風が吹く、君が笑う | ナノ
 


彼は我輩の行動一挙手一投足に対して笑っていた。何時も何をしても笑っていてくれていた。階段から派手のこけたとしてもそれを後ろに居て一部始終見ていた彼は笑っていた。僕が落ち込んでいた時だって「大丈夫だよ」という一言を突き出して笑っていた。
 人は笑うことを不謹慎に捉える場合もあるが、彼もまた傍から見ればきっと不謹慎だと認識される態度を何度もとっている。
 それでも我輩はそれに対して不謹慎だとも不満も怒りも無かった。何時だって彼の笑顔に救われてきていたのだ。
 それを、我輩も彼に差し上げたい。













「…ら、乱歩君。今から時間があるかい?」
「時間?うん、今は特に予定も無く自室のど真ん中で大の字を作っていた最中だよ」
「それなら……乱歩君に見せたいものがあるので、ぜひお出かけをしないかな、と誘ってみたのであるが…」

 今日は綺麗な青空で雲が太陽をしっかりと人々に提示してくれている。そんな絶好なお散歩日和に彼を連れて行きたい場所があった。
 日本に来て初めて感動したあの場所に、我輩は連れて行きたいと思ったのだ。
 人を誘う経験など皆無に近かったので、こうして今彼を電話越しに提案をして返答を得るまでの時間が酷く長くどきどきするとは思いもしなかったのだ。
 その時間は僅か数秒だというのに。

「いいよ」
「え、本当であるか?」
「うん。たまには君の顔を見たいと思っていたところだ。君のデートの誘いにしっかりと了承の返事を与えよう」
「で、でーと?」
「違うの?」
「違くないけど……」

 そんな風な物言いをされてしまうと、ぽっと頬を赤くしてしまう。きっと隣に乱歩君が居たら莫迦じゃないの、と声高に云われていることだろう。













 車を所持している訳でもないので、徒歩という手段を使って彼と並んで歩いていく。お昼の天気は徐々に夕方に変わりかけて橙色の太陽は、少しだけ雲に邪魔をされてしまい始めていた。

―――確か、今日の天気は快晴の筈だったが。

 少しだけ不安に思いながらもゆっくりと乱歩君のペースに合わせて歩いていく。

「ねぇ、まだ?」
「も、もうちょっとだけ…」
「僕歩くの疲れちゃったよ。少し飲み物でも飲んで休憩をしようよ」

 乱歩君は20分以上歩き続けた辺りで少し機嫌を悪くしてきた。当初は宥めて彼のご機嫌を出来るだけ最小限の損ね具合になるように努力をしていたが、それでも彼は徒歩に限界を感じていたらしい。
 そうこうしている間に風は強さを増していき、雲の流れも速くなっていく。
 出来るだけ天気がいい状態で彼に見せてあげたいと思っていたのだが。

「君は体力がなさそうに見えるけれど、よく我慢できるね」
「え、そんな…ことないである」

 自身も予想以上に辛くなっていた。前回は車を使用して坂を登って行ったのでそれほど現在登っている坂が急であると実感できなかったのだが、今回少し険しいのだと理解した。
 だが、もう少しこの坂を登れば見せたい場所へ辿り着けるのだと考えれば此処で断念するのは余りにも惜しい。

「…じゃあさ、何か面白い話をしてくれよ。辛さを紛らわしてくれるような話を」
「辛さを紛らわす…?」

 それは何だろうか。口下手であることは彼も知っているだろうに、楽しみにしているような表情をこちらに向けてくる。そんなにハードルをあげられても困る。

「我輩のペットのアライグマが居るのであるが、何時もは我輩の傍に寄り添ってとても癒される可愛い動物なのだ。だが、どうにも彼は我輩が撫でると反攻するように手を引っ掻いてくるのだ。前回もつい頭に触れてしまったら途端に手を引っ掻かれてしまったのだ」

 つい最近の実話を彼に伝えて、最後には怪我の跡を見せてあげると赤く瘡蓋へと変貌しているそれを見て乱歩君は少し気味悪そうに見てきた。

「それ、辛さを紛らわす話よりも痛みを共有させられた話でしょ。別の苦痛がこっちに伝わってきたんだけれど」
「…あ、済まない…」

 そんなつもりは無かったのだが。
 そういうと、彼は笑った。

「君、莫迦だねぇ」

 彼はげらげらと笑って空を見上げた。

「………あ、やばいかもしれない」

 何がやばいのか、我輩も彼が見ているものを一緒に、と空を見上げてみる。
 すると先程までの天候とは一変して急に雨が降り注いできたのだ。昼間のすっきりとした天気とは全く変わってしまった空模様。
 天気予報が外れてしまい、それを信用していた我輩は特に傘を前準備していたわけでも無かったので乱歩君も我輩も濡れていく。

「は、早く登ろう!」

 登った先には小さな小屋があり、そこで雨宿りをしていこうと咄嗟に考える。
 頭から被っていく雨は黒い雲からどんどんと降りていき、人間に水を与えていく。なんで今なんだろうか。
 折角彼に素敵な景色を見せてあげたかったというのに。

「…乱歩君、済まない」
「ええ、なんで謝ってんの?雨が突然降ってくるなんて面白いじゃないか」

 彼はなんだか、楽しそうにしていた。彼が、笑っていた。
 何が楽しいのか判らないままに、二人で登っていき、一先ず雨宿りをしていく。
 タオルも持ち歩いていない二人は雨を凌ぐことに成功したものの、重苦しい服装は肌を濡らしていく。

「乱歩君。こんな予定では無かったのだ。本当は快晴であれば周囲の街を一望できる素敵な場所であったのだ」

 頭を深く下げる。彼が文句を云いながらも此処まで付き合ってくれてこの終いだ。デートであれば次はきっと誘いを断れてこのまま音信不通になってしまっても可笑しくは無いだろう。
 そんなネガティブな考えが過っていく中であったが、乱歩君は犬の様に頭を左右に振っていく。

「…こんなに雨に濡れたのは実に何年振りだろうか。こういう刺激的な一日は、想像していなかったよ」

 びっくりだ!なんて彼は大きく声を上げる。

「なんで笑っているのである。我輩は乱歩君を無理やり連れてきてこんなに濡れさせてしまったのだ」
「なんで謝っているの。だって、僕は楽しいと云っているのだからそれでいいじゃない。君は何でもかんでも負に考えが行きすぎなんだよ」

 そしてこうも云った。

「笑って生きた方が楽しいよ」

 彼は笑って、そして世界の彩を明るく変えているのだ。あまりにも前向きすぎる考えで、我輩は彼の背中しか見えていなかったらしい。
 なんでだろう。今回の目的は乱歩君を楽しませてあげようとしていたのに、また我輩が救われてしまったではないか。

「乱歩君、ありがとう」
「感謝を云われるつもりも無い。僕は笑いたいから笑ったんだよ。君の面白い話も笑いたいから笑っただけ」

 ただ笑いたいから笑っただけさ。
 ならば、我輩が今乱歩君に向かって笑っているのは、笑いたいから笑っているのだろう。
 一度笑ってみると、彼はさらに笑い返してきてくれた。