06.倦怠のうちに死を夢む


一目ぼれというのだろうか。

月が半分下を向いている美しい夜だった。
会合の席に疲れ、酔いを覚ますために廊下へ出た。

………彼も同じだったのだろう。


美しい人だと思った。

少し癖のある黒髪、
同じ色をした強い瞳、
かすかに帯びたお酒の香り。

一目ぼれだった。


ほんの一瞬、目が合う。

互いに言葉も交わさないまま、席へ戻った。



それから数日後、町へ出たとき攘夷浪士などとほざく輩に絡まれた。

そのとき、彼が助けてくれた。
彼は私の事を覚えていたのだという。
私も彼を覚えていた。

そしてその時気付いたんだ。

彼が、新撰組三番組組長・斉藤一だということを。

羽織こそ着てはいなかったが、
あの左利きの抜刀術は一度だけ見たことがある。
確かに、斉藤一のものだ。

そして、彼は気づいていない。
私が、刀も交えたことがある、長州の人間だということを。

知られていたら、きっと一刺しで殺されるか拷問の日々だっただろう。

しかし、彼は気づかなかった。

助けてもらったお礼にと、近くの茶屋へ誘った。

彼は寡黙だったが、あったかくて優しい人だった。


甘味を食べ終えたころ、彼は少し困ったように切り出した。

「名前を…名前を教えてはくれないか?……少々呼びづらい…」

初めて見たその笑顔に、ふと告げたのは本当の名だった。
仲間の浪士にもほとんど名乗ったことのない本当の名。


「美しい名だな」
彼はまた笑って、そう言った。

この名前を知っているのは、
あの人、と……あなただけ。

別れ際に、彼は「また」といって去って行った。


それから幾度も、彼は羽織を脱ぎ、私は愛刀を置いて逢瀬を続けた。

一目ぼれだった。
自分でもわからなくなるくらい好いていた。

だから、気付かなかったんだ。
彼が京都守護職につく新撰組の組長であることの意味を。


出会って、数か月がたった頃。
おいしいと噂の茶屋へ足を運んだ。

その頃には、互いを名前で呼び合うような仲だった。
女にしては少々口の悪い私を、彼は素のままでいいと言ってくれた。

その日も、何回目かの「また」が繋いだ逢瀬だった。

……いつものように、普通にただ話しているだけだった。


「おっ?斉藤じゃねぇか」

いきなり、窓に背を向けて座っていた彼の背後から声が降りかかる。

「左之助?新八?……どうしてここに…」
「はぁ?巡察だよ。そっちは……あっ、女連れか」

あの浅黄色の羽織を着た2人組。
知ってる。片方は刀も交えたことがある。
新撰組の原田左之助と永倉新八だ。

あの時の暗闇で、顔を覚えられていないことを祈る。

バレるな…バレるなっ……


「ん?その女、どっかで……」

思案するようにあごに手を当てる左之助。

「やめろよ、左之。斉藤の女だぞ」
「ちょっ…それは彼女に失礼だ…」
「いや、でもどっかで………」
「ってか、随分と別嬪な嬢ちゃんだな。斉藤、どこで知り合ったんだ?」
「2本先の通りで…「っっっ!!!!おい、斉藤」

楽しげに話していた雰囲気を断ち切る左之助の低い声。

「そいつ……」

「……(バレたっっ…!!)」


直感で危ないと体が判断する。
素早く立ち上がり、出口を一直線に目指す。

「そいつ・・・・・・・長州の女剣士だっ!!!!」

その言葉を聞くか否か、彼らと逆の通りを駆けだす。
一の叫ぶ声を背中に受けて、何かがこみ上げる。

ひたすらに走った。
息も上がる。

視界がにじみ、思考が止まりかけたころ
ふいに腕をつかまれ、路地裏へ引かれた。


「っっ!!!」

後ろは壁、

前には一。

強く引かれた右手は壁に縫い付けられ、はさまれた。

どちらも、ふさがったのは刀を抜く腕だった。



「なんで……」
今までに聞いたどの声よりも弱かった。

「こっちが聞きたいよ……」

「敵、だったんだな」
顔を上げない一の表情は何も見えない。

「そうよ。私は長州の人間。あなたの敵。
 だから…………もう、会えない」

ねぇ、顔を上げて。
最後でしょ?いつもみたいに少しだけ笑った顔を見せて。

つかんだ右手が大きく引かれ、そのまま彼に抱き寄せられる。
細いのに逞しい両の腕がきつく私を縛る。



「……俺と、一緒に来ないか?」

絞り出された声は泣きそうなほど震えていた。
返す私の声もひどく震えていた。

「…ごめん……私…あの人を捨てられないっ・・・・・・・」

一の着物にちいさくしずくが落ちる。


「…っそれでも…すべて終わったら、迎えに行く。
 それまで……生きて、待っていてはくれないか…?……」

強まった腕の力に反して、彼の着物をつかむ力が弱まる。

「だめよ…ダメ……。
 もう、終わりにしなきゃ…。さよならしなきゃ、………」


彼が耳元で小さく私の名をつぶやいた。

「必ず…必ず迎えに行く」

「無理よっっ!!!!!」


力づくで彼を押し返す。
反動で私と彼の体が離れた。

視界がにじむ。
彼の顔がよく見えない。

「私とあなたは敵よ!私は長州藩士よ!
 この戦いに、どちらかが生きて、なんてないっ!
 ダメだわ…。こんなこと……だめ…。
 あの人の事も、あなたの事も裏切れない…。
 終わりにしなきゃだめなの。

 …お願い。……もう名前でなんて呼ばないで。 
もう終わりよ、斎藤一。……さようなら」

また、人であふれる路地の中をひたすらに走る。

叫んだ一の声なんて、聞こえない……。




1864年 6月  京都伏見・池田屋

視界いっぱい、五月蝿い。
両足が言うことを聞かない。
額も割れたのか、血で視界がにじむ。
刺された腹からは血があふれて止まらない。

完全にしくじった。

刀の交わる音が響く中、逃げ遅れ、刀も握れない私は
その惨状を見つめるしかなかった。

いっそのこと腹でも切ろうかと思っても
手の届く範囲に刃物はない。


落ちかけた意識の中で、かすかに私の名を叫ぶ声が聞こえた。

この世にたった2人しか知らない本当の名を。

「たか、す…ぃ…さ、ん……?」

女である私でも藩の一員として、使ってくれた恩人の名。

でも今彼は長州にいる。

ここにいるはずがない。


鮮やかな浅黄が、視界の端で霞んだ。



「死ぬなっ!」

叫んだのは、もう会わないと心に誓った彼。


「頼む、死ぬな…」

さみしげに私の名前を再度つぶやく。




私は精一杯、左手を伸ばす。
初めて触れた彼の頬はひどくあったかかった。


ねぇ、そんな泣きそうな顔しないで。

私は、

「あの人のために、あなたの目の前で死ねるなら
 これ以上の幸せはないわ」





倦怠のうちに死を夢む
(最期に名前でなんて呼ばないで)






あなたは新撰組の組長
私は長州の藩士


一への気持ちなどとうに殺せたと思っていた。

だから、こんなところで名前なんて呼ばないで。

鈍い痛みと共に、あなたが薄くなって消えていく。


刀を握らない右手、

ゆるく揺れる眸


そんな風に抱きしめないで

そんなさみしい声で呼ばないで


あなたを好きな私を忘れられないじゃない


どうかあなたのその刃で私の息の根を止めて