世の中の平凡な生活をしている、大抵の人間が寝静まる夜。
ゆず乃は、寝苦しさでベットで寝返りをうった。
「…ん〜…」
何故だろう?
妙に心がざわつく。
悪寒? いや…これは…何だろう。
ゆず乃は、このままでは眠れないと判断し起き上がる。
外の空気でも吸って、気分を晴らそうと窓を開けた。
開けた瞬間。
体に衝撃を受けゆず乃はベットの上に突き飛ばされた。
「きゃあ…っ!」
ベットに倒れこんだゆず乃は、自分の身に何が起こったのか分からない。
条件反射で、勢い良く起き上がると部屋を見渡した。
すると、有り得ないことに部屋に誰かいるではないか。
ゆず乃は、驚愕して声も出せないまま不法侵入者を凝視した。
その不法侵入者は男。
背が高く、目つきが悪い。
体は血だらけで、しまいには胸に穴が開いている。
気づくとゆず乃の体は小刻みに震えていた。
「くそっ…!」
そう言って立ち上がる男。
ゆず乃には目もくれない。
愕然と男から目が離せないゆず乃は、どうか自分の存在をこのまま無視して部屋から出て行って欲しいと願った。
しかし、そんな願いも虚しく男はゆず乃を見る。
そして訝しげに眉間に皺を寄せると、徐々に顔を険しくさせていく。
明らかに自分の身に危険が迫っていると察したゆず乃。
震える体に叱咤し、壁際に後ずさった。
「お前…俺が見えるのか?」
「………っ」
ゆず乃は、何と答えるのが1番安全か思考する。
どう考えても、見えないフリをするのが1番だ。
しかし、目が合ってしまっている今、それは明らかに不可能だ。
では、どうすれば良いのか。
そんなことを目まぐるしく考えている間、男は痺れを切らしゆず乃へ近づく。
それに気づいたゆず乃の思考は停止してしまった。
ただ、恐怖に怯えながら男を見つめるしかなかった。
「おい、見えてやがるんだな? 何とか言え」
「………」
ゆず乃は、声が出ない。
出たとしても何を言えば良いか分からなかっただろう。
男はイラついたように舌打ちをすると、ゆず乃の腕を掴んだ。
「…っ!」
ゆず乃は、殺されると思い目に涙が浮かぶ。
しかし男は、更に訝しげな顔をした。
ゆず乃の顔をチラリと見ると、腕に視線を戻す。
「おい…お前は一体、何だ? 何で触れるんだよ?」
凄みを利かせた声に、ゆず乃は気が遠くなるのを感じた。
体が倒れていく中、男の舌打ちが聞こえたような気がした。
ふっと目を開けたゆず乃は、ぼんやりした意識の中起き上がる。
少しの間、まだ覚めぬ眠りと現実の狭間で彷徨った。
徐々に頭が覚醒していく。
すると、眠りにつく前の出来事が思い出される。
怖い夢だった…。
リアルで、殺されるかと思った。
でも、夢で本当に良かった…。
ゆず乃は、ホッと安堵の息を吐くとベットから起き上がろうと体の向きを変え床に足を下ろした。
そして、動きを止める。
「やっと起きたか」
鋭い目つきでゆず乃を見る男は、紛れもなく夢に出てきた男。
ゆず乃の思考は、再び停止した。
男はそんなゆず乃を見て、不敵に笑うとあぐらをかいて座っていた床から立ち上がる。
ゆず乃は、男の動作に合わせながら視線を上げた。
「お前の正体次第では、一緒に来てもらう」
どこに?
ゆず乃は心の中で呟く。
それよりも、正体とは何のことだろう。
自分はいたって普通の人間で。
むしろ、正体を知りたいのはこっちの方だ。
ゆず乃は、恐る恐る口を開いた。
「…あなた…こそ、何…? に、人間…?」
「あぁ!?」
男の凄みに、ゆず乃はビクリと体を震わし目を瞑る。
しかし、男の姿と行動を見ていないと何をされるか心配で、すぐに目を開けた。
その目に映ったのは、先程までの鋭い目をした男ではなく。
どこか呆れた表情で、あぐらに肘をつき顔を片手で支えている男の姿だった。
ゆず乃は、様子の変化に戸惑いつつも少し緊張が和らぐのを感じた。
「その様子だと、一般人だな」
溜め息を吐きながら言い捨てる男。
ゆず乃は、状況が呑み込めず男をただじっと見た。
男は疲れたように立ち上がると、窓に向かって歩き出した。
ゆず乃はハッとして声を上げる。
「待って!」
ゆず乃の言葉に、男は無表情で振り返った。
ゆず乃は、何故引き止めるような馬鹿なことをしてしまったのか自分でも分からず、両手で口を押さえる。
「…何だ」
男が冷静に聞き返してきたのを見て、ゆず乃は勇気を出して自分の疑問を口にした。
声は少し震えている。
「あなたは…誰? 何で…ここに…」
「はっ、俺が何者か聞いてんのか? 言っても分からねぇよ。まぁ…死んでるのは確かだな」
男は不敵に笑った。
ゆず乃は、男の言葉を頭の中で繰り返す。
信じられないことばかりで、頭がついていかない。
ゆず乃が呆然とする中、男はもう1つの質問に答えた。
「昨日は、戦ってる時にたまたまここに吹っ飛んだだけだ。もう来ることはねぇよ」
そう、無表情に言う男を見てゆず乃は眉を潜める。
戦って吹っ飛んで来た…?
ここは2階なのに?
いや、むしろ何と戦ったのだろう。
今は乾いているが、気絶する前までは血が流れていた。
死んでいるのに、血が流れる…?
…分からない…。
ゆず乃が悩んでいる姿を、男は興味なさ気に横目で見ながら窓に足をかける。
そして、そのまま空へと消えていった。
「…あっ…!」
気づくと消えていた男を捜し、ゆず乃は慌てて窓へ駆け寄ると顔を出す。
しかし、そこには誰もいなかった。
夜が明け、朝日が差し込みゆず乃を照らす。
まるで夢のような出来事に、ゆず乃はそのまま呆然と朝日を浴びていた。
それからは、夜になる度ゆず乃は男を思い出した。
日が経たない内は、また来るのではないかと恐怖に怯えていたが、時間が経つと共に恐怖は薄れていく。
男の、もう来ないという言葉もあったが、まだ現実の出来事とは思えなかった。
そして、寝る前には窓を開け外を確認するのが日課になりつつあった。
「今日も…いない…よね。やっぱり」
ゆず乃は、外を見回すと溜め息を吐いた。
そして、これではまるで待っているようだと苦笑する。
今まで平凡に生きてきたゆず乃にとって、男が現れた日の出来事は強烈で。
忘れることが出来ない。
そして、殺されないのならもう1度会ってみたいとも思うようになっていた。
「…でも、やっぱり危険よね」
そう思いなおして、ゆず乃は窓を閉める。
が、窓は逆に勢い良く開けられた。
ゆず乃は驚き、目を見開く。
目の前にいたのは、つい今さっきまで考えていた男だった。
「よお」
不敵に笑う男を凝視しながら、ゆず乃は目眩を覚える。
もう1度会ってみたいとは、確かに思っていた。
だけど、そんな大胆なことを考えられたのは、まさかそんなことがある訳がないと思っていたからで。
本当に来るならば、そんなことは思わなかった。と、ゆず乃は後悔した。
「な…んで…」
「…暇なんだよ、こっちは」
男は気まずそうに目を逸らしながら答えた。
その姿に受けた印象は、見かけとは随分と違った。
ゆず乃にとって、どこか好感を持てる態度だった。
男はゆず乃の許可もなくベットに座る。
そして両腕を頭の後ろに組み、寝転がった。
「あ…あの…?」
「あぁ、俺はグリムジョーだ。テメーは何てんだ?」
目を瞑りながらグリムジョーは聞く。
ゆず乃は、聞いてもいない名前を勝手に言われ、更に自分の名前まで聞かれたことに呆然とするしかなかった。
この死んでいる存在は、何故ここにいるのか。
何故、自分のベットで寝ているのか。
理解に苦しみながらも、質問に答える。
「…ゆず乃…」
「………」
聞いておきながら、何も言わないこの男。
グリムジョーという男を前に、自分はどうしたら良いのだろうと悩みながらも、ゆず乃はベットの近くの床に腰を降ろした。
しかし、話してみると意外と優しいところもある人だということが分かった。
静かに、ぽつりぽつりと大したことでもないことを話すグリムジョー。
ゆず乃もまた、ぽつりぽつりと返事をする。
そうしている内に、グリムジョーに対する恐怖心は無くなっていった。
しかも、グリムジョーは頻繁にゆず乃の部屋に訪れるようになった。
決まって夜に現れる。
大した会話をする訳でもない。
楽しく笑い合う訳でも、ほのぼのする訳でもない。
ただ、一緒にいる。その言葉が正しいだろう。
しかしゆず乃は、その時間が嫌いではなかった。
時々、薄く笑うグリムジョー。
その表情に、胸が熱くなる。
グリムジョーが帰る前に、ゆず乃の頭に一瞬だけ大きな手を乗せる儀式はいつもどこかで望んでいる。
そうして過ごす内に、ゆず乃は次第に夜になると窓を開けて待つようになる。
後は寝るだけだというのに、わざわざ服を着替える。
しまいには薄く化粧までしていた。
そして、その日もゆず乃は薄く化粧を施した顔を鏡で見ながら溜め息を吐く。
「私…死んでる人相手に、何してるんだろ…」
まだ訪れないグリムジョーが入って来るだろう窓を見つめ、ゆず乃は少し胸が痛んだのを感じた。
窓から冷たい風が入って来て、ゆず乃の髪が揺れる。
気配に気づき振り向くと、グリムジョーがいつものように立っていた。
「ねぇ…グリムジョー」
「…何だ」
ゆず乃のベットに寝転びながら、グリムジョーは答える。
ゆず乃は、床に座りベットに顎を乗せグリムジョーを見つめていた。
「私が死んだら、グリムジョーと同じ所へ行ける?」
「………」
ゆず乃は、目を輝かせながらグリムジョーの返事を待つ。
そんなゆず乃をグリムジョーは横目で一瞬見るが、そのまま目を瞑って何も答えなかった。
どうしても知りたいゆず乃は、グリムジョーを揺さぶる。
「ねぇってば! どうして教えてくれないの? 私が死んだら迎えに来てくれる?」
どこか険しい顔をしているグリムジョーに、ゆず乃は不安を覚えた。
もしかすると、自分は見当違いのことを言っているのかもしれない。
だが、グリムジョーと『同じ』になるには今のままでは無理だ。
だとすると、死んだ後しかない。
なのにグリムジョーの態度を見ると、それすら無理なことのように思える。
では…自分の気持ちはどうなるのか。
ゆず乃は胸が痛む。
最近は、グリムジョーのことを考えると胸が痛くなることが多くなった。
何故かは分からない。
ただ漠然と、この時間は長くは続かないと分かっていた。
「グリムジョーは…いつまで、ここに来る?」
「……忙しくなるまでだ」
「いつ忙しくなるの? また来れるようになる?」
ゆず乃が立て続けに質問すると、グリムジョーは舌打ちをする。
そしてイラついたように起き上がると、床に座っていたゆず乃の腕を掴み引き上げる。
「きゃっ…」
「うるせぇな」
グリムジョーは、そのままゆず乃をベットの上に座らせると呆れた表情で溜め息を吐いた。
ゆず乃は、そんなグリムジョーを睨む。
怯えるだけだった最初の頃では考えられないことだ。
「変わった女だな、お前は」
そう言いながらグリムジョーは苦笑した。
その言葉に優しさが感じられたゆず乃は、また胸の痛みを感じる。
そして、無性に悲しくなり涙が溢れてくる。
ゆず乃は慌てて止めようとしたが、止めることは出来なかった。
「おい、何泣いてんだテメーは」
「わ、私…傍にいたい…っ! グリムジョーと一緒にいたい…っ」
ゆず乃は、顔を両手で多い止まらない涙を隠す。
ようやく言えた本音だった。
グリムジョーは、何も言わず。何もせず、黙って座っているだけだ。
部屋にはゆず乃の泣き声だけが響いていた。
しばらくして、グリムジョーは静かに立ち上がる。
そして、いつものように優しくゆず乃の頭に手を乗せると窓に向かって歩き出す。
外へ出る前に、1度ゆず乃を振り返る。
泣きつかれて眠っているゆず乃を見て、顔に陰を落とした。
朝になりゆず乃が目を覚ますと、ゆず乃はちゃんとベットの中に入っていた。
いつの間に寝てしまったのだろうと。
あんなことを言って、もう来てくれないかもしれないとゆず乃は深く溜め息を吐いた。
その予想の通り、それからグリムジョーは姿を現さなかった。
1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎていく。
ゆず乃が、もう本当に会えないかもしれないと諦めようとしていた時。
グリムジョーはゆず乃の部屋に訪れた。
「グリムジョー! どうしたの、それ!?」
久しぶりに会えたという喜びもつかの間、ゆず乃の視線はグリムジョーの腕に注がれる。
前に会った時にはしっかりあった腕が、なくなっていた。
ショックでゆず乃は口元を手で覆う。
グリムジョーは、いつもとは違い険しい顔でゆず乃を見据えていた。
「いろいろあってな」
「いろいろ…」
グリムジョーが住む世界は、一体どんな世界なのだろう。
こんな怪我を頻繁に負うような世界なのだろうか。
ゆず乃は、自分の知らない場所でグリムジョーが何をしているのかは、1度も聞いたことはなかった。
聞いてはいけないと本能で察していたし、グリムジョーもまた何も話さなかった。
そして、自分はグリムジョーのことをどれだけしっているのだろうとゆず乃は眉を潜める。
「で、もうここへは来ない」
突然の言葉に、ゆず乃は勢い良くグリムジョーを見上げる。
ゆず乃の目に映ったグリムジョーの目は、本気だった。
きっと、本当にもう会えないのだとゆず乃は察する。
だけど、会いに来てくれた。
別れを伝えに。
グリムジョーは最後に会いに来てくれたのだ。
それが、全てだと思った。
「…じゃあ…」
私が死んだら、迎えに来てくれる? と言って、ゆず乃は笑った。
グリムジョーは一瞬だけ目を見開いたが、すぐいつものように不敵に笑った。
そして、何も答えないまま見つめ合う。
ゆず乃は、少しでも多くグリムジョーを見ていたくて。
最後だから、と心に決めて微笑みながら見つめた。
すると、グリムジョーが先に口を開く。
「記憶を、消してやろうか?」
その言葉にゆず乃は驚き目を見開く。
一瞬の迷いが頭を掠める。
それがグリムジョーの優しさだと分かったからだ。
グリムジョー自身、ゆず乃の記憶が消えている方が辛くないと思っているのかもしれない。
ゆず乃も、忘れる方が心を痛めなくて済む。
それは分かっているのだが、ゆず乃は忘れる方を選ぶことは出来なかった。
「私は、あなたを忘れない」
「…はっ、上等だ」
いつものグリムジョーに戻ったことに安堵すると、我慢していた涙が溢れてくる。
ゆず乃は、その涙を拭うことをせず微笑み続けた。
グリムジョーと過ごした短い時間は、ゆず乃に大きな影響を与えた。
そして、心から感謝している。
グリムジョーという存在と出会えたことに。
「じゃあな、ゆず乃」
「…グリムジョー…っ」
ゆず乃の微笑が崩れ、悲しみに歪む。
グリムジョーは、そんなゆず乃の頭にいつものように、その大きな手を乗せた。
そして、不敵に笑うとゆず乃の耳元で小さく言葉を紡ぐ。
ゆず乃は目を見開き、グリムジョーを見上げる。
そして、グリムジョーは窓から出て行った。
「迎えに来てやるよ。なるべくババアになる前に来いよ」
その言葉は本当か、それとも優しい嘘なのかは分からない。
だけど、ゆず乃にはどちらでも良かった。
その言葉を言ってくれたグリムジョーの気持ちが全てだから。
「好きだよ…」
ゆず乃の言葉は、夜の冷たい風の中に静かに溶け込んでいった―――。