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「あーっと、じゃあ、灰原はその子と……」
「隣の部屋にいろ」

 少し声を迷わせた工藤さんの言葉に続けて、秀一さんはそう言い寝室の方を指差した。どうやらオトナの話だかオトコの話だかがあるらしい。

「はいはい」

 灰原さんは、それにしょうがないわねとでもいった風に息をついて、わたしに「行きましょ」と笑った。
 ちょっとまってーと開きっぱなしだった絵本を回収して抱えてから、灰原さんに手を引かれて寝室へと移動する。
 扉を閉める前、秀一さんの方を伺うと、パッと目が合った。
 何やら複雑そうな顔をしていたような気がするけども、実のところそんなこた全くなくておうどん食べたいとか考えていたのかもしれない。相変わらず、秀一さんの表情はいまいち読めない。
 扉を閉めて間もなく、その向こうで二人が話し出す声が聞こえる。どちらも滑らかな英語で、何の話なんだかはさっぱりわからない。工藤さんも英語が第一言語なんだろうか。さっきまで日本語だったのは、灰原さんに合わせて?

 ひとまず立ったままもなんだからと、小一時間前に抜け出たばかりの少し高いベッドに並んで座る。
 わたしより幾分背のある灰原さんはひょいと軽くお尻を乗せて、足は付かないまでも揃えて下ろし、スカートをそれに合わせて整えた。遊具にでもよじ登るようだったわたしとは大きく違い、とても上品な所作だ。

「ごめんね、急に来て」

 灰原さんは眉を下げてそう言った。

「なるべく早く来たほうがいいといえばいい用事ではあるのだけれど……工藤くんたら体がすぐ動いちゃうタイプなのよ」

 思いついたら即行動、明日やろうは馬鹿やろう、兵は拙速を聞く、未だ巧の久しきを賭ずというやつですな。どちらかといえばなまけもの寄りのわたしからしてみれば素晴らしい心がけである。
 秀一さんはともかく、わたしは全然気にしてないですよーと首を振ると、そうしてぱさぱさ揺れたわたしの髪に灰原さんが手を伸ばした。

「起きたばっかりだったの? 寝ぐせがついてるわ」
「あ、え、えと……ちょっとまえ、おきた……」

 指摘されてはじめて、そういえばいつも髪はほとんど寝起きのままだと気づく。
 ちょっと自分でもびっくりである。バルサンでも焚かれたのかという女子力の死滅っぷり。秀一さんもそういうところはあんまり見ていないのか気にかけていないようで、一切何も言われたことがないのだ。
 恥ずかしくなって手癖でかしかししていたら、灰原さんは、ちょっと待ってね、と言って肩に掛けていたポシェットを外して膝に置いた。女児向けのポップでファンシーなものではなく、縫製のしっかりとした、落ち着いたデザインのものだ。

「きれい」
「このバッグ? フサエっていうブランドのなの」
「ふさえ……」
「見た目もいいけど、作りもいいのよ。ありすちゃんもいつか使ってみるといいわ」

 バッグからポーチを、そしてその中から小さなヘアブラシを取り出して、灰原さんは丁寧な手つきでわたしの髪を梳いてくれた。
 バッグもポーチもヘアブラシも、どれももっと大きいお姉さんが持っていても違和感がなさそうな、大人っぽいアイテムばかり。見てみて、と掲げてくれたミラーも、シンプルながら洗練されたロゴの入った、手触りのいいものだ。ずいぶんお洒落さんのようである。センスと女子力の圧倒的な格差を感じる。
 心の中で脱帽しつつ覗き込んだ鏡面には、ちいさな女の子が映っていた。
 まだ小学校にも入っていなさそうな、灰原さんよりぐっと幼い顔立ち。
 思い返せば、こうして今の自分の顔をまじまじと見るのははじめてだ。なんだか自分じゃないような気がするような、そうでもないような。鏡に向かってお前は誰だと言い続けると知らない人に見えてくるというけども、今やったら本当に分からなくなりそうである。
 それはさておき、抱えていた絵本と先生を膝に置いて髪に触れてみると、先ほどと手触りが明らかに違った。今度からちゃんとしたほうがいいかもしれないが、果たしてこの家にヘアブラシがあるんだろうか。少なくとも秀一さんが使っているところは見たことがない。手ぐしかな。

「ありがと、です」

 どういたしまして、と笑ってから、灰原さんはブラシやミラーを仕舞い、わたしの膝へと視線を落とした。

「それ、あの人が買ったの?」

 あの人、とは、秀一さんのことだろうか。

「う、うん……」
「へえ……そーいうことは出来るのね」

 灰原さんが、腕を組んで、先生と絵本をじっと見つめる。その視線は値踏みするようで、なんだか監査というか、まるで姑さんのような雰囲気である。

「あの……はい、はいばら……」
「哀でいいわ」
「あ、あいたん」
「なあに?」
「えと……しゅーたん……ともだち?」

 思い切って聞いてみると、灰原さん――哀さんは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、それから気が抜けたようにふっと軽く息を吐いた。

「そう見える?」
「え、えと……その……あんまり……」
「でしょう? ちょっと違うわ。出会ったのは昔あの人が仕事で日本に来た時なんだけど……色々複雑なの。説明が難しいから、詳しいことはまた今度話すわね」

 不意に、哀さんが声を潜める。

「――ありすちゃん、あの人のこと、好き?」
「え」

 い、一体どういう流れなんだろう。
 その面差しは、これまでよりも真剣みが増していて、冗談や揶揄で聞かれた風ではない。わたしが秀一さんを好きかどうかが、何かしら哀さんに関係があるのだろうか。勿論身の回りの人たちがお互いにどう思っているかは、確かに把握しておいたほうがいいことだろうけれども、ただそれだけではないような感じがする。
 好き嫌いかといえば、そりゃあ嫌いなわけがないし、好きじゃないのかと問われればノーなので、

「…………す、すき……」

 に、なるけれど。
 おずおず頷きながらそう言えば、哀さんは、そう、と相づちを打ち、すっと目を細めて、どことなく切なそうに微笑んだ。


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