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 夕食後、一足先に洗ってもらって、秀一さんがシャワーを浴びている間にテレビでニュースを見るのも、ちょっとした日課である。
 とはいえリスニングもリーディングもさっぱり上達の兆しがみえず語彙力も壊滅的なのは相変わらずなので、ただただぼんやり眺めているだけなのだけれど。住んでみれば覚えるなんて都市伝説でした。glhfとggさえ言えればいいというのも都市伝説でした。わたしの頭が一等悪いだけという可能性がとっても高いことに関してはそっとしておいて欲しい。

『×××××、××××××――』

 なんて言ってるんですか先生。知らんけどキャスターのお姉さんがきれい? それはわたしも分かる。スタイルもいい。
 うーんなるほどー、なんて分かってるポーズだけやっていたら、あがってきた秀一さんにばっちり目撃されてしまった。


「ありす」

 わたしのしったかコメントを華麗にスルーして隣に座った秀一さんは、わたしをひょいと持ち上げてやや横向きで膝に座らせた。
 ひょいひょい抱えられるのはいつものことだけれど、こういう体勢になることはめったにないのでちょっと落ち着かない。どこにどう力を入れて良いのか分からずにいたら、秀一さんはちょっぴり太ももをあげて、秀一さんのお腹や胸と腕にもたれ掛かる形になるように、わたしの体を少し傾けた。そこまで力を入れてはいなさそうなのに、それらの筋肉の硬い感触が伝わってくる。本気でギュッと強張らせたらカチコチになるんじゃなかろうか。
 秀一さんは、テーブルに置いていたタブレットを左手で取り、わたしにも画面が見えるように持つと、右の二の腕や肘の内側あたりでわたしの背を支えながら、右手の先でついついっとフリックしてロックを解除した。
 続いて数度軽い操作を行って、秀一さんが表示させたのは、綺麗な建物の画像だった。

「ありすはどういう家が好きだ?」
「い……いえ?」

 キラキラとしたガラスの眩しい高層建築物。秀一さんの指がスッとそれを横に押しやると、今度は先程の建物のエントランスらしい写真が表示された。

「正直に言って、ここは安全とは言い難い。男一人で住むだけだからと、あまりそういう点を考えずに決めたからな。ベッドが置けて、シャワーがあって、煙草が吸えて、管理会社がそれなりにまとも」

 確かに安かろう悪かろう上等の新社会人でももう少し条件をつけそうな気がする。

「もっと広くて綺麗で、ちゃんと破りにくいつくりの鍵や建物で、悪い人が入ってこないように見張ってくれる人や、訪ねてくる人や郵便物の管理をしてくれる人がいる家がある。眺めのいいところや、遊ぶ場所の近いところや、お店の多いところも。きちんと条件を満たす家を選べば犬でも猫でも兎でも飼えるし、日本風がよければ布団や畳を置いたり改装してもいい」

 まるでホテルのようなぴかぴかの玄関やキッチンやバスルーム、おしゃれなインテリアが配置されていたり、壁と床だけのまっさらな状態だったりする室内、トレーニングマシンがずらりと並ぶジム、芝生の植えられたデッキや屋内プール、空とビルの上部しか見えないような窓なんかの写真が、秀一さんの指の動きに合わせて切り替わっていく。
 ゆっくりとしたペースであるのは、ただ一通り見せたいというわけではなくて、画像がどういうものを示しているのかを認識させるためだろう。その言葉通りなら、その中にわたしの気にかかるものがないか、伺ってくれているのだ。

「これなんかはどうだ?」

 そう言って手を止めた秀一さんが見せた画面に映し出されたのは、先程までのものと同様、綺麗なガラス窓がずらりと並ぶ、周囲よりも頭いくつも高くすっと伸びた建物の画像。


「やだ」


 ――響いたのは、かたく幼い声。

 ぱちりと瞬いた緑の瞳に見つめられて、「そうか」と静かに返されて、ゆるりと頭を撫でられて、ようやく、それがわたしの声だったということに気づいた。

「ならどういうのがいい?」
「あ、あれ、ち、ちがう……うそ……」

 そんなことを言うつもりも、言ったつもりも全くなかったのだ。
 唇が勝手に開いて、喉が勝手に震えた。
 わたしの了承もなしに、わたしを置いてけぼりで、まるで、わたしの体ではないみたいに。

「これは嫌だと思うことは挙げておくべきだ。時に他の良い所を帳消しにするほどの困りごとになり得るからな」

 そもそも、秀一さんが言ったように、秀一さん一人で住んでいる分には何の問題もなかったことなのだ。わたしはただ置いてもらってるだけでもありがたいし、今だって不満はひとつもない。秀一さんが決めたところならどこだっていい。

「あ、あの……わたし、どこでも……」
「どのみちここは住むには不適当だ。せっかくならいろいろ見に行ってみて、二人で決めよう」

 首を振るわたしに、小さく笑むような息を漏らして、秀一さんが言う。

「家は特に実際住んでみなければ気付かない点もある。まあ、すぐさま出なければならないというわけでもないし、万が一移った先が気に食わなければまたそれよりも良いところを探せばいいだけのことだ」

 それから秀一さんは、わたしを宥めるようにして軽く姿勢を崩した。自然揺らいだわたしの体を、ほんの少し強めた力で抱く。

「ただ、家の話に限ったことじゃなく――嫌だと思うものや、不思議だと思うことについて、少しずつで構わないから、考えてみるといい。それの正体が分かれば、今よりは戸惑わずに対峙出来るし、もし嫌なことであった場合、逃げたり避けたりすることで、同じ思いを味わわずに済む」

 大きな手が、指の背で、やわりとわたしの頬を撫でる。ここが濡れていたときのことを思い出させるように。結局秀一さんが戻ってくる頃には乾いていたけれど、話は聞いたんだろう。
 さっきの声もわたしなら――あれも、わたしのものなのか。


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