「姫ちゃん」
「気色悪ィ呼び方すんな」
「姫川」
「あん?呼び捨ても駄目だ」
「じゃあ、お姫様」
「殴るぞ」


 放課後の教室。向かい合わせた机の向こう側に座るナナは「姫川くんはわがままだ」と頬を膨らませた。そんなナナに俺は不満を隠すことなく溜め息を吐き出す。
 俺がコイツと付き合い始めて今日で丁度3ヵ月。なのにナナは付き合う前からの呼び方を一向に変えようとしない。誰かが居るっつうんならまだしも、二人きりの時でも相変わらず俺は“姫川くん”のままだ。


「お前まさか俺の下の名前知らねェとか言うんじゃねーだろうな」
「知ってるよ。“たつみ”でしょ」
「よし、歯ァ食いしばれ」
「ごめんなさい」


 笑えない冗談を口にするナナに拳を向けてやればさすがにまずいと思ったのか素直に謝ってきた。謝る位なら始めからやるんじゃねェ。もちろん俺だって本当に殴るつもりはなかったけどよ。


「……た、たつた…た」
「揚げ物みたいになってんぞ」
「……」


 やっと口を開いたかと思えば、出てきた言葉に溜め息がもれた。背凭れに背を預け、教室の低くて汚ェ天井を見上げる。たかが名前だろ?別に発音しづらい名前でもねェし、たった3文字だ。何をそんなに固くなることがあるんだか。顔を天井に向けたまま目だけでナナを見れば申し訳無さそうに頭を項垂れていた。
 本当は無理矢理言わせるようなことじゃねぇのは俺だってわかってんだよ。わかってんだよ、そんなことは。


「七野」
「え?」
「お前が俺の下の名前を言えるまで俺もそう呼ぶからな」


 じゃあ何故、何をこんなに必死になっているのかと問われれば、俺は焦っているのかもしれなかった。時が経てども変化の見れない関係に。俺と他の男との扱いに差が見つけられないことに。自分でもダセェとは思うが、この感情はどうしようもなかった。


「…なんか、ちょっと寂しい…かも」


 ナナの情けない声にちらりと視線だけを向ければ、大して中身の入ってなさそうな頭を重たそうに項垂れていた。
 しかしすぐに顔を上げるとキリッとした表情で一呼吸置いてぐっと拳を握る。そうして気合いを入れ直したナナだったが、いざ口を開けば出てきた声は酷く弱々しいものだった。


「た、たつ……や…」
「あ?聞こえねーよ」
「っ、……たつ、や…」
「…言えたじゃねぇか、ナナ」


 ぎこち無さは拭えないにしろ、まぁ、合格の範囲内だろう。無理矢理呼ばせた今の状況では感動もくそも無いが今日はきっかけを作れただけで良し、だ。
 苗字ではなく下の名前で呼んでやればナナはホッとしたような照れたような、そんな表情を浮かべる。


「やっぱ好きな人に名前を呼んでもらえるのは嬉しいね」
「…何でそんなこっ恥ずかしい台詞が吐けて、たかが名前でこんなに苦労すんだよ」
「……確かに!」
「変な女」


 帰るぞ、と席を立てば丁度目に刺さる眩しい光。思わず目を細め窓の外に視線を向ければ太陽は既に傾き始めていて。そんなにも長い間名前の呼び方についてなんて話をしていたのかと思うと何だか笑えた。こんな話題でここまで必死になる辺り俺もどうかしてるのかもしれねェな。


「ちょっとずつでいいから慣れろよ」
「うん、頑張るね!た、たつた…た…」


 再び揚げ物に逆戻りした自分の名前に、俺は苦笑しながらナナの頭を乱暴にかき混ぜた。







   






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