朝早くに出社して、そして昼には休息として横浜の街並みを散歩。社員全員が退社したことを確認して夜遅くに探偵社を後にする。そうした一日を送っていた中で、規則正しい生活はきちんと守られており、多少の差異はあれども身体の体調はきちんと整えられていた。 自分でも自信があったのだが。 「……与謝野」 今現在福沢は社長室のソファで横になって大人しくしている。 鋼の身体を持っているのではないかと周囲から囁かれる福沢が今朝、熱を出して倒れてしまったのだ。朝起きてから体調に違和感を覚えながらも身体を社に入れる事には成功した。しかし、は云った途端に膝が崩れ落ちてしまったのだ。 「社長。恐らく今流行りの病です。今注射を打ったので少しすれば効果が現れると思いますよ。ただ、感染性がありますので、早めに帰宅なさるか安静にしていた方が一番回復も早いですよ」 医者の与謝野は福沢の異変に気付いた秘書から連絡を貰って直ぐに駆け付けたおかげで、それ程社内で大事にならずに済んだ。 それは福沢にとって不幸中の幸いと云えるだろう。今まで頑丈な身体を維持してきた身が突然倒れてしまったとなれば必要以上の心配を掛けてしまいかねないと考えたのだ。 「今日の仕事は取り敢えず休みにしてくれ…ごほっ、それから他の社員には余り大事にしないでくれると助かる」 「了解です」 与謝野も福沢の心中を直ぐに理解して必要以上の会話を要求せずにそっと姿をその場から去って行った。それを確認してから、一度重たい身体を何とか立たせて扉を施錠する。強引ではあるが、探偵社内で蔓延してしまっては此方も顔を上げられなくなってしまうので最小限に抑えておこうと、常に福沢は自分よりも社内の人間を心配していた。 大きく息を吐いて見るが、頭が働かない…そんな経験は覚えていない。なのでこの時どう対処したら良いのか判らないのだ。 少しの寝息を立てて回復を時間に任せている最中に、社員も福沢の不在に不思議に思う。勿論、出社している乱歩もだ。 「社長の顔を見に行ってくる」 「ああ、乱歩さん。今日は止めておいた方が良いと思うけどねェ」 与謝野は彼が社長室へと向かう足取りを必死に止めようと努力するが、彼女のとってはタイミングも悪く、大きく損傷した患者がやってきてしまったのだ。 「…とにかく、乱歩さんは社長室の扉を開けたら駄目だよ」 少しきつめに乱歩に注意を促すも、それに対する返事もせずに一歩一歩と乱歩は軽い足取りで歩みを進めていく。 「社長―?今日はまだ顔を見ていないんだけれど、室内に籠って一体何をしているの?折角美味しそうな菓子を一緒に食べようと思ったのに」 扉越しに先ずは声を掛ける。 その声ははっきりと室内にまで届き、眠っていた福沢も直ぐに目を覚ました。 「……社長?」 「乱歩。悪いが、今は相手をしていられない」 寝起きでもあり、擦れた声は彼の元に何とか届いて行った。 「えーなんで忙しいの?僕今暇だから付き合ってあげるよ」 如何してもこの場から引かないのか、乱歩は扉を数回叩く。 「乱歩には乱歩らしい仕事があるだろう」 「………」 叩いていた腕を下げて、乱歩はただ目の前の扉を細目にしてみていた。 乱歩は疑問に思っていたのだ。彼の異様なまでに顔を見せたがらない姿勢に、それから与謝野のあの対応。無意識のうちに乱歩は自身の見たものを掘り起こして『超推理』を使用していた。 「…社長は風邪を引いたからこうして部屋にでも閉じこもっているつもりなの?」 「――――!」 ソファから足が落ちてしまい、動揺してしまった音をうっかり立ててしまった。本来ならそんな言動でそこまで乱れる程精神が弱くは無い福沢であるが、矢張りこの風邪の状態は彼を弱体化させていた。 「何故知っている」 低い声が扉を超えて乱歩へと届けられる。 福沢は人を疑おうと思ったが、社員への信頼は固く強い。誰かが乱歩に公言したとは考え難く、だからこそ導かれるのは残りの回答。 ―――自力で名探偵がこの状況から判断したのだ。 「…社長がこうして閉じこもっているなら仕事で異常性よりも社長個人の非常事態であると考えたんだよ」 ガチャガチャッとドアノブが捻らない事を確認するように音を数回立てていく。 此処まで来て乱歩に嘘をつくつもりも無いので、福沢は無言を返した。それが両省と捉えて貰えたのか、乱歩はそれ以上推理を語りはしなかった。 だが、その状況を理解したところで彼の行動は変わらなかった。 「社長、お菓子食べようよ。僕も入れて一緒に食べよう。ああ、何か飲み物が一緒にあると助かるなぁ」 「…待て」 「え、何?」 「病人に対して安静にさせてやるという考えは無いのか」 此の場から離れていてくれ、それが福沢の願いであった。一日安静にして次の日にはきっと克服して元気な姿を皆の前に晒せるだろうと計画を立てていた。だが、乱歩はそれを許しはしないのだ。 「病気の時だからこそ誰かが一緒に居ないと辛いよ。なんだか距離を置かれてしまうと少し寂しくなって治る病気も治らなくなっちゃうよ」 僕も子供の頃、そうだったから。乱歩は過去の自分を思い返して福沢に語る。 それは福沢も思っていた。自分で鍵を掛けて誰もこの場に立ち入れない様な環境を作っておきながらも、それでも自分が一人になってしまった空間は厭に寒くて、寂しさを伴っていた。 「……誰かが傍にいて甘えるのも偶には良いと思うよ。僕もこういった時にしか甘えられないから、母上に良く強請ったりしていたよ」 お前は何時も変わらないだろう、と福沢は通常通りでも強請られる経験をしている身としてそこにツッコミを入れたくなってしまった。 「…だが、お前が傍にいれば時期に感染するだろう」 「別に構わないよ。そしたら今度は社長が隣に居てくれればいいんだから」 乱歩の決意は固いように、当初から顔を合わせたいと思う気持ちは揺るぐ事無く、反対に福沢の弱った気持ちの隙間に確かに乱歩の言葉が入って行った。 一歩一歩と福沢は扉の元へと近づいていく。一枚遮った先には互いの姿がある。それを、遂に福沢は鍵を開けて成し遂げる。 「…あははっ、すっかり汗をかいているじゃない。それならタオルで拭いてしまったらいいよ」 「ああ」 短い返事をして、乱歩にその後大人しく座って居ろと云われて再びソファへと歩んでいく。 ―――確かに、乱歩の顔を見たら寂しさは和らいだ。 「乱歩、お前は如何してそんなに頑なに俺の元に来ようとしていた」 「そんなの、菓子を食べたいからに決まっているじゃない。ああ、病人はコーヒーなんて呑まないのかな?」 乱歩は余り看病が得意では無いと云った。看病された経験はあれど、それを正しく同じように実行するなんて無理で、こうして乱歩が福沢を看病する羽目になるなど想像しても居なかったのだ。 「だから看病するのは無理だけれど、社長の傍には居られる。傍にいて寂しさを紛らわせて会話をする事は僕にでも出来るんだ」 「……乱歩」 「弱っている社長の姿を見たかっただけなんだけどね」 にひっ、と子供の悪戯笑顔が福沢の前に現れる。乱歩の照れ隠し。素直に心配で見舞いたいとは云えないので、こうして誤魔化す。 それは福沢にも判っていた。菓子を口実にしてこの場に居てくれているのだと。 それでも、確かに寂しさを紛らわせる効果があった。乱歩が部屋に入ってきて空気が変わったのだ。綺麗な空気が混じり始めて、辺りをうろついているウイルスを撃退しようと空気内で戦いが始まる。 乱歩は看病できないと云っていたが、そんな事は無い。福沢の顔色も急激に戻って平然とした表情になっていく。 ―――乱歩のおかげで、少し身体が楽になった。 気持ちの差異であれど、それは大きく影響していくのだと学んでいる福沢は、目の前で笑顔を見せている相手に一言述べる。 「乱歩、ありがとう」 「…ふふっ、矢張り社長も僕と会話をしたかったんじゃないか!この菓子を―――」 その後、探偵社内で病が流行してしまった話は、また別の機会にでも。 |