今のままで満足していればいいのだ。誰よりも近くの場所を手に入れて、それで彼を楽しませているのが自分だと誇ればそれで満足なのだ。 だけれど、人は汚くて欲深い。満足感はほんの一瞬だけで、それが満たされればさらに先を目指してしまう。まだいける、まだ上があると誤認してしまったりもする。まさに賭け事がそういう類だ。引き際を間違えれば満足不満足等の線で会話をするのが難しくなる。 今が幸せであればそれでいいじゃないか。 「……あ」 思わず声が漏れてしまった。 昼休憩として近くの弁当屋でおばちゃんと会話を交えながら購入して社へと戻ってきた。時刻は午後1時前。綺麗な女性陣はそれぞれお弁当を持参してそれを並べて会話をしている。 その中に乱歩さんも紛れていたのだ。先程買い出しに出かけた際には乱歩さんは仕事の関係で外に居ると認識していたので帰っていたのかと驚いて声が漏れてしまったのだ。 「あれ、乱歩さん。服のボタンが一つ取れ掛かっていますよ」 一人の若い女性が彼の服装の異変に気付く。なんて観察力だ。確かに乱歩さんが大きな手振りをして会話をするからその動きを追っていれば自然と目に入ってくるのかもしれないが、それでも矢張り女性は凄い。 私は少し離れたところで一度腰を下ろして彼らの会話に耳を傾けていた。乱歩さんの声はよく通るのだ。他愛ない小さな話も全てはっきりと訊きとれる。 「さっき事件があった場所が少し生い茂っていてね。それで犯人と揉めたりもしてきっと引っ掛かったんだろうね」 「え、大丈夫だったんですか?」 乱歩さんが偉く簡潔に今朝の事件内容を話したものだから女性達が心配をしてしまっている。場所の話をしていた次の瞬間に犯人と揉めたなんて物騒な話題を折り込まれてしまえば気になってしまうものだ。 彼の中では勿論既に過去の出来事で見聞きしたわけでもなく自身が体験した話だから見事に簡潔でも完結した内容なのだ。 相変わらず乱歩さんは伝え下手なのだから。 女性達の反応に不思議だと疑問を持つ乱歩さんをちらりと見て、にやけ面を抑える為にまた目を逸らした。 そこからは乱歩さんと彼女らのすれ違った会話が繰り広げられていくので、仕方がない。漸く腰を上げて私が仲介役として担ってあげる。 「乱歩さんは今こうしてボタン一つの負傷で無事なのだから大事には至らないということ、ですよね?」 「ああ、太宰。まあ犯人が暴れてこちらに殺意の矛先を向けてくるということまで想定していたからそのうえで僕がその先の対処を考えていたんだよ」 私が乱歩さんに伝わる様に質問をして、今日の内容を詳しく話してもらう。事のあらましを話してもらったことで漸く第三者にも当時の状況が伝わってきた。 ふふっ、と一人の女性が笑う。手で口を隠して笑いを堪えている。その理由は「太宰さんは乱歩さんの通訳ですね」ということらしい。 「まあ太宰は僕のことを理解してくれているから安心できる!」 「なんだかんだと付き合いも長くなってきましたからね」 「でも、段々と遠慮が無くなってきているのはどうかと思うよ」 「壁を作っていないんですよ」 「都合の良い解釈をするなっ!」 乱歩さんが少しお怒りになってしまったが、その光景を傍で見ていた彼女らは微笑ましいと云う。傍からそんな風に見えているみたいですよ、乱歩さん。 「僕は太宰より何年もこの社に努めているんだよ。先輩なんだから!」 「判っていますよ、センパイ」 「誠意が籠っていない!」 「んん、まあ善処しますよ」 「便利な言葉だな」 こんな速い言葉の掛け合いももう今では通常だ。最初は乱歩さんの存在が不思議過ぎて距離感を図れずにいて困ったりもしていたが、今ではそれもすっかり把握している。 「それじゃあ私たちはまた仕事に戻りますね」 この掛け合いの最中に弁当を空にしていたらしく、そそくさと席を立ってまた再び仕事へと切り替えてこの場からいなくなってしまった。 未だ弁当に手を付けていない私は乱歩さんと共に食事をすることになる。彼は食事をする気分では無いということで何も用意していないが、私の持つ食事を見て勝手にから揚げを一つ取られてしまった。 遠慮が無いのは乱歩さんも同じだ。後輩にならもっと気遣いでも見せてくれ、なんて先程の言葉に返してやりたい気持ちもあるが、それでも遠慮の無い間柄にまで発展したのだと思うと純粋に嬉しかった。彼もまた私を理解してくれたのだろう。 今はこれ以上ない程に近い関係性なのだ。 けれど、別に簡潔に二人の間柄を例えるならば親友なのだ。 愛情を持ち合っている部分にまで進んではいない。 だから、まだ先はあるのだ。 「…………」 少しの沈黙が出来ると、乱歩さんは視線を送ってくる。強い視線を突き付けてきて、乱歩さんから熱く見られているのではないかと錯覚してしまう。私をもっと、熱情的に捉えてくれているのではないかと意識してしまっている。そんなことは無いだろうが。 平静を保とうと努力していると、突然乱歩さんから手首を握られる。両手首を、だ。 これでは箸を持っているが、それを上手く料理へと運ぶのは難しくなってしまった。 「さっきは、有難う」 「はい?」 「まぁ、太宰が割り込んできてくれたから彼女達も和やかになってくれたんだよね。僕が一人で話していても理解していない顔を見せられたから」 「私は乱歩さんの通訳係ですからね」 「うん、有難う」 あらら。なんだかこの人が二度もこんな短時間に感謝の言葉を述べるなんて珍しい。鋭い言葉の交戦をしていたとは思えない。 そんなに頬を染めて感謝されたら期待してしまうじゃないか。望んでしまう。もっと先の幸せを手に入れてしまいたいと欲が出る。 「……でも、実際は迷惑だと思っているんじゃないか?」 その言葉に私はなんと返せばよいか悩んでしまった。 あんなに言葉を投げてはいたが、そんな雰囲気が居心地のいいものとなっているのだと伝えておかなければならないか。容易に「違う」と拒否するのは出来るが、それでは意味がない。むしろ好きだから貴方に近づいているのだと、云ってしまって構わないのだろうか。 「迷惑だなんて思っていないですよ」 考えた結果、在り来たりな科白が出来上がっていた。 「ふうん、太宰は僕のことが好きだからそうかもしれないねぇ」 心臓が大きく跳ねた。跳ねて跳ねて、彼の悪戯な笑みを見て落ち着く。彼は茶化しただけで、私の本心には気づいていない。何を期待しているんだ全く。 それでも、気持ちを茶化された気になって、こちらもまた彼を弄ってみたくなった。 「そうですね。私は乱歩さんが大好きですから」 「……え」 にこりと、笑顔に誤魔化して悪魔が乱歩さんを揺すっていく。 そしたら、乱歩さんがすっかり固まってしまった。目を見開いたまま固まってしまって、ああ……その表情も素敵だな、なんて場違いな事を考えてしまった。 「……辞めてよ、冗談は」 顔を下げて少しだけ彼は私から数歩後ろに下げて距離を取った。 「冗談じゃないですよ。本気で私は貴方が好きですから。乱歩さんは如何ですか?」 「太宰を嫌いじゃないよ。本当に、仕事も要領よくて僕の世話係として充分だよ」 ほら、駄目だ。 彼は―――乱歩さんは、一線を引いてしまった。 今の状態で充分なんですか。 満足ですか。 幸せですか。 乱歩さんはそのまま私から離れて別の仕事へと向かってしまった。逃げられてしまった。何時も此方が本気を出してみようとすると、こうして曖昧な回答をして逃げる。そうして、安定しないで現状のぬるま湯にひっそりと浸かって満足している。 「………難しいな、欲が深すぎて」 乱歩さん、一緒に幸せになりましょうよ。きっと、二人一緒にいたらもっと幸せですよ。 |