きっとずっと変わらない | ナノ
 


 俺が探偵社に入ってから数カ月。一人一人個性の塊を固く留めている人々が集っている中に、一人理想を常に抱きながら働いていた。その理想が誰にも理解されないとしても、実行されずとも…それでも人は理想を持たねば生きられない。生きるには意味が必要だ。その為の高い目標が理想なのだ。
 だが、理想は直ぐに崩れてしまっていた。当初の目的とは違い、思いもよらぬところで自身に変化が訪れたのだ。

「…ねぇ国木田。新人国木田君。今暇でしょ。如何見ても暇だよね」

 その男が訪れてきた。雑に彼が手に持っていたのは、ネクタイであった。斜めにラインが入っている新品の様なネクタイ。彼はそれを俺の元に持ってきてこう云った。

「ネクタイを結んでくれない?」

 彼がわくわくした表情で早くと急かしてくる。そう云えば、何時も乱歩さんはネクタイをしているのだが、今日はしていない。首元に一度視線を向けて、だらしなく肌が少し見えているその部位に、顔を赤くして慌てて顔を逸らす。

「…乱歩さん、ネクタイを結べないんですか?」
「…うん。何時もは社長がしてくれているんだけど、今日は忙しいみたいで」

 何と云う事だろうか。以前に電車に乗ることが出来ないというのは仕事に同行して判っていたけれど、この人は所々簡単な事が出来なかったりする。
 そんな彼に理想を崩されてしまったのだが。

「ではネクタイの結び方を覚えましょうか」
「ええー、めんどくさいよぉ」

 口を尖らせて俺の方を鋭い視線で見てくる。こんな顔をされてしまえば、仕方なないと首元に解けているネクタイを掛けていく。一瞬首元を指が掠った際に少しだけくすぐったい表情を見せたのは、自分の心の中にだけ仕舞っておこう。

「国木田の手って大きいね」
「そうですか?」

 唐突になんだ。そう思い、彼の顔を見てみると視線は首元で動くネクタイを見ているらしく、其処に映った俺の手を真剣に観察していた。そんなに見られると集中できない。
 何時からか、彼の顔をまともに見られなくなってしまった。初めて会った時は緊張をして中々目線を合わせられなかったこともあったが、それとはまた違った恥じらいを持つようになっていた。





『ねぇ新人君。君のその手帳は一体何が書いてあるんだい。何時もびっしり文字で埋め尽くされているみたいだけれど』
『ら、乱歩さん。此れは俺の理想ですよ。将来の自分へのスケジュール帳みたいなものです』

 そんな会話をしたことがあった。
 そしたら乱歩さん直ぐに俺からその手帳を奪い取って黙々と目で文字を追って読み始めてしまった。本来あまり人に見せたいと思っていなかったが、乱歩さんは最後まで笑いもせずに破きもせずにそのまま返してくれた。

『国木田らしいね』
 まさかそんな嬉しい言葉を貰えると思っていなく、その後は照れてはにかんでいた覚えがある。あの時はもうとっくに彼にすっかり魅了されてしまっていたのかもしれない。






「この後は何か予定でもあるの?」
「えーっと、この後は賢治と共に近辺の調査をしてこようと思っています」
「…へぇ、そうなんだ……へぇ、ふうん」

 なんだろう。今度は彼が一人で考え事をしてしまった。

「なんだかあまり僕は国木田の事を知らないみたいだなぁ。僕と君らが一緒に仕事をする機会が無いからしょうがないのかもしれないけれど」

 乱歩さんは何時も別の調査員と共に出掛ける事が多い。全ての社員の行動を把握できる超人以外は互いの行動なんて判っていないのだからそれは当然であるが、「なんかつまんないの」と云われて、少し嬉しくなってしまった。顔には出ていないが、それは乱歩さんが少し自身に興味を抱いてくれたのだろうと思ったからだ。

「…だったら、これから国木田にネクタイを結んでもらえばいいんだね!」
「―――へ?」
「だって国木田とこうして改めて二人で会話をする機会なんて持てていなかったからね。そうだ、そうすればもっと国木田を弄れる」

 最後に物騒な発言を残していたが、それでも俺は彼がこうして歩み寄ってくれることが何より嬉しく、あまりに急な接近機会がやってきてしまい、怖くなった。
 すっかりネクタイを結ぶ手が止まり、彼のことをまじまじと見てしまった。

「ほら、手が止まっているよ」
「ああ、済みません」
「社長にネクタイ係はクビだと教えてあげないと」
「それだと社長と会話をする時間が減ってしまうのでは」
「うーん、別に社長とは他にも喋っているし。何時もあの人と仕事終わりに遊んでもらっているからなぁ」

 訊かなければよかった。少しだけ喜びの感情が押し込まれて行った。
 彼には社長と云う人物がいたのだ。彼の中には社長と云う偉大な人物が真ん中を占めているのだ。
 そう思えばネクタイをぎゅっと締めていく。きつくきつく締めて、解けない程に締めてしまい、このまま首事絞めつけてしまおうか、なんて危ない発想にまで至ってしまった。

「んんっく、にきだ…首、首!」

 無意識に何時の間にか彼の首元までネクタイをあげてしまっていた。それを気づかせてくれた乱歩さんは、ネクタイを緩めると何度か激しい咳をした。

「大丈夫ですか?」
「んもう、此れからネクタイ係にしてあげるんだからしっかり結んでよ」

 ああ、崩れてしまったじゃないか、と乱歩さんはまた口を尖らせて皺がついてしまったネクタイを見た。
 済みません、と一度謝罪をして再びネクタイの形を作っていく。
 真逆社長を相手に嫉妬をしてしまうなんて、自分の欲が制御しきれていない事に驚いてしまった。

 ―――だが、理想を叶えるためには。

 将来の理想は今如何なっているのだろうか。乱歩さんに恋情としての好きを持っているのであれば、それはもう何時か幸せに結ばれる理想を望んでいるのだろうか。それとも颯爽と身を引いて彼にも気づかれぬまま放って消滅するのを待つのだろうか。
 今まであまり近くなかっただけに、こうして今接近して改めて壁がやってきた。
 遠くで見ているだけで満足して、今のままで良い―――社長に適う筈がない―――と甘んじていた自分が初めて彼に対して理想を抱いた。

「はい、出来ました」
「おお、有難う!」

 最後にぽん、と軽くネクタイ越しに胸を叩いてあげると乱歩さんは目を輝かせて出来栄えを確認していた。しかし彼はそれを直ぐに緩めてしまい、首元の防備は一瞬で緩くなってしまったが。

「それじゃあネクタイ係、明日もよろしくね!」
「…判りました」

 しっかり身だしなみを整えた彼は直ぐに今朝の新聞を大きく広げて何か面白い事件が無いかと確認を始めた。

「………」

 結局、彼が如何して俺をネクタイ係に任命したのか―――本当にお喋りがしたいと思っただけなのか―――判りはしなかったが、それでも彼と明日もまた会話をする口実は出来た。明日も会話をして、ネクタイ係と呼ばれ続ける日々がやってくるのだろう。
 彼の姿を見ていると、背後から社長がやってきて俺は慌てて朝の挨拶を交わす。

「……乱歩」

 挨拶を一言二言返した後に、社長は乱歩さんの元へ行き、新聞を広げていたことに注意をしてその場を立ち去った。社長に注意をされて素直に従う乱歩さんは、社長を見て笑っていた。
 確信した。適わない。ならば、理想を書いている手帳には貴方との幸せな将来を書き込んでおくことにしよう。理想は叶いはしないのだ。書くぐらいは自由だろう。
 明日もまた、明後日もまた、俺は貴方のネクタイを結ぶ。