未来を描こう | ナノ
 



 我が臆病者だとは思いもしなかった。













 今朝は目覚めが悪く、それでもなんとか会社に出勤しなければならない、と頭を半ば無理矢理に連れ込んできて予定の時間に間に合わせた。納期を納期を、と偉い人が騒ぎ立てている様を見る様に時間に追われて慌ててやってきてしまったのだ。
 出社したら、なんと先に乱歩がやってきており俺の姿を見るなりいきなり仁王立ちになって此方を睨みあげてくる。何事か、と訊いてみたいがこの状況でその態度は間違いなく怒りの矛先が自分に向いていると考えるのは実に容易であった。

「…社長、電話は?」

 小さく動いた唇は、俺の身体全体に汗を流していった。彼は怪訝そうに眉を寄せてこちらを見てきたので、俺は慌てて懐に手を突っこんで居場所を確認する。乱歩の予想通り、其処には仕舞われておらず、ならば他の場所に入れていたのだろうかと衣服のあちらこちらを探ってみる。その姿は間抜けなものだ。
 そして調べに調べつくした結果。

「―――無い」
「矢っ張りね。僕が朝から電話したのに出ないから電源が切れているのか忘れているかの二択だったんだけどさ」
「しまった。あれが無ければ仕事の緊急事態に備えられんな」

 今日はこの後出先でお得意先と食事会があり、外出することになっているのだ。
 忘れてきたとあれば携帯電話の居場所は間違いなく家の中だ。そこで自分の記憶を辿りながら昨晩何処に置いてそのまま忘れてしまったのか探していく。辿って探していくうち、ある部分の記憶に引っかかる。
先ず家に帰ってくればそれを脚の低い机に置いて目につきやすい位置に置いているのが常だ。だが、昨晩は珍しくそれに触れてあちらこちらの牡丹を触っていた。携帯電話を所持してもう何年にもなるがあまりこうして電話目的以外で使用することが無いので緊張をしていた。其れだけでは無いのだが。そしてそのまま寝落ちしてしまった。だからか、目が寝起きなのに疲れておりすっきりとした朝を迎えられなかったのは。それの所為にするつもりは無いが、原因と居所も掴めた。

「今から取りに変える。それで、乱歩の要件は何だ」
「…僕は社長の家に忘れ物をしていたから、今朝それを持ってきて欲しかったんだけど―――取りに行くなら僕も同行する。今日の社長は物忘れが激しいみたいだから僕が隣に居て助手となろうじゃないか!」
「―――そうか」

 なんで此奴は楽しそうな笑みを浮かべているのだ。先程まで怒っていた彼とは思えない豹変ぶりだ。だが、思っても居なかったところで訪れた好機だ。

「ほら、社長。早くいくよ」

 そう云うと、乱歩は俺の手を掴んで引いて前を歩いていく。まるで子供が大きな荷物を持ち運ぶ様に精一杯力を腕に込めて引っ張っている。その行動を見て可愛いと思い少しだけこのまま流れに逆らって動かしてもらおうかなんて考えもしたが、それは余りにも体格の違う彼にとって可哀想でもあると思い留まる。

「……社長、本当に大丈夫?何時もみたいにキレが無いよね」

 鋭い視線が見事に内面を見抜いてくる。だが、これの自分だ。何時も人は緊張の糸を張っている訳では無い。それが公私混同して仕事への影響を与えてしまっては失態と罵られても仕方ないが。だが、別に乱歩の前でこんな体たらくを見せたのは初めてでは無い。だから彼も扱い方を判っているのだろう。何時までも俺の前を歩いていく。












 そうして彼の案内によって自宅に帰ってくる。二人で家に足を踏み入れる。
 乱歩は真っ先に洗面台へと向かっていくとどうやら彼は眼鏡拭きを忘れてしまったらしい。そんなに重要なものでは無いのか、とまじまじと見ていると彼は頭の中で考えていることを察知したらしくこう云った。

「これは社長が僕にくれた物でしょ。だから無くしちゃ駄目なんだよ」
「………」

 たかが。なんて云ってしまい掛けて抑えた。彼にとってそれがどんなに大切なものなのかは、手に持っている人物以外が正確な価値を付けるなんて無理なのだ。実にワインの値段らしい。その店ごとに同じワインでも値段に差があるが、それは店にとっての価値でありそれと同価値の値段であれば差し上げると云ってくれているのだ。それを消費者が買うのもまた―――それ以上は話が逸れてしまうので以下省略としよう。
 それよりも自分は此処に来た目的の物を探さなければ、と布団を探してみる。すっかり布団を畳む時間も有していなかったのを乱歩に見られるとは少し恥ずかしいが、彼はそれをあまり気にしては居ない様だ。

「…社長の家って綺麗だよね」

 むしろこの発言だ。乱歩の家は想像に難くないが、彼の家に一度云ったのは最初に引っ越しをする時ぐらいなのであの家を如何過ごしているのかと大分大袈裟に想像は作られているのかもしれない。

「このぐらい綺麗にしておかなければ誰かを招く時に困るだろう」
「誰か招いたりするの?」

 ―――それは、お前のことだ。

 しかしどうにもこのまま話が噛みあわないと考えてそれ以上何も彼には云わずにいる。すると、彼はあちこちを物色して帽子を机の上に置いた。

「今度僕の家に来て部屋の掃除でもしてよー。こんな風に広々とした生活を送りたいなぁ」
「………どんな生活を送っているんだ」

 しまった、思わず口に出てしまった。慌てて片手で口を抑えるが、幸い彼に背中を向けていたので表情を見られずに済む。
 背中を向けたままで手を動かして探すと、それは毛布にくるまれてしっかりと形を保っていた。もしかしたらこれを身体が踏みつぶして壊していたかもしれない―――そんな位置に置いてあったので無事に作動するか確認をする。

「あ、あったの?」

 乱歩が腰の横から顔を出して携帯電話を見る。

「ああ、珍しくこれを弄って居たら疲れて寝落ちをしてしまったらしい」

 素直にそう告げるとふうん、とそれを訊いて乱歩の反応は薄かった。だからあまり興味が無いのだろうと思っていたが、乱歩はそういう訳では無かったらしい。背後に居る人物にすっかり気を許してしまっていたので、まさに緊張の糸が緩んでいたのだ。

「それっ!」

 彼の掛け声よりも先に手が俺の携帯電話を奪い、そしてカチャカチャと動かし始めた。

「何をしている」
「社長が寝落ちをするぐらい没頭する理由が何か調べるんだよ!まさに調査だね」

 格好良くポーズを決めていたが、その行為はあまり褒められたものでは無い。人のプライバシーというのが存在して、携帯電話はその宝庫だ。本来なら別にそれをされたところで即座に取り上げるつもりは無い。やましいものも無いうえに、基本的に困るのは相手先の電話番号が登録されているぐらいだ。これを無くしたりしてしまえば相手側にも迷惑が掛かり非常事態になるが、乱歩がそれをどうこう悪用する奴では無いと知っている。もう何年もの付き合いだ。だが、そんな長い付き合いの彼にも今は見られたくないものがある。保存されている。あそこに。
 それを彼に見つかる前に、と慌てて取り返す。

「……勝手に人のものを見るな」
「―――だって、社長がそんなに気になることがあるなら興味があるし。誰かと連絡を取っているのかもしれないと思って…」

 ごめんなさい。最後に小さく呟かれたそれは、彼にとって不服ではあったのだろうがきちんと自発的に謝罪がやってきた。
 別に見せられない訳では無い。見せたいが為に頑張って模索していたのだ。だが、何時間も携帯電話を手にしたところで判りはしなかった。

「……僕は先に会社に戻るよ」

 乱歩は入ってきた時とは打って変わってすっかり消沈してしまったらしく声からも落ち込んでいるのが読み取れる。別にそんな気にさせたかった訳では無い。
 だが、引き留めるのは余りにも虫が良すぎる気もする。どうしても素直に彼に伝えられずにもたもたしてしまっていただけなのだ。自分が臆病者だと思い知らされる。恋情などそんな戯言に免疫が無いのだ。
 それでも彼の中の自分は格好良くしておきたいなんて勝手な自尊心も捨てられず、乱歩にも伝わらずにすれ違ってしまっている。
 ドアノブに手を掛けた乱歩に、俺はどうしてもこのまま不穏な空気感を纏ったまま帰ってもらいたくなかったので引き留めた。格好良く無い恋愛に臆病な自分なりの―――精一杯の想いだ。

 ブーブーブー

 バイブ音と軽快なメロディが流れたのは、乱歩のポケットの中からだった。

「―――え、僕?」
 ポケットに突っ込まれていたそれは携帯電話で、バイブ音とメロディが何かを受信したと知らせてくれて不穏な空気を少しだけかき消してくれた。その場に立ち止まった乱歩は直ぐに要件が何かを確認して瞳を動かす。そして画面に映ったのは、先程隠したいと懸命に取り返した携帯電話にあった中身だ。


『―――乱歩へ
 お前にはずっと云わなければならないと思いながらも、何時までも立ち止まってしまっていた。互いに近すぎたのかもしれない。奔放なお前の性格を受け止めるのに精一杯ではあるが、少しでもお前の未来を隣で支えることを許してくれるのであれば』


 途中で途切れてしまっている。
 それは続きが上手く思いつかずに悩んでしまって、そのまま寝てしまったのだ。

「なにこれ。なにこれ、社長から来たんだけど。あれ、文章間違えているんじゃない?だって僕に届いてきているけど」
「それはお前宛だ」

 あれ、あれ…と俺と携帯電話の画面を交互に見ていく乱歩は画面が暗くなっても中を覗いていた。信じられない、と云っていたのであの稚拙な文章でも彼に届いているらしい。

「乱歩、もしよければ―――」

 その先はきちんと云おうと、決意をして一度軽く息を吸うとそれよりも早く乱歩はドアを背にして此方に向かって飛びついてきた。

「ふふっ、ふふふっ」

 彼は顔を隠しながらその中で笑っていた。この笑いはきっと喜んでくれているのだろう。美味しい菓子を食べる時みたいに、彼はきっと至福の顔をしているのだろう。その表情をきちんと目で見れないのは残念ではあるが、想像は難くない。彼とはもう長い付き合いだ。こうして曖昧に形を作りはしないが長い事続いてしまっていた。
 だから今度はきちんと云わせてくれ。

「一緒に、未来を歩んで行こう」