。
 昔はそんなことをしてこなかったが、最近社長がそうして僕に無意味に振れるのは、きっと特別だからだと思う。特別な感情が僕には抱いているんだと思う。
 だって、僕以外には余り笑みを見せないだろう。だから、鈍感で無意識に恋をしているんだよ。
 ねぇ、気づいてよ。もっと自覚してよ。

「これ、乱歩が握ったおにぎりか」
「……うん。鮭とおかかを両方混ぜてみた」

 あまり見たことが無い組み合わせだろうが、それでも社長は遠慮なく口をつけて、「旨い」と云ってくれた。笑って云ってくれた。チョコの時とはきっと違って、僕の愛情は届いている筈だ。
 だから気づいてよ。僕が好きだって認めてしまえばいい。
 じゃなければ、僕は何時まで経っても告白すら出来ないじゃないか。
 早く、堕ちてしまえ。