なんて不毛な、それでも恋 | ナノ


 泣いて、泣いて、それでも泣いたところで零れ落ちるのは水滴だけで。それ以外は結局心の中に残っているままなのだから。泣いたところでそれは意味があるのか正直分からない。それでも人は泣きたいと泣く。そして泣きつかれた彼が次に溜息をつく様を見てはいつも背中をトントンと叩いてあげるのが私の役目であった。
 一つ叩いて、また溜息。
 今度は頭を叩いて、涙を拭う。
 そうして私はまた泣いている彼の傍にいつも寄り添っていた。











「乱歩さんはよく頑張りました。頑張りましたね」

 乱歩さんは今日、失恋した。長年募らせていた恋に終止符を打った。
 そう告げてきたのは今から約三十分余り前のことだ。
 今日は仕事も早々に片付いて帰宅した直後。彼は私の後をつけてきたのかと疑いたくなる程に玄関へ入った途端に呼び鈴が鳴る。その僅かな時間の出来事に警戒心を持ちながらも扉を開けたら、まさにこの状態の乱歩さんが訪ねてきたのであった。否、まだ涙は堪えていたか。

「頑張る?僕は頑張れていたのだろうか。想いを告げることも出来ずにただ隣に居ては独りで舞い上がっていた僕は何を一体頑張れていたと言うんだい」
「そう自分を卑下してはいけませんよ。確かに想いこそ告げることは叶わなかったかもしれませんが、それでもその想いを無下にせずいたじゃあありませんか」

 彼を励ます為の言葉をかけると、また彼の目には涙が溜まる。











 乱歩さんは社長に、失恋した。とはいえ、想いを告げることはしておらず、独身を貫いていた彼にもようやく遅咲きの春が舞い込んできたということだ。
 乱歩さんの心情を知っていたのは事務所内で私だけである。彼が一人で悩み、葛藤している横に寄り添って彼の支え役を務めていた。もちろんこれは仕事ではない。ボランティア活動だ。乱歩さんに頼まれたわけでも無い。それでも乱歩さんは私の前では吐き出す様に涙を流す心の在り処となっていたのは自惚れではないだろう。

「…ごめん」
「もう少し落ち着いたら乱歩さんの好きな甘味処にでも行きましょうか。ああ、しかし少し目が腫れてしまいそうだからあまり外出はしない方がいいかもしれませんね」
「…ここでのんびりする」

 乱歩は小さく呟くと、それに私も了承の言葉を返した。
「了解です」

 そして一旦私は乱歩さんの傍から離れて何か甘い物があるかと引き出しを探る。
 今の乱歩さんが何を食してくれるのか分からないが、手当たり次第に彼の前に差し出してみるとしよう。

「乱歩さん、暖かい飲み物と冷たい飲み物、どちらがお好みですか」
「…要らない」

 全く。仕方がないので簡単に用意出来る冷を選ぶことにしよう。
 普段漂々として天真爛漫な彼から如何してこの姿が予期できようか。それはきっと私にしか想像出来ないことだろう。
 あの社長すらも彼がこうして泣きじゃくる様を見たことが在るだろうか。君を思うて泣いているとは思うまい。まあ、そこで理解出来ていればこのようなことにはならないか。
 詰まる所、私は今優越感に浸っているのだ。
 社長への対抗心から生まれた感情。それこそ誰も知らぬ私の裏の姿だ。乱歩さんも知りはしない感情。場違いにもにやけ面を隠すように部屋の脇の壁掛け時計に目をやると、時刻は間もなく九時を迎えようとしていた。

「はい、乱歩さん」

 そして目の前にコップと部屋にあるだけの菓子折りを差し出した。まだ未開封の菓子折りに一体何が入っているのか私にも検討出来ないでいたが、何時か乱歩さんと共に食べれればいいと取っておいたものだ。

「ありがとう、太宰」

 乱歩さんはぼろぼろになりながらも笑って云った。言葉は彼を変えたといのか、沢山の涙を流して腹の空腹に気付いたらしく、勢いよく菓子を取り出しては、どんな物でも口に含んでいきそうな口を開いた。
 その彼を見て少しだけ残酷だと感じてしまった。











 乱歩さんはすっかり機嫌を取り戻したらしく、何でも無い他愛無い話をするようになった。多少は社長の悪口も含まれていたが、それでも事務所の話よりも自分の様々な事件解決の自慢話をあれやこれやと巧みな話術を使用した。
 見ていて痛々しくも感じるが、きっと彼にはその同情を必要とはされていないのだろう。手を伸ばしてしまいたいという想いを私も押し殺す。

―――いつもそうだ。

 彼が失恋する前から何度か彼がここを訪れては泣いて、会話をしてまた彼は帰っていく。心配だと彼を送ろうかと促してみるも華麗にその言葉からすり抜けて一人で夜道を歩いていく。下手したら酔っ払いのように足取りが悪い時だってあるのにだ。
 それでも何かある度に私の元へと訪ねてきてしまう彼は私を如何考えているのだろうか。
 彼の中の私は一体どこに分類されているものだろう。気にはなるが、結局彼と同じ道をたどってしまう私は共に菓子を食べて茶を口に含み、笑うことしか出来ないでいる。

「ああ、何だかかなり会話をしたら色々とすっきりしたもんだね。太宰には感謝したいことばかりだよ」
「いえいえ、乱歩さんが頼ってくれるというのは非常に名誉なことだと思いますからね」

 そう云えば、まあね、と腰に片手を付けて胸を張る。すっかり彼は自身を取り戻したようだ。
 よかった、よかった。
 私にはそれでも不穏でしかない。ぼんやりとまた時計を見てみると、あれからすっかり小一時間は経っていたらしい。

「それでは失礼するとしようかな。今日はもうすっかり夜更けてしまったみたいだしね。あー、明日は何か予定でも組み込まれていたかなあ」

 ぶつぶつと、明日のことを考え始めた乱歩さんはゆっくりと玄関口に歩いて行こうとする。
 そんなに腫れた目をして、明日また仕事に行くつもりなんですか。そのまま云って、貴方はそれで満足したのですか。泣いてスッキリしたのですか。
 ようやっと乱歩の心が晴れたというのに、私が彼を引き止めるための手立ては姑息な物ばかりであった。しかし悪戯に口に出来るものでは無い。口出してしまえばきっとこの関係すら危うくなってしまう。
「ああ、そうか」

「ん?何か言ったかい?」

 太宰は彼の背中を押すように、扉を開けてあげる。伸ばした手は乱歩に触れることも無く、彼を見送るための機能だけを果たす。

――ああ、そうか。こうして乱歩さんも告げることも出来ずに違えてしまったというのか。

 私では無い人に恋をして、粉々になりかけてもなお好きで居続けて、幸せを掴むことが出来ない彼は、今まさに私の移し鏡その者であった。
 そんな彼に恋をしてしまった私は。
 彼と違う道を辿ることが出来るのだろうか。
 ぱたり、とドアが閉まる音と共に、目からは涙が零れた。
 その涙は、確かに私のものであった。