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 抱えられて入室したジェイムズさんの仕事場は、いつもご飯を食べるのに使っている会議室より何回りか狭く、それでもわたしにとっては充分に広い部屋だった。
 秀一さんたちの使うものと違って、エグゼクティブデスクというのかプレジデントデスクというのか、木製の立派なデスクがやや奥側の中央にドンと鎮座していて、その背後には鉢植えの観葉植物と柄つきの星条旗とが左右の隅に置かれている。壁を飾るのは、えふびーあいのロゴマークや、ファイルの詰まった棚や、シックな額縁に収められたなにやら前衛的な絵画などなど。広く取られた窓のブラインドの隙間から差し込む光で、表面がピカピカと輝いてみえる。
 好きに見て回れとでもいうように、ジェイムズさんは一度わたしをおろし、わたしがそろそろと壁沿いに歩くのを穏やかな瞳で見守り、そこらにあるものの簡単な紹介や話をしていった。絵画の作者やその生まれ故郷、観葉植物の種類、それにいつも水をやってくれる人の名前、州の数だけ星が光るという国旗について、たまに掃除が不十分でブラインドを動かすと積もった埃がきらきらと舞うことや、この部屋の前の主のこと。

「たまに、未だもったいないと思うことがある。あの人はただ、為した正義を正義として知らしめるのに、場や相手や言葉が、少しばかり足りないだけだった……」

 あらかた喋り終えてジェイムズさんが漏らした、机に視線を落としながらのそれは、ぼそりぼそりと、ほとんど独り言のようなもの。決してわたしに向けてのものではなかったのだろう。
 その証拠に、ジェイムズさんは何事もなかったかのように表情と声をころりと明るくして、ひらりとわたしを抱き上げ、

「こちらへどうぞ、レディ。特等席だ」

 そう言って、これまた上質そうななめらかな革張りのハイバックチェアに腰掛け、膝の上にわたしをぽんと乗せた。確かに、こんな椅子を使う人の膝の上に座れる機会なんてきっとめったない、特等席と言えるだろう。
 ジェイムズさんはくるりと椅子を回してデスクに向かわせると、いつのまにかそこに置いていた絵本の一冊を取って、わたしの目の前で開いた。
 体を包まれるような体勢のおかげで、またあの香りがふわりと鼻を擽る。柔らかく甘みがあり、ほんのりお香を思い出させるような、落ち着いた香り。触り心地のいい皺の少ないスーツと相まって、すごく上品な大人という感じがする。うーん小学生並みの感想。

「どうだね、こっちは読んでみたかな?」
「う、うん」

 ジェイムズさんがぺらりとめくって見せたのは、ポジティブネコちゃんの続き物だ。
 絵本の中でも、このネコちゃんのものはあの帽子のお騒がせネコちゃんのものよりもページ数も文字数も少ないので、読むのが簡単で周回も楽なものだから結構な回数開いていたりする。全部が全部毎回ちゃんと読んでいるのかと言われるとそうではなく、ただ眺めているだけの時もあるのだけれど。

「歌は?」

 これには首を振った。絵本の方はホームズのように朗読ではなく、主に単語一つ一つを教えて貰う形だったし、秀一さんは歌詞らしき部分もふつうに平坦に読み上げていたのである。

「ではこの前言ったボタンの歌を教えてあげよう」

 ジェイムズさんはそう言うと、絵本の一ページ目に戻って、歌以外のところもとっても情感たっぷりに読んでくれた。
 低くて渋い声が頭上から降ってきて、それだけに留まらず部屋に響く。

「×××××××××、×××××××××」
「ま……まぃ、ばーとん、まぃばーとん」

 ジェイムズさんが待ってくれるタイミングで真似して歌えば、よしよしといった風に頭を撫でられた。
 お気に入りの服のボタンがなくなっていってしまっても、泣かずにゴキゲンに歌うネコちゃんのお話。今度の歌はちょっぴりテンポが早くて跳ねるような調子のメロディだ。ボタンだいすき! すてき! ってな感じのものだ。相変わらずとってもポジティブである。
 いいなあ、なんて、思わず声に出てしまった。

「……この猫がうらやましいのかね?」

 不思議そうに訊かれて、自分でも何言ってるんだとは思うものの、言ってしまったからには仕方ないと頷く。

「あ、あの、まえむき……」

 するとジェイムズさんは、ふむ、と少しだけ考えるようにしたあと、わたしの体をジェイムズさんの体の片側に寄るようちょっぴりずらし、上体を傾けてわたしの顔を覗き込んできた。

「もし見た目であれば難しいが、心のあり方なら、君も彼のようになれる可能性がある」
「かれ」
「そう」

 He、といって、ジェイムズさんは絵本のネコちゃんを指さした。

「失ったものに対して、悲しんだり悔しがったりせずに、ただ失ったのだということだけ受け止めて、それはそれとしてそっと置いておくんだ。そうして今持っている、手元にあるものへと目を向け、そちらには感情をのせて着飾ってやる。素晴らしいとか、好きだとか、嬉しい気持ち、弾む気持ちのものをたっぷりとね」

 ジェイムズさんが唇を動かすと、鼻下にたくわえられた白いお髭がもしゃもしゃと揺れて、ついついそっちに目が釣られてしまう。
 わたしの視線に気づいてか、ジェイムズさんは軽く苦笑した。は、話はちゃんと聞いてます。聞いてるはず。

「ようするに、極力要らぬ引き算をしないことが肝心である、という話なんだが」

 ぱらぱらとページをめくり、ジェイムズさんが指さしたのは、最初のあたりのページだ。大きく書かれた数字の下、簡単な数式。秀一さんに読み方を習ったやつである。

「ふぉー、まいな、わん、いこー、すりー」
「これは語り部のものだな。彼が歌って数えたのは?」
「え、えと……すりー、ぐるび、ばとん」
「そう、素敵なものだけだ。――些細なことではあるが、そういう考え方は積み重なれば確実に君の血肉となり、君を、君が抱えたぶんだけ、その感情の示すところへと導くだろう」

 つまり、お砂糖スパイス素敵なものいっぱい、ぜんぶ繋ぎ合わせたらわたしだけのネックレスやパズルが出来上がる的なことだ。たぶん。女らしくなるのには日々の研鑽が重要なのである。

「が、がんばる……です」

 鷹揚に頷いて、ジェイムズさんは、「ではあちらの“彼”にも協力してもらわねばな」と言い、ゴキゲンそうにボタンの歌を歌い始める。目線で促されて、わたしもそれに声を合わせた。


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