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 回してみて、止めてみて。
 わたしがその言葉に従って地球儀をペチペチやると、零くんさんはわたしの正面にある場所を覗き込み、タブレットを操作してストリートビューを見せていってくれた。
 なるほど、地図旅行のハイテク版みたいなものである。インターネッツのぱわー恐るべし。しかしなにより恐るべしなのは零くんさんだ。

「ここはハンガリーだね。首都はブダペスト。ルービックキューブは知ってるかな? こういう、四角くてカチャカチャ動くパズル。それを発明したのはこのハンガリーの人なんだよ。千年以上昔から温泉の文化もあって、温泉の湖があったりするんだ――」

 零くんさんは人間ぐーぐるもかくやといった風に、どこを指しても地図の文字を読む素振りもなくぱっと国名を当て、その国の特徴を何も見ずにすらすらと言い上げていくのである。
 言葉で分かりづらいものなんかは、説明と一緒にタブレットで画像や動画を探して見せてくれたりもして、どれも零くんさんの言と相違なく、あっそれ零くんさんゼミで習ったやつだ! ってな感じにその発言を裏打ちしていった。敬意をもってれいぺでぃあさんと呼んだほうがいいかもしれない。

「ほら、これ」

 零くんさんが再び、操作し終えたタブレットを、わたしが画面を見やすくなるよう傾けた 。
 そこに映るのは、きらきらと光る湖面と、その上に浮かぶように建つヨーロッパ風のおしゃれな建物。
 鮮やかな青空や澄んだ水の色に、湖を囲うように生える背の高い木々も相まって、なんだかファンタジーの世界のような景色だ。

「きれい……」

 ついつい間抜けな顔をして、間抜けな声でこぼしてしまう。
 あんまり外国に行ったことがないもので、見る画像見る画像どれもこれも新鮮に映る。ネットで簡単に外国の風景が見られるとはいえ、そういう事をやったことも、そもそもやろうと思ったこともなかったのだ。
 それに、まず湖というのも見たことがない、ような気がする。行ったことがある水辺と言えば、秀一さんと行ったハドソン川や、みんなでフェリーに乗って渡ったなんとか湾くらい。
 少なくとも画像を見た限りデジャヴもなくはじめてのような感覚なので、わたしは他にこういう景色を知らないのだ。――多分。

「実際に目で見てみるともっと綺麗だよ。温泉だから浸かったりもできるし、気に入ったならいつか行ってみても良いかもね。ありすちゃんのお願いなら、お父さんも二つ返事でOKしてくれるよ」

 これまでの和やかな調子をそのまま頷こうとして、動かしかけた首が固まる。

「――」

 自分が何に頷こうとしたのか分からなくなった。かけられた言葉の意味をさっぱりと理解出来ていないことに気づいたのだ。
 ただただ、一つの単語が頭を占めていた。

 “お父さん”

 それを自覚した途端、ぽんと、脳裏に別の言葉が浮かび上がる。

 “血の繋がった父親”
 “きみの体には、アカイの血が流れているのか?”

 過去に耳から入り込み仕舞われた記憶は、まるで傍で本当に鳴っているみたいに、今まさに言われているかのように、音を伴って蘇る。
 そして、それを皮切りにしてか、連鎖的に湧いて出て、くるくるくるくると、頭の中を、あるいは胸のうちを巡りだした。

 “他にあるのか、帰る場所が”
 “二度と会うことは出来ない”
 “あの人のこと、好き?”
 “いつも人より先を見てるの”
 “他人の手を借りてもいい”
 “思っていることは口に出してくれ”
 “せめてそれを隠さずにいて”
 “産みの親も育ての親も捨て”
 “ビュロウはデイケアじゃない”
 “必ずしも仲良しにはなれないわ”
 “親の罪悪は子に継がれていく”
 “寂しかっただろう”
 “探し当てられないんだよ”
 “少しずつで構わないから、考えてみるといい”
 “どれか一つである必要はない”
 “積み重なれば確実に君の血肉となる”

 ――“約束する”

「……れーくん」
「なんだい?」

 ――言ってみようか、と。
 そんな思いがふわりと湧いた。
 もしかしたら、そうすることで形が分かるかもしれない。名付けられるかもしれない。道筋が見えるかも知れない。

「あ、あのね」
「うん」
「――しゅーたん、おとーさんじゃ、ない」

 幼い声が響くのと、殆ど同時か、直後と言ってよかった。
 カチャリという軽い音と共に開いた扉の向こうから姿を見せたのは、秀一さんだった。


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