Today's corridor | ナノ
 


「え…あ、うわ!」

 遠くで誰かの声が聞こえる。そしてその後には重く痛々しい音が響いていく。それは音を訊いただけで此方の肩も釣られて上がってしまうぐらいに衝撃を響かせていた。
 両手で支えている多くのファイルを抱えていながらも、本来ならこれを早く整理して仕舞い込んでおきたいところであるが―――そんな事の正体を確認せざるを得なかった。
 探偵社の廊下から聞こえていたその音の中心には、敦が居た。今も尻を床に落としており顔が歪んでいるので大体の予想は見れば判る。

「転んだのか」

 俺は一応状況を正確に知りたいと思い、当事者であろう敦に直接話しかけてみる。
 それで正解だと、敦は肯く。
 何とか自力で起き上がった敦であったが、再び足を床に付けた時にまたも滑り身体が後ろに下がろうとしていた。しかし、何とか大きく足を上下に広げた事によって何とか自分の身体にこれ以上の負傷をさせまいと守られた。

「どうやらワックス掃除をしたらしいな。滑りやすくなっているから皆にも注意を促しておく必要がある。敦、連絡をお願いする」

 支持をされた彼は、慌てて皆の元へと進んで行く。その途中でまた転んでいた彼であるが、それに関しては特に何も助けを与える気にはならなかった。
 一度注意をしてそれを短時間で忘れてしまう者に何度も教えをあげるつもりは無い。
 非道かもしれないが、そんなに自分は優しい人間では無い。

「…あれ、国木田じゃないか。全く、そんなに大きな荷物を一気に持っていたら落としてまき散らしてしまうのがオチだよ」
「あ、乱歩さん。…それと、太宰」

 乱歩さんが前方から現れる。隣に太宰を並べている。

「国木田君は相変わらず仕事熱心だね。感心するよ」

 上から目線で俺を見てくるこの男に感心された処で何も得する事は無い。むしろ、苛立ちが増していくばかりだ。
 だが、乱歩さんの忠告通り、この滑りやすい廊下を歩くには余りに集中力を要するもので、顎にまで乗せられているファイルらをしっかりと抱きかかえる。
 二人は何やら昼食をカフェで済ませてきたらしい。こちらに向かってくる二人の足取りは廊下の滑りに注意している様を見せていない。まだ敦から注意を訊いていないらしい。

「二人とも余り不用心に動くなっ!」
「えっ?」

 しかし、その注意は果たしてフラグを立ててしまった。

「あ、あれ…?」

 乱歩さんは足を前に滑らせてこちらに向かって倒れ込んできそうになる体勢になる。太宰も隣に居て何とか支えてやろうと行動を移すが、太宰の範囲から外れていく。前のめりに倒れてくる彼の身体は敦の様に音を立たせてしまうのか。
 此処で人生の終わりでも無い。
 だが、彼を助けざるを得ないと思った身体は何も考えずに、目に映った者から勝手に判断してファイルを手放して乱歩さんの元へと走っていた。
 注意を促していた本人が何も理解出来ていない。それでも身体は跳ねて飛び掛かって、助ける。
 結果としてファイルは乱歩さんの予想通りまき散らしてしまった。そのうえ、彼の体勢を守る事も出来なかったが、それでも彼の床への転落は辛うじて守られて、代わりに自身の背中が床へくっつく。
 助けたと云っていいだろう。

「あ―――ごめん、国木田」

 胸に乱歩さんの身体が圧し掛かっていたが、乱歩さんは直ぐに上半身を起こして俺の胸から離れる。全く、もっと想像していたのは格好いい助け方だったのだがな。

「…だ、大丈夫ですか」
「うん僕は何とも無いけれど。それより国木田の方が背中を打ち付けているから痛いだろう」

 乱歩さんは此方を真っ直ぐに見てくる。怒っているという表情も見えるが、それよりも心配してくれているのだろうか。
 こんなに真正面に人と向き合う事など滅多に無い。ぐいっ、と勢いよく顔色を拝見してくる彼の顔が近づいてくる。

「………っ!」

 そんなに見つめられてしまえば、誰だって赤面はする。改めて自分の顔を見られると照れてしまうのだ。口元を右手の甲で抑えが、彼に赤らめた顔は見抜かれてしまう。

「なんでそんなに赤いの」
「それは…その…、真っ直ぐ乱歩さんに見られて緊張したんですよ」
「え……何を云ってるんだよ!」

 僕は男なんだから!と声を荒げる彼の云う通りだ。なんで男相手にときめきにも似た感情を持ってしまったのだ。それは、不可抗力だ。誰だって衝動的に泣きたくなる事もある―――これが例えと正しいのか、最早それを判断する能力すらも鈍くなってしまっている。
 だが、此れだけは判った。

「…乱歩さんも赤いですよ」
「そ、そんな血迷った発言をされたらこっちだって恥ずかしくなるに決まっているじゃないか!これは僕の所為じゃない。国木田が可笑しいからだ。ファイルをまき散らしても僕を助けるなんて正義を披露したお前の所為だから」

 どんどん顔を真っ赤にしていく乱歩さん。そして自分もまた同様になっているのだろう。顔の形こそ違えど、きっと顔色は今鏡同然だろう。

「…国木田、離れてくれ」
「あの、乱歩さんが退いてくれると助かるのですが」

 脚が乱歩さんの身体の下に有るので、自力で抜き上げるのは少し困難だ。
 そのことを伝えると「あ」と声を漏らしてゆっくりと身体を起こしてくれた。そして立ち上がってからは彼の顔色はすっかり元に戻っていた。自分の頬は触れてみてもまだ熱を帯びているのに。

「ファイルぐちゃぐちゃじゃないか。あーあ、此れ如何するんだよ」

 乱歩さんは足元にあるファイルの中からはみ出てしまった用紙を雑ながらに回収をしてくれる。彼一人に任せてはならないと直ぐに衣服を整えて眼鏡の位置も定位置の留めて一つ一つ取りこぼしの無いように回収をしていく。その間も足を滑らせないと心構えをして強く床を踏みつけて動く。
 もう二度と同じ過ちを繰り返さないと。

「はい、乱歩さん」

 そこでああ、居たのか。と云いたくなる懐かしい声が聞こえてくる。太宰が一番遠くまで飛んでしまったファイルを彼に対して渡してあげる。

「仕方ないまた国木田が滑ってまたファイルを落としてしまったら面倒だから僕が持ってあげよう」
「なら私も少し持ちますよ」

 乱歩さんの手を煩わせるのは申し訳ない。
 また滑ったという発言を訂正した方が良いだろうか。
 だが、ファイルを落としたのは自分の落ち度に値する。
 様々な考えが頭に浮かんでいくが、どれも言葉にはならないまま消えていく。時間は待ってくれないのだ。頬も時間と共に徐々に熱を消してくれる。

「大丈夫ですよ乱歩さん。此れは俺の仕事ですから自分でやります」
「勿論ファイル整理は君に任せるけれ国木田に貸しが出来てしまったからね」

 そして数秒後、再びこちらに近づいて一言。

「ありがとう」

 にこり、と笑いながら云ってくれたその科白にまた赤面してしまった。そんなに近くで見られると如何やら俺は苦手らしい。
 三人でそれぞれファイルを両手で抱えて、足場に気を付けながらも廊下を突破していく。前を乱歩さんが歩いて、その一歩後ろに太宰。最後に俺が。
 綺麗に縦一列に並ぶ異様な光景を気にせずに歩みを進めていくと、ふと太宰が此方振り向いてきた。

「…国木田君も、意外と行動力があるんだね」

 そう呟いた。気がした。正確には聞き取れない小さな声で断定出来はしないが、それでも太宰の眼は俺を睨んでいた。